パトロール中に銃撃を受け、タリバン兵に銃を向ける米海兵隊員(2009年8月28日、アフガニスタン南部のヘルマンド州)。
(AP Photo/Julie Jacobson)
アフガニスタンにおける戦闘任務は2014年に完了したにもかかわらず、ドナルド・トランプ大統領は先月、戦争で荒廃したアフガニスタンに駐留する米軍を増強し、アメリカ史上最長となる戦いを継続すると述べた。
アフガニスタンにおける戦いは16年間続いている。かつて「不朽の自由」作戦(Operation Enduring Freedom)と呼ばれたこの戦いは、「確固たる支援任務(Resolute Support)」へとその名称を変えた。米兵の犠牲者は2403人にのぼり、タリバンやアルカイダの戦闘員の死者数も数千人規模となっている。アフガニスタンの無数の民間人も命を落としている。
トランプ大統領は、具体的にどの程度の米兵を追加派遣するのか、明らかにしなかったが、約4000人を計画していると複数のメディアが報じている。アフガニスタンには現在、8400人が駐留している。
2001年9月11日、国際武装組織アルカイダのメンバーがアメリカで航空機4機をハイジャック。2機がニューヨークのワールドトレードセンターに、1機が国防総省(通称ペンタゴン)に突入し、1機がペンシルベニア州に墜落した。3000人近くが死亡した。
崩壊するワールドトレードセンターから逃げる人々。2001年9月11日、ニューヨークにて。
AP Photo/Suzanne Plunket
ハイジャック犯の中に、アフガニスタン国籍の人間は1人もいなかった。しかし、ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)は「対テロ戦争」を宣言。アルカイダと、アフガニスタンのタリバン政権に匿まわれ、支援を受けていたオサマ・ビン・ラディンをその標的に定めた。
REUTERS/Larry Downing
「不朽の自由」作戦は2001年10月7日、タリバン軍への空爆によって始まった。
アフガニスタンに大量の爆弾を投下するB-52爆撃機。
U.S. Air Force/Master Sgt. Ralph Hallmon/AP
アメリカとイギリスは、アフガニスタン侵攻に向けて空爆を続けた。
カブールの北にあるバグラム空軍基地の警備にあたる海兵隊員(2002年3月2日撮影)。
REUTERS/Mario Laporta
2001年11月上旬、少数の特殊部隊の兵士がアフガニスタンに派遣され、北部同盟とともに戦った。北部同盟は、結束力の緩い反タリバン勢力だ。
DoD-Handout/Reuters
出典:ニューヨーク・タイムズ
北部同盟は、その大半がゲリラ兵と、1996年のタリバン政権発足時に除名された軍人で構成されていた。ロシアとイランから支援を受けていたが、訓練は不十分で、団結も強くなかった。
アフガニスタン北部のチャラトイ(Charatoy)付近での戦闘を終え、前線から戻ってきた北部同盟の兵士たち(2001年10月10日撮影)。
Gleb Garanich/Reuters
アメリカとイギリスは、カブールの北でタリバン軍に大型の爆弾を落とし続けた。
タリバン軍への爆撃。立ちのぼる土埃や煙を眺める北部同盟の兵士たち。2001年11月1日、アフガニスタン北部にあるアイ・ハヌム村近郊のカラカタの丘にて。
Vasily Fedosenko/Reuters
空爆によって弱体化したタリバンは、やがてカブールの支配を失った。残されたのは、家を失い、飢えに苦しむ多くのカブール市民だった。国連の世界食糧計画(WFP)は2001年12月8日、過去最大規模の食料配給をカブールで開始した。
WFPの配給に集まってきたカブール市民たちに対し、秩序を維持しようと木の枝を振り回すアフガニスタン人の警備員(2001年12月8日撮影)。
Peter Andrews/Reuters
タリバン軍は2001年12月、最後の拠点カンダハールを放棄した。カブールの南東に位置するトラボラの山岳地帯は、ビン・ラディンが潜伏していたとされる場所で、米軍のB-52爆撃機が2週間にわたって空爆を実施。タリバン軍は崩壊したが、ビン・ラディンはタリバンの最高指導者ムハンマド・オマル師とともに逃亡した。
戦車の隣に立つのは、アフガニスタン東部で戦う反タリバン勢力の地元兵(2001年12月28日、アフガニスタン北東部トラボラの山岳地帯にて)。
Enric Marti/AP
出典:ニューヨーク・タイムズ
2001年12月22日には暫定行政機構が立ち上げられ、ハーミド・カルザイ氏が議長に就任した。
就任式を終えた暫定行政機構のハーミド・カルザイ議長(2001年12月22日、カブールにて)。
Brennan Linsley/AP
2002年3月、アフガニスタン軍と米軍は「アナコンダ作戦(Operation Anaconda)」を開始した。シャヒコト渓谷(Shah-i-Kot Valley)にいた800人近いタリバンとアルカイダの兵士を一掃するための作戦だ。2001年12月にトラボラの山岳地帯で実施した作戦以来、初めての大規模地上戦だった。
上空を旋回する米軍の輸送用ヘリコプター「CH-47(チヌーク)」(2002年3月5日、アフガニスタン東部パクティーアー州ガルデーズにて)。
Reuters
アナコンダ作戦は当時、アフガニスタン紛争始まって以来の、最も激しく血なまぐさい戦闘となった。
米軍が攻撃した野営地付近。アルカイダもしくはタリバンの兵士の遺体の横を米兵たちが通り過ぎる(2002年3月16日、アフガニスタン東部のシャヒコト渓谷の「Whale(クジラ)」と呼ばれる山頂にて)。
Reuters
2003年5月、当時の国防長官ドナルド・ラムズフェルド氏は、アフガニスタンにおける主要な戦闘任務は終了したと発表した。同日、ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)は、イラクでの任務についても「完了した」と宣言した。
記者の取材に応じるドナルド・ラムズフェルド国防長官(写真右)。2003年5月2日、ロンドンのヒースロー空港にて。
Michael Stephens/Reuters
イラク戦争が始まり、アメリカの特殊部隊を含む重要なリソースは、アフガニスタンからイラクへと振り分けられた。それを察知したタリバンは、一斉に反撃を開始、勢力を回復した。これは数年間、続いた。
アフガニスタンのカブールで開かれた式典に出席する元反政府組織の兵士たち(2006年2月5日撮影)。
Ahmad Masood/Reuters
タリバンの反乱にもかかわらず、アフガニスタンでは2005年9月18日、36年ぶりに総選挙が実施された。
投票所となったモスクで、総選挙に投票した後、染めた指先を見せるアフガニスタンの女性たち(2005年9月18日、カブールにて)。
Zohra Bensemra/Reuters
総選挙を実施したにもかかわらず、タリバンは勢力を増し、カルザイ大統領は二枚舌の信頼できない指導者との評価を得た。アフガニスタンは以前の状態に戻りつつあった。2009年2月には、就任したばかりのバラク・オバマ米大統領が、アフガニスタンに1万7000人を増派すると発表。「悪化の一途をたどるアフガニスタン情勢の安定化」を目指した。
REUTERS/Kevin Lamarque
出典:CNN
2009年10月3日、タリバン兵300人が、アフガニスタン東部の山間部に展開する米軍の拠点を襲撃した。この戦いで米兵8人、タリバン兵およそ150人が死亡。アフガニスタン紛争における最大規模の戦闘となった。
アフガニスタン東部にあるキーティングの拠点近くをパトロールする米兵(2009年1月24日撮影)。
Bob Strong/Reuters
オバマ大統領は2010年6月、駐アフガニスタン米軍司令官だったスタンリー・A・マクリスタル(Stanley A. McChrystal)氏を更迭した。『ローリング・ストーン』誌が、マクリスタル氏の側近が匿名でオバマ大統領を侮辱したと報じた後のことだった。マクリスタル氏の後任には、デビッド・ペトレイアス(David Petraeus)陸軍大将が就任。反政府組織の鎮圧作戦を引き継ぎ、成功を収めた。
REUTERS/Massoud Hossaini/Pool
しかし、この紛争に特効薬などない。2010年9月に実施された総選挙では、票の水増しや有権者に対する弾圧が発覚し、その正統性が問われることとなった。再集計が命じられ、最終結果が発表されたのは10月31日だった。
総選挙の候補者とその支持者たちの抗議行動(2010年11月7日、カブールにて)。
Ahmad Masood/Reuters
しかし、アフガニスタン紛争におけるアメリカの勝利を象徴する出来事は、すぐそこに迫っていた。米軍は2011年5月2日、パキスタンを急襲し、アルカイダの指導者ウサマ・ビン・ラディンを殺害した。オバマ大統領はビン・ラディンの死を「我が国のアルカイダ掃討作戦において、これまでで最も意義深い成果だ」と述べた。
ホワイトハウスのシチュエーションルームで、「海神の槍」作戦(Operation Neptune Spear)の進行状況を見守る国家安全保障チーム。この作戦によりビン・ラディンは死亡した。
Wikimedia Commons
出典:ニューヨーク・タイムズ
しかし、アフガニスタンでの戦闘はその後も続いた。2011年8月6日には、東部のワルダク州で米陸軍の輸送用ヘリコプターが反政府組織によって撃墜され、アフガニスタン兵7人と米海軍特殊部隊(ネイビーシールズ)の隊員30人を含む38人が死亡した。
撃墜されたヘリコプターとほぼ同型のCH-47(チヌーク)が離陸するところ(2011年8月26日、アフガニスタン東部の監視拠点にて)。
Nikola Solic/Reuters
出典:ロイター
2012年5月、オバマ大統領はアフガニスタンでハーミド・カルザイ大統領と会談した。アフガニスタンの指導者となって10年、アメリカの政策立案者の間でカルザイ大統領の評価は低かった。両大統領は戦略的パートナーシップ協定に調印。オバマ大統領はその後、バグラム空軍基地を訪問し、2014年末までに戦いを終わらせることを誓った。
オバマ大統領の演説に聞き入る米兵(2012年5月2日、カブールにて)。
Kevin Lemarque/Reuters
出典:ホワイトハウス
2012年の再選時の公約を果たすべく、オバマ大統領は2013年から2014年末にかけて、アフガニスタンの駐留兵を約3万4000人削減した。アメリカの戦闘任務は、正式には2014年12月28日をもって完了した。
NATOが主導する国際治安支援部隊(ISAF)の旗を手にする司令官のジョン・キャンベル(John Campbell)陸軍大将(2014年12月28日、カブールで行われた任務修了の式典にて)。
Omar Sobhani/Reuters
NATOによる「確固たる支援任務(Resolute Support mission)」のため、1万3000人の兵士がその後も駐留、アフガニスタン治安部隊の訓練と助言を行うことになった。駐留兵の大半はアメリカ人だった。
訪問中の米陸軍准将クリストファー・ベントレー(Christopher Bentley)氏に、アフガニスタン国家警察の警察官たちが訓練の様子を披露した(2014年12月16日、ナンガルハール州にて)。
Lucas Jackson/Reuters
出典:NATO
「確固たる支援任務」は、2015年1月1日に始まった。以来、米兵の47人が死亡、54人が負傷している。
ヘルマンド州のキャンプ・ショラブ(Shorab)で行われた権限移譲式典で整列する米海兵隊員(2017年4月に撮影)。
Thomson Reuters
戦闘任務が正式に終了した2014年末以降も、オバマ前大統領はアフガニスタンに9800人の米兵を駐留させた。2017年までにその数を5500人まで削減する予定だったが、タリバンの巻き返しにあい、その計画は変更された。
アフガニスタンには現在、8400人の米兵が引き続き駐留している。
Thomson Reuters
数カ月にわたる検討を重ねた末、トランプ大統領は8月21日(現地時間)、アフガニスタンでの戦いを継続し、駐留米軍のプレゼンスを強化すると発表した。増派する兵士の具体的な数については明言しなかったが、複数の主要メディアは約4000人を派遣する計画だと報じている。
Carolyn Kaster/Associated Press
[原文:Here's how the longest war in US history has unfolded]
(翻訳:遠藤康子/ガリレオ)