「麻央さんとは違う」車椅子シングルマザーが在宅でがん治療をするという現実

元CM制作プロデューサー、現在は乳がんの骨転移による下半身麻痺で在宅療養中の久野美穂さん(37)は、がん闘病中の人や家族が集う場で出会ったのを機に、私が取材を続けてきた女性だ。歌舞伎俳優の市川海老蔵さんの妻でフリーアナウンサーの小林麻央さんと同じ30代で、「ステージ4」(がんの進行度による分類で、もっとも進んだ段階)の乳がんを抱えながら子育てしていたところも一緒。麻央さんが生前綴っていたブログを読んでいた彼女は、「子どもの前では母親でいなければと麻央さんが奮起する姿は、自分と重ねて見ていました」。

一方で、「庶民とは違う麻央さんの闘病生活がスタンダードと思われたら……」と違和感も感じたという。2年前に離婚してひとり親になった美穂さんは、病魔と闘いながらも子を養うために働き続けてきた。だが、昨年には会社から解雇され、間もなく失業保険の受給期間も切れる。そんな彼女が遭遇した、「年齢の壁」や障害福祉と子育て支援制度の「エアポケット」とは?

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「ステージ4」の乳がんを抱える久野美穂さん。長男の碧星くんが学校から帰宅すると、ベット上で宿題をみる。「激烈に働いていた頃は子どもの寝顔しか見られない毎日でした。今になって、親子の時間を取り戻しているんですかね」

会社からは「治る見込みのない人は雇えない」と解雇された

美穂さんと初めて会ったのは昨年10月だった。その頃には、彼女は骨に転移したがんの影響で歩くのが難しく、家の中でも杖をつきながら家事をこなしていた。常時ちょろちょろ動き回る長男・碧星(かいせい)くん(7)の世話もやっとやっと、という状況が続いていた。

乳がんと診断されたのは2013年。翌年には骨転移が見つかった。親戚や知人の資金援助を受け、複数のがん病巣を同時に治療できる高精度な放射線治療に挑み、約30カ所あったがんが7カ所に減った。 治療を乗り越え、2015年1月にCM制作の現場に復帰した。

「体調が戻ったら、またフルスロットルで働いてしまって……」

この時期に美穂さんが手がけたCM作品は、オンラインの動画コンテストで協賛企業賞を受賞した。だが、多忙を極めた美穂さんと当時の夫のとの生活がすれ違い、顔を合わせればけんかが増えた。同年10月に離婚した。

やがて、数カ所残っていたがんが増殖し病状が悪化。昨年9月には正社員として勤めていたCM制作会社から解雇を通告され、退職した。痛みで顔をしかめる姿を息子に見せぬよう、モルヒネ(医療用麻薬)が効くまでの間はいつも家のベランダでへたり込んでいた。休職を申し出たところ、会社側からは「CM制作は体力がないと。君の休職中に人の工面も必要だ。いつまでに治るという見込みのない人は雇っておけない」と告げられた。

ぐしゃりと崩れ込むように自宅で倒れたのは、今年2月末のこと。この時点では脊髄と腰椎のがんが進行して下半身が麻痺し、約3カ月にわたり入院して家を離れなければならなかった。

ママの留守を待つ間に、碧星くんは小学2年生に進級した。

ママの退院を待ちわびた息子と介護ベッドで添い寝した

美穂さんの入院中は、近所に住む実母(68)に碧星くんの一切を委ねざるを得なかった。母は看護師としてフルタイムで働いている。入院中に「1日も早く帰らなきゃ」と、以前よりも強い抗がん剤治療と、放射線治療に耐え、リハビリ訓練に励んだ。その思いはママを待ちわびる息子を思う気持ちが半分、老齢の母がこのままの生活を強いられたら持たないだろうという心配が半分だった。

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全てを人頼みにするのではなく、自分で体の構造を理解した上で、「自力でもう一度立ちたい」と病院でもリハビリに励んだ。個人用のFBで募ったところ、たくさんの医学書や人体図鑑が寄せられた。

人体図鑑を読みあさってまでリハビリに取り組んだ甲斐があり、足の指先がわずかに動いたときには「人生で一番泣きました。もう、一生足の感覚も戻らないのかと絶望していましたから」。

ベッドから自力では起き上がれず、常に介助を必要とする生活にはなったが、5月中旬に退院。埼玉県越谷市にある3LDKの賃貸マンションで息子との二人三脚生活を再開した。美穂さんは、碧星くんの部屋も見渡せるリビングを療養場所に決めた。

玄関を開け目に飛び込んでくるのは、窓際の介護ベッドに横たわる美穂さんの顔。ランドセルを背負って帰宅した碧星くんが「ただいま」と帰ってくれば、ベッド上の彼女がアイコンタクトで「おかえり」と声をかける。帰宅した初日は、狭い介護ベッドに潜り込んできた息子と飼い犬のクッキーと川の字になって寝たという。

4〜5人が交互に訪問してくる日常に息子は家を飛び出した

結婚。出産。乳がん告知。再発。離婚。失業——。美穂さんは、まるでジェットコースターのように人生の局面をすり抜けてきた。今は子を支える側でもあり、下半身麻痺の身体障害者としては支えられる側でもある。

在宅療養への移行手続きも、一人で切り盛りしている姿を垣間見たのは、入院中の病室だった。退院を間近に控え、病室のベッドのサイドテーブルには、複数の介護事業所や訪問看護ステーションとの契約書が束ねて置いてあった。聞けば、「退院したその日から、一定の間隔で途切れずに介助の方々に入ってもらえるように」と複数の業者に電話をかけ、交渉を続けてきたのだという。病室には福祉用具の業者が訪れ、自分にフィットするかどうか車椅子に試乗する光景も見た。仕事のようにバタバタした日常だった。

これほど入念に準備をしてきた美穂さんだが、がん患者であると同時に重度の障害者になったという現実は、退院直後から突きつけられた。1日に計4〜5人のヘルパーや訪問看護師らが交互に訪問してくる。「知らない人」が次々にやってくる非常事態の暮らしに耐えかね、碧星くんは美穂さんの退院翌日、学校から帰宅して何も言わずに家を飛び出してしまった。

その時は、彼がマンションの屋上にいるのを近所の人が発見して事なきを得た。

「歩けないと、息子を探しに行くことすらできない。こんな調子でどうやって子育てしていけばいいのか……」

食事づくりや排泄の介助を含めた「生活援助」に加え、理学療法士によるリハビリ訓練、週2回の入浴介助といった使える福祉サービスはフルに利用している。

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撮影時、「いつもはベッドからだけど、玄関を出て碧星を迎えられてうれしい」と美穂さん。

途絶えた収入。通院の介護タクシーも我慢する

それでも、夜の訪問介護は障害福祉のサービスの枠内では18時〜20時までと制限があり、夜間の緊急時には母に頼らざるを得ない。退院当初、老齢の母が美穂さんの体を支えながら排泄介助をしたが断念した日があった。夜中に市内に住む弟(35)を呼び寄せ、母と2人がかりで美穂さんの介助に当たった。母は必要に応じて美穂さんの家に通ってくる。仕事と娘の介護と碧星くんの世話とに追われる母の顔には疲労がにじむ。

「本音を言い合える親子だからこそ、ちょっとしたことが引き金になり衝突することもある。母から『この年になって、夜中に娘の介護オムツを買いに走る母親の気持ちが分かる?』と言われた時は、言葉も出ませんでした」

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メイクが好きで知識が豊富な美穂さん。試行錯誤して抗がん剤治療で肌が黒ずんだがん患者でも表情が明るく見えるメイク法を考案した。「今後はがん患者向けのメイク講座も開きたい」

出費は極力抑えてきた。昨年6月からは身体障害者手帳1級に認定され医療費は無料になったものの、介護にまつわる費用はかさむ。40歳未満では介護保険制度が使えない「年齢の壁」があるからだ。例えば、車椅子ごと移動できる介護タクシーを利用すると、片道1km未満の距離でも、介助料を含めて往復で約8000円の実費(市から支給される1回730円の補助はある)がかかる。

その他にも、介護ベッドや車椅子の購入費も、子育て中で収入が途絶えた世帯には痛い出費だ。

「節約」のため、外来で抗がん剤治療を受ける月2回の通院は、雨の日以外はヘルパーによる移動介助を利用することにした。炎天下、ガタゴト道を揺られながら往復40分も移動するのは、「正直言って身体にこたえる。特に抗がん剤投与後はキツい。でも背に腹は変えられない」。

障害福祉と子育て支援の「エアポケット」に

美穂さんには、仕事や生活が制限されている場合に現役世代でも対象になる「障害年金」(美穂さんは会社員時代に厚生年金加入していたため「障害厚生年金」)が支給されている。現在は2級に該当し、毎月約12万円が支給されている。さらに、障害年金の「子の加算」として、子どもがいる家庭は上乗せがある。

その代わり、ひとり親家庭に支給される児童扶養手当は支給されない。 障害福祉と子育て支援という「制度間のエアポケット」にもぶち当たった。 子が食べる食事の用意や子が汚した服の洗濯など、「子どもの支援」のためのホームヘルプサービスを新たに実費で頼むのなら、「お金がいくらあっても足りない」。

美穂さんは自力でベッドを離れられないため、冷蔵庫に行って息子にジュースを注いであげることすらできない。それなら、せめてホームヘルパーの訪問時間内は子の世話も一緒に、と思っても、ヘルパーの業務の範疇では、食事なら大人一食分だけを用意し、洗濯機を回すのは本人の衣服だけというのが原則。福祉サービスの場合、ヘルパーは、ケアの対象となる本人以外の家族の世話は原則的にしないよう定められている。障害者になった親である自分を支える福祉制度はあっても、障害者の親が育てる健常な「子」への支援制度が見当たらないのだ。

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抗がん剤治療で立つのもやっとの体で通勤していた頃、バッグに着けたままにしていた妊婦さんのバッジをみた乗客が席を譲ってくれたことがあった。「あの時は救われました」

息子の食事は近所の人に差し入れをいただいたり、美穂さんがネットスーパーで惣菜を注文して届けてもらったり、自分が残した夕食を分けてあげたり。その場しのぎでやりくりしている。

「息子の生活全般をみてもらうもう一つのケアが必要だと、市の子育て支援課に相談したら、『障害福祉課へ相談してみてください』と。逆に障害福祉課に相談したら、『それは子育て支援課へ』と。結局、私みたいなケースは想定されていないんだとわかりました」

「ママの作ったピーマンの肉詰め、いつ食べられるの?」

自分が仮にいなくなっても自活できるようにと、上履きの洗い方などは息子に教えてきた。ママができないことが増えた分、碧星くんは何でも手伝う。でも、まだ小学2年生。時には甘えたいこともある。ある日、「いつになったらママのピーマンの肉詰め食べられるの?」。それを聞いた美穂さんは「車椅子で料理を」と思い立った。本当は料理ができるほどの体力はないし、車椅子では狭い台所に入ることができない。

久野美穂さんが息子につくったピーマン

車椅子で作った碧星くんの大好物。

撮影・久野美穂

それでも抗がん剤でダウンしている期間を避け、ヘルパーのシフトを考慮しながら日程を調整し、7月上旬に美穂さん特製の肉詰め料理が実現した。

コルセットをして車椅子に座る姿勢では包丁を持つ手にうまく力が入らず、切るときにはヘルパーに手助けしてもらった。 自分の味付けで下ごしらえしたところで、オーブンで焼いてもらう作業はヘルパーにバトンタッチ。2回分の訪問時間をまとめるイレギュラーなシフトで1時間の制限時間をフルに使い完成した。息子が7つも8つもパクつく姿を見て、彼女は「よしっ」と心の中でガッツポーズした。

小林麻央さんが自宅に帰った時、多くの報道では「終末期緩和医療としての在宅療養」と位置づけて伝えていた。一方で、「私の場合は、車椅子の生活になったけれど、元気になったからこそ平常に戻れた退院」と美穂さん。入院して強い抗ガン剤治療に切り替えてからは、がんが縮小し、痛みも取れ、モルヒネも使わなくなったという。

「脚の麻痺はあっても、気力、体力ともに元の状態に戻りつつあると感じています」

ハローワークで求職開始。「該当なし」の現実をどう超えるか?

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送り迎えができなくなり、スポーツ少年の息子が続けてきた習い事の一つは辞めさせた。大好きなサッカーだけは、遠くまで徒歩で通う息子の頑張りで続けさせている。

2016年2月から越谷市の地区センターで月1回開いている「みなみこしがや子ども食堂」の活動はボランティアスタッフと連携して続けてきた。献立作りから食材の手配、イベントの企画まで、ベッド上でできることはすべてこなし、当日も車椅子で出かけて行く。今年6月は100人以上が集まり大盛況だった。ただ、食事を準備するボランティアがてんてこ舞いだったため、7月からは「泣く泣く」50人までと人数を区切って予約制にした。わざわざ自転車で30分もかけて隣町から食べに来る親子もいる。リピーターも多い。「美穂さんあっての活動」「病気を少しも感じさせない統率力のあるリーダー」とボランティアらからの信頼は厚い。

そんな美穂さんが今、最も逼迫しているのは経済的な不安だという。会社から解雇されてからは、障害年金と失業保険の給付が「命綱」だ。けれども、この9月で失業保険(雇用保険の失業給付)が切れ、「貯金切り崩し生活」がスタートする。働いていた頃に借りたマンションの家賃を払い続ける生活は厳しい。家賃が安い公営住宅への引越しも検討したが、エレベーターがなく、車椅子で外出も困難だとわかり断念した。

生活保護を受けることも考えた。ただし、貯蓄が底をついているということが給付の前提だ。まだ幼い息子の将来を考えると、最低限進学できるぐらいの貯蓄は残してあげたい。

「難しい天秤だけれど、とにかく今は働かないと、と焦っています」

失業保険の認定日にハローワークを訪れる度に仕事の相談をしてきたが、失業保険の「期限切れ」を前に、職探しでスパートをかけている。

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アスリートのように「ヤアッ、ヤアッ」と大きな声で自ら掛け声をかけ、麻痺した下半身のリハビリに励む美穂さん。週2回理学療法士が訓練のため自宅を訪ねてくる 。

「働く気は満々」なのに、ベッド上から動けない以上は、在宅の仕事が前提だ。ところが、在宅の仕事は重度身体障害者の雇用を想定しているわけではないため、「月1〜2回の出勤」といった条件がつく。その度に、往復8000円の介護タクシー代を払うのでは収入と見合わない。

障害者枠でも探してみたが、「クッキーづくり。時給100円」といった知的障害者向けの仕事や、体を使って働く軽度障害者向けの仕事が多く、重度身体障害者向けでベッド上で働けそうな求人は見当たらなかった。

長年、がん患者の就労支援に携わってきた社会保険労務士の近藤明美さんはこう指摘する。

「障害年金を受けている人が働いても問題ありません。ただ、抗がん剤治療の影響などで制約がある人が実際できることと、企業側の受け入れとが合致しないと雇用にはつながらない。がんの『ステージ4』といっても、一人ひとりの状態も診断後の経過もさまざま。私見にすぎませんが、 今までは、そういうステージの方が働けないというイメージが強かったり、体力低下で実際に働けなかったりで、雇用に結びつきにくかったのかもしれません。けれども、がん医療の進化とともに、もう一度働きたい、働かないと、というケースはこれから増えてくるでしょう。雇用や社会保障の制度も時代に合わせ、もう少し柔軟に運用できたらいいですね」

(撮影:馬場磨貴)

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