「これからの渋谷」とその先の渋谷文化のこと:長谷部健 渋谷区長

長谷部健 渋谷区長

長谷部健 渋谷区長

長らくユースカルチャー、カウンターカルチャーの代名詞だった「渋谷カルチャー」は、今、存在しているのだろうか? この数年、渋谷界隈(少なくとも自分の周り)では、駅前開発への期待や、都市の作り方といったビジネス、インフラ、テクノロジーの分野での話題が増えたことは、渋谷という街が現実的でジャパンスタンダードな近代化に向かっていることを象徴しているのだと言える一方、その代償として、渋谷が長年撒いて育ててきた独特の特異性は、徐々に削り取られながら、「渋谷カルチャー」が衰退した、将来が見えづらくなっているというような話は、ずっと言われてきている。

この2017年において、「渋谷カルチャー」には、何が残っているのか? どんな未来には何が期待できるのだろうか? その答えを探るべく組んだFUZEの渋谷特集に登場する一人目は、渋谷区長・長谷部健さんだ。長谷部区長へのインタビューで、新しい渋谷カルチャーの作り方、希望や価値観、そして「ストリート」のことを聞いた。


—— まず始めに、渋谷の「クリエイティブな街」「カルチャーの発信地」のイメージはどこに要因があると思われますか?

長谷部健(以下、長谷部):大きくクリエイティビティが強くなってきたのは、僕は戦後からだと思っています。その大きな要因は、原宿の存在です。


僕が原宿生まれだということもありますが、原宿駅周辺の歴史を紐解いていくと、大正時代(1920年、大正9年)に明治神宮が建てられた頃に遡ります。特に、戦後は闇市からどんどん発展していって、エリア一体が凄く勢い付いていました。戦後の復興の中で、ビルが増えてきて、会社も集まってきたり、その中で最初は生活に必要なビジネスから始まったのが、「一旗揚げてやろう」とか、徐々にファッションやクリエイティブな分野で仕事をする人が増えていったんです。一方で、原宿の両側には新宿と渋谷というハブとなる駅が存在しました。「成り上がろう」と思った人の多くは、新宿や渋谷周辺は土地代が高いから、家賃が安いエリアに集まリ始めるんです。その時代に最適だったのが原宿だったというのが、一つの見方としてあると思うんですよ。

例えばファッションだと、僕らの父親やその上の世代は「マンション・メーカー」と呼ばれていたんです。マンションの一室でパターンを起こしていて、ヒットした人が路面に出ていってブレイクしていく流れですね。

なぜ、原宿周辺にクリエイターたちが集まりだしたかの話に戻ると、明治神宮と参道の関係という要因もあります。戦後、「ワシントンハイツ」(建設1946年、解体1964年)という米軍将校の宿舎がGHQによって代々木周辺に作られ、明治神宮や原宿、表参道近くでアメリカ兵や関係者向けの店や建物が増え始めたんです。ラフォーレ原宿の裏にある教会(SDA東京中央教会、建設1952年)もその流れだし。ですが、表参道は「参道」という和の文化も残したんですね。その後、東京オリンピック(1964年)が来て選手村が出来て、そこから代々木公園になっていきましたよね。そうした流れの中で、そのエリアは和と洋の文化がうまく混ざり、「ミックスカルチャー」の文化が生まれてきたのです。そして、それが上手く引き継がれてきました。だから、渋谷周辺で色々な文化が多様に混じり合う要因は、歴史的に存在していたからこそ、他のエリアとは違うクリエイターが集まりやすいエリアになっていったと僕は思いますね。


—— 長谷部区長が体験された、渋谷文化を象徴する出来事やモニュメントはありますか?

長谷部:僕の体験だと、小学校の時に、「竹の子族」「ロカビリー族」が街にいたこと。ちょっと尖った人たちが集まってきた時代。今振り返ると、僕にとってはその体験が「ストリートカルチャー」との出会いだったんです。その他は、高校の頃に「アメカジ」が流行りだしたり、僕は渋カジ世代だけど、原宿から始まったファッションが渋谷に寄って行き始めた時代だった気がしますね。

モニュメント的なモノだと、僕世代になると、やっぱり「ラフォーレ原宿」(開業1978年)が出来たことですね。小学校1年の時ですよ。街がどんどん賑やかになっているなあ、と気になり始めましたね。竹下通りが通学路だったんですよ。クレープ屋が出来たり、雑貨屋ができたり、タレントショップが一気に増えた時期もありましたね。何か特徴的なキッカケで街が変わるというよりも、つねに変化している街な印象のほうが強いですね。


—— 博報堂時代に担当されたタワーレコードを担当されて「NO MUSIC, NO LIFE.」キャンペーンに関わられていた時代は、渋谷文化に対してどんな印象を感じていらしたのですか?

長谷部:「NO MUSIC, NO LIFE.」のキャンペーン自体は、僕が担当する以前に出来上がっていたんですよ。そこから担当が変わって僕が引き継いだ経緯があるんです。なので、自分が作ったという感覚は全く無いですし、楽しみながらあのキャンペーンをやっていたというのが本音です。ただ、タワーレコードのカウンターカルチャー系やインディーズ系を推す文化は、原宿的に見たら普通に感じられた。

僕は小6の頃に、小林克也さんの『ベストヒットUSA』を見始めて、「友&愛」に行ってテープにダビングしてみんなで回し聴きしたりしてました。そういう空気がタワレコにはあったし、共感しやすかったんですね。CD屋さんというよりも、レコード屋さんの空気があるでしょ? 多分、あのキャンペーンに出てくる渋谷系のミュージシャンの方たちも、70-80年代の音楽に多大な影響を受けてきた方たちだと思うし。


—— NPO法人の「green bird」での活動は、タワレコがやっていても違和感を感じさせない内容で、それはカルチャーの発信地としてのタワレコのイメージと合致しているからかと思いました。

長谷部:green birdを立ち上げた直後は、「こういう良い事はタワレコっぽいですね」と言われましたよ。タワレコもフェスでゴミ拾いをやっていたので、重なる部分はあると思います。

元は表参道の青年会がやっていたゴミ拾いに人を集めてプロモーションしていくと同時に、捨てない人を増やす活動を始める意味で、企画書を作ったんです。最初はNPOにするつもりも全く無かったのですが。でも、企画書を書きながら「これならスポンサーが付くだろう」と思いました。そこからですね、タワレコにも声をかけましたし。

最初に賛同してくれたのは、サントリーさんなんですよ。サントリーが乗ったことで、一気に色々な企業が参加し出して。ですので、green birdでは最初に賛同してくれたサントリーとタワレコの存在は大きかったですね。でも、サントリーさんの宣伝部長さんが変わったらサントリーさんの契約は終わっちゃったんだけどね(笑)。やっぱり、タワレコも「ストリート」なんだよね。ゴミ拾いって、まさにストリートでしょ(笑)? そういう相性の良さも合ったのかなと思いますね。


—— 今の渋谷で、ストリート発のムーブメントや、ローカル志向のカルチャーはどう見ていらっしゃいますか?

長谷部:以前よりも、若い人が外で過ごすことが普通になった気がしますね。コンビニでお酒買って、外で飲んでる人達とかいるよね? 道に座ったり迷惑かけるのは駄目だけど。そして、渋谷ではみんなお店がファッションビルに入っていきましたよね。でも「やっぱり路面がいい」って店舗を戻してくる人がいたり、そういう人が増えてきたり。そういうところに、渋谷のストリートを感じてくれている気はしますね。

僕としては、この街にこれから大きなビルができて、そこから新しいカルチャーは生まれると思ってます。でも、ストリートを大事にしていく感覚は大事にしたいです。ビルの上で生まれるカルチャーと、ストリートやアングラで生まれるカルチャーが混ざってこそ渋谷らしさだと思います。

だから、ホコ天とか復活させたいですね。例えば、2016年のハロウィンでは車両の通行規制がありました。結果的には、道路を歩行者に開放したほうが警察の皆さんも警備がしやすかったはずです。あとハロウィンの時のセンター街とかに区民、ほとんどいないと思うんですよ(笑)。渋谷駅前のカウントダウンもそうだけど、何もしないでただ騒ぎに対して受け身になるんではなく、例えば秩序のあるイベントにしていけば、スポンサーやボランティアが集まって、渋谷らしく課題が解決できてるのかなと思うんだけど、そういう行政の発想もストリート発だから。渋谷らしさにはこだわっていきたいな。


—— 企業と街が一体化してカルチャーをバックアップする素養を渋谷は持っていると思いますが、今後はどうなっていくと思いますか?

長谷部:今後も続いていくし、僕からもお願いしています。例えば、東急グループが今年作った「渋谷キャスト」なんて上の階にクリエイターが住めるアパートメントを入れたり。東急の野本(弘文)社長は、渋谷の将来を「エンタテイメントシティ」とおっしゃっていたり、僕は「クリエイティブシティ特区」と呼んでいるんです。だから、二人で重なる部分が多い。エンタメだけじゃなくてクリエイティブやイノベーションなど、色々な創発が行われる街にしていきたい。

行政レベルでは、例えば、日本には世界レベルなダンサーが多いけれど、ニューヨークとか海外に出ていくでしょ?でも、東京全体でやる場所が多くないのも事実。だから、ダンサーが使える場所をもっと増やしたいと思っています。例えば渋谷区内で、大中小を問わず、クラブとかギャラリーとかホールとかを付設した建物であれば、その分に応じた容積の割増をしてあげるとか支援したいたいと思う。そうすれば建て替えが進むし、ホールの効率も上がると思います。

他には、ストリートミュージシャンは東京都の大道芸の登録(ヘブンアーティスト制度)が必要ですけれど、例えばAEDを常備して操作の研修を受けたミュージシャンが増えれば、とっさの場合にそこにいる意味が出てくると思います。そうやって許可を出していくとか、方法はあるかもしれないんです。行政は文化を作れませんが、土台を作ることはできる。そういう形で手助けできればいいと思います。

渋谷区にクリエイティブやエンターテインメントを増やすための整備が備えられればいいですよね。僕は「ロンドン、パリ、ニューヨーク、渋谷区」ってよく言っています。それは例えば、海外の留学生が大学で国外を目指す時、ロンドン、パリ、ニューヨークを目指すのと同じように、クリエイティブを求める時に「東京・渋谷」を選択肢にしていきたいんです。

外資系企業のアジア本拠地がどんどんシンガポールや香港などに移って、ビジネスとして成功するには、そういう国や都市に人が呼び込まれていくと思います。だったら、東京は今アドバンテージになる「カルチャー」の創出や発信を研ぎすませていかないと今後は難しいと思っています。その役割を渋谷区が背負っているとくらい思っています。

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(...続きは『FUZE』の記事「これからの渋谷」とその先の渋谷文化のことで!)

FUZEより転載(2017年9月25日公開の記事)

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