高学歴駐在妻のアイデンティティ危機——夫の転勤でキャリア中断、先の見えない中葛藤する

高校時代の友人があるとき、「駐在妻になりたい」と言い出した。自身の父親が銀行員で、タイに住んでいた時の母親の幸せそうな姿、家族の思い出が心に焼き付いているそうだ。父親と同じ一橋大学法学部を出て大企業に就職しながら、彼女は専業主婦そして駐在妻であった母の姿をも追っていた。しかし、高学歴女性が増える中で駐在妻は憧れどころか、葛藤を生み出すものになりつつある。

シンガポールの風景

Payap Yutithamsahtit / Shutterstock.com

私自身、今年4月に駐在妻としてシンガポールに来て、はじめの3カ月はいろいろと考える余裕もなく子どもたちとの生活基盤を整えようと奔走した。子どもの学校を選び、住む場所を決め、必要な生活用品をそろえ、子どもの学校に付き添い、子どもの夏休みの過ごし方を決め……。4カ月目に入り、突如私を襲ったのは、marriage blueならぬ「settled blue」とでも呼びたくなる状況だった。

ようやくやるべきことが落ち着いたとたんに、ぽっかり穴があいたような気持ちになる。はて、私は何者であったのか。何のためにここにいるのか。この先何年、何をして過ごすのか。何もしないで終わってしまうのではないか。仕事もネットワークも、何もかも置いてきてしまって、立つ基盤は「夫の妻であるだけ」という事実に愕然とした。

キャリアのブランク、再就職への不安

結婚・出産・育児が退職の直接的な理由にならなくなってきた今、配偶者の転勤は、それまでの仕事や生活の在り方を抜本的に変えることになる一大要因となりつつある。特にそれまで仕事があることが当たり前になっていた女性は、ここでアイデンティティの危機を迎えるのだと思う。

配偶者の赴任に帯同するために稼ぎがなくなるというだけで自分の足で立っている感覚がなくなる。家事や育児、子どもの教育のための情報収集や決断に夫の参画を求めようにも、夫も異国の地への赴任で余裕がなく、しかも日本では使えた「私だって同じように働いているんだから」というロジックが使えなくなる。

シンガポールの公園

シンガポールで平日の夕方、子どもを公園で遊ばせる母親やメイドたち

海外とは言っても、ただ暮らしているだけでは大して言語は上達しないし、日本人とだけ交流していても生活が成り立ってしまうような都市も多い。キャリアは刻刻とブランクになり、戻った時に再就職ができるか、休職からの復帰がスムーズにいくかなど、不安に襲われる。メイドが雇えるなど子育ての環境自体は日本より恵まれているものの、子どもの教育面でのフォローなど、自分がやらねばと思うことも多い —— 。

こうした中、メンタルを病むケース、離婚するケースもあると聞く。とはいえ海外駐在妻、いろいろと恩恵を享受しているのも事実なので、駐妻たちは大変だとか不安だとか「高層コンドミニアムから飛び降りたいと思ったこともある」なんてことは「時効」になるまでなかなか口にしない。でも、Facebookの充実した海外子育て投稿の裏には、しんどい日々と先々への苦悩がかなりの確率で渦巻いているはずだ。

シンガポールのビジネス街

多様な人が行き交うシンガポールのビジネス街。

シンガポールの場合、赴任した配偶者の帯同ビザ(Dependant Pass)で滞在している駐在妻でも雇い主からLOC(Letter of Consent)という書類を得られれば働くことができる。また、リモートで日本の仕事をすることについては、MOM(Ministry of Manpower)という政府機関に問い合わせたところ、「国外の会社に在宅で勤めていて、その会社がシンガポール拠点を持っておらず、シンガポール国外の顧客に対してサービスを提供している分にはLOCは必要ない」という明確な回答を得ることができた。

A Letter of Consent (LOC) will not be required when:

1) You are working for an overseas company from home; and

2) The overseas company has no local presence; and

3) You are not meeting or providing services to clients in Singapore.

(著者の問い合わせに対するMOMの返信メールの一部)

そのため私の場合はこうして堂々と日本のメディアに寄稿することができるが、現地で何か始めようにも、国によっては就労許可が必要だったり、前例が少ないためにそもそも白なのか黒なのか当該国担当者も分からなかったりする。

夫の会社ブロックや「奥様会」の同調圧力

こうした妻の動きには夫の会社が難色を示すケースや、「奥様会」の同調圧力で人目を忍んでやらざるを得ないという話も聞く。夫がNYに転勤したある女性は、フリーランスでの仕事を試みたが「前例がない」という理由で夫の会社から許可が下りなかった。自分が選んで働いていた会社ならともかく、夫の会社にブロックされるとやるせない。

私の周りにいるシンガポールにいる駐在妻たちは自分の稼ぎがない中で、現地の物価の高さもあり、子どもを預けたり一時帰国をしたりするのはあくまでも夫の会社の補助が出る範囲にしている。セレブで優雅な駐在妻のイメージというよりは、夫の会社のさまざまな仕組みに行動を制約されている側面がある。

そもそも赴任がどれくらいの期間なのか、帰国がいつになるのかが明確である人にほとんど会ったことがなく、「1年で帰るかもしれないけど、過去には7年いた人もいる」「前任者が他国にスライドしたのでうちもなるかも」という曖昧な見通しで渡航している家族も多い。ビジネス環境や組織改編によって左右されるということは理解できるが、家族側の計画は極めて設計しづらい。

なぜ妻たちは越境MBAに通うのか

そんな中、妻たちもキャリアブランクをあけないため、大学院に行くなどさまざまな挑戦を試みている。

私の知る限り、駐在妻として滞在しながらNYで米弁護士資格を取得した事例、名門校のMBAに通った事例のほか、この夏にはなんと夫がアフリカ転勤になった女性が配偶者帯同休暇を使いながら同行し欧州の通信教育MBAで学ぶ、夫のタイ赴任に育休を利用して帯同した女性が月1回シンガポールのエグゼクティブプログラムに通うなどの驚きの越境事例もでてきている。

働く女性

日本ではバリバリ働いていたという駐在妻も多い。

こうしたアグレッシブな事例には、「いいご身分」「なんのための育休?」と眉をめる人たちがいることも事実だ。でも、私の勝手な分析ではあるが、彼女たちは周囲を出し抜こうとか、駐在妻の立場をフル活用しようとしているわけではなく、アイデンティティのためにもおそらくある程度のネームのある所属先や、その期間に成し遂げたことが必要なのだと思う。

数としては少ないだろうが、妻の赴任に合わせて海外に渡航し、ついでに大学院で学位を取ってきましたという男性が責められていることを聞いたことがない。どうして女性ばかりが大人しく駐在妻をしていないといけないのか。

「そういう事例が出てくると、自分も何かしなくてはと思って焦る」という女性の立場もわかるが、もはや海外に来てグローバルな多様性の中にせっかく放り込まれているのだから狭い日本の尺度で比べるのはもう止めたいものだ。

女性の赴任に配慮する企業も

これまで海外転勤に関する制度設計について多くの企業を取材してきたが、夫婦で同じ会社に勤めている場合に、できるだけ片方の異動に合わせて同じ国への配置をするケース(P&G)や、従来は男性の転勤を前提としてきた費用補助等の規定を見直し、母子赴任などのサポートをしはじめた事例(三菱商事)なども聞く。こうした配慮が、先進企業の社内婚や女性の赴任時だけではなく、男性の赴任のスタンダードになってほしい。

確かに負担が多い分、配偶者へも手当が厚く、その妻たちが働き始めること等を会社側は想定していないのだろう。しかし、そもそも赴任する本人に十分な準備期間があり、セットアップや子どもの教育に頭を使う余裕があれば、配偶者のサポートを前提とする必要はなく手当も薄くていいはずだ。

冒頭の一橋法学部卒の彼女が結婚した相手は商社勤務…ではなく、建築事務所から独立して起業。「不安定だし私も働き続けないとね」「仕事は最近面白くなってきた」と、最近たのもしい。そもそも、日本で普通に働きながら子育てができれば、彼女のような高学歴女性が駐在妻にあこがれる必要もない。

駐在妻というものに付随する独特の憧れも、独特のジレンマも、生み出すのは男性の働き方、転勤の在り方である。企業はグローバル人材を育て多様性の価値観を許容しようというのであれば、極めてローカルで古典的な転勤の在り方を見直し、少なくとも、半年程度前に内示をする、赴任直前直後や滞在国の祝日等はしっかり有給を取れるようにする、赴任期間の目途を持ちやすくする、配偶者の就労を阻害しない等の施策を進めてしてほしい。

(撮影:中野円佳)


中野円佳(なかの・まどか):1984年生まれ。東京大学を卒業後、日本経済新聞社に入社。育休中に通った立命館大学大学院時代の修士論文をもとに2014年9月『「育休世代」のジレンマ』を出版。2015年4月株式会社チェンジウェーブ入社、東京大学大学院博士課程入学。厚生労働省「働き方の未来2035懇談会」委員などを務める。2017年4月よりシンガポール在住フリーランス。東大ママ門、海外×キャリア×ママサロンなどを立ち上げる。2児の母。

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