パナソニックやソニーなどの企業が人材開発に採用する「アイデア理論」。その生みの親である福井直樹さん(46)は、2005年の創業以来、会社の「あり方」を考え続けてきた起業家だ。3人で設立したミクル株式会社が社員10人という規模を拡大せず、働く場所も自由、社員が会うのは月1回だけという仕組みで10以上の事業を運営し、海外展開までできるのかなぜか。
女性たちがおしゃべり感覚で利用できるミクル掲示板。ミクル株式会社ではこれ以外にも10ほどの事業を展開している。
写真:今村拓馬
“あらし”がいない匿名掲示板
現在、ミクルの社員数は10人。創業時からの事業、女性向け匿名掲示板「ミクル掲示板」と「お悩み掲示板」は、ユニークユーザー(UU)750万の国内有数のサービスに成長している。
投稿者の話題で多いものは恋愛と育児。通常、掲示板での不適当な書き込みは通報を受けたサイト運営者が削除するが、ミクル掲示板ではユーザーの投票で削除される(このシステムは特許取得済)。以前から匿名掲示板は存在したが、“あらし”も多かった。
「女性が携帯でおしゃべりする感覚で利用できるものがなかったので、ユーザーが自治する掲示板なら利用しやすいと考えた」(福井さん)
同社にはもう一つ、人気掲示板がある。マンション購入者向け情報交換掲示板「マンションコミュニティ」と、戸建て購入者向け情報交換掲示板「e戸建」だ。こちらも合計で月間250万人が訪れる、同種のサービスとしては日本最大の掲示板。
月間250万人が利用するマンション購入者向けの掲示板「マンションコミュニティ」。
「マンションコミュニティ」は福井さん自身がマンション購入に失敗し、「一生に一度の買い物をするときに身近に相談できる人がいないのはおかしい」と感じたことから始めた。当時、不動産に特化した掲示板サービスは日本にはなかった。マンション業者にとっていい情報も悪い情報も、ユーザーにとって有益で「悪意の無いもの」であれば削除しなかった。
ミクル掲示板を始めた当時、すでにあった匿名掲示板はPCサイトが主体だった。まだガラケー時代だったが、ミクル掲示板は携帯に特化し、初めて携帯公式サイトに登録。絵文字を使えるようにしたことで、女性が気軽に携帯で情報交換したいというニーズを掘り起こした。
同社の掲示板サービスは2007年、Googleの公式ブログ上で、アジアの企業として初めてアドセンスの有効な活用事例として紹介された。
仕事をしたことがあるか友人かで採用
同社は現在、10以上の事業をたった10人の社員で運営する。フィードの貼り付けサービス「FeedWind」などアメリカを中心に積極的に海外展開もする。なぜこんな少ない人数でこれだけのサービスを展開できるのか。
福井さんたちが20〜30代で設立した同社も、今は社員平均年齢は42歳、全員家族がいるので「家族優先」を掲げる。
写真:今村拓馬
福井さんは、「インターネットの活用で“お金持ちよ”りも、“時間持ち”が新たな価値を生み出す」と考えている。資本より時間の使い方が成功のキーになるという考えだ。創業以来ずっとオフィスレス、どこでいつ働くか、休むかは社員自身が決める。
「世の中に既にあるサービスは手がけない」「営業禁止」「多忙禁止」「期限のある仕事禁止」「家族優先」「副業奨励」等々のユニークな方針がある。社員の前職を見るとオラクルなど名だたるIT企業出身も多い。
新卒採用はせず、「社員の誰かが過去に一緒に仕事をしたことがあるか、何年も友人である人しか採用しない」。ミクルのカルチャーに共鳴して入社した主要メンバーはこれまで誰も会社を辞めていない。
社員が会うのは月1回の合宿だけ
住居費は会社が負担し住む場所も働く場所も自由。社員は東京、鎌倉、名古屋、大阪、神戸、石垣島など好きな場所に住み、全員集まるのは月1回の合宿の時だけ。その合宿も「ずっとこの会社を支えていこうという意識を合わせる機会」であり、具体的な仕事の話はほとんどしない。
労働時間が管理されないリモートワークは、結果的に長時間労働になることがある。しかし、ミクルでは社員に作業労働を禁止している。各社員は担当プロジェクトの責任者として意志決定に集中する。ヤフーを辞めてミクルにジョインしたイ・ジェホンさん(45)は、「余暇時間は以前の勤務先に比べると格段に増えた」という。
同社が展開する事業にはそれぞれ責任者(福井さん以外の社員)がいて、さながら企業の経営者のように担当する事業の予算を設計し、事業に必要な人材の募集・採用などマネジメントだけを行う。作業ワークは、個々の責任者が採用した100人を超す外部スタッフに任せる。個々のプロジェクト(=事業)には通常、複数の社員が参加し、社員同士、社員と外部スタッフは必要に応じミーティングするが、福井さんは「月に一度、月次決算確認するだけ」で社員には報告義務もない。
取材はイトーキが運営し、ミクルも利用しているオフィススペース「Synqa」で。「イトーキの掲げる『コミュニティが生み出す結果こそが最大の価値』という考えに共感している」と福井さん。
写真:今村拓馬
誰も辞めることがない会社をつくりたい
企業というより共同体のようなミクルだが、創業前の福井さんの成功のイメージは今とは少し違っていた。
「母子家庭で育ち、11歳のときには人生を逆転させるためIT起業家になるこを目指していました」
神戸大学の夜間コース(現在は廃止)で経営学を学び、昼間は勤務先でプログラミングを学んだ。「お金を支配したいとの思いから寝食を忘れて働いた」結果、26歳で広告モデル型無料メーリングリスト事業の会社を設立し、2000年に楽天に売却。2003年にも、自らが起業したIT企業を売却した。
2度の企業売却という成功を手にしたにもかかわらず、「これは自分が望むこととは違う」と感じた。「会社を売ると売却益を得られるが、仲間はばらばらになる。今後は信頼、信用、尊重できる仲間と誰も辞めることがない会社を作りたい」と思ったことがミクルにつながる。
ミクルの各種サービスには大企業からの買収オファーが来るが、福井さんはことごとく断っている。「自分が考案し今後も育てたいと考えていたアイデアが他の出資者に十分理解されなかったため、売却を阻止できなかった」という思いから、「アイデアを可視化し自在にコントロールするために『アイデア理論』を研究したい」と思うようになったという。
アイデアとは人の欲求を満たすモノとコト
ミクルが設立2年目で軌道に乗ると事業運営は社員に任せ、アイデア研究に没頭する日々が続いた。
ひらめき財団のワークショップで使う欲求カード。
写真:今村拓馬
いまでは大手企業の研修や就活、婚活にも活用される「アイデア理論」は“アイデアを可視化すること”に力点を置く。
「アイデアは0から生まれるものではなく、すでにあるアイデアをベースに生まれ、分解し理解することが可能です。その逆の作業を行うことで、新しいアイデアを自在に再編できるのです」
福井さんはアイデアの成功の鍵を握る“人の欲求”にたどり着き、「アイデアとは人の欲求を満たすモノやコト」だと定義した。
「人間というのは24時間、欲に支配されているのに、その欲求のことさえ分かっていない」
このアイデア理論を広め、活用してもらうために、「ひらめき財団」を設立し、代表を務める。財団のワークショップでは、基本的な19の欲求が記された「欲求カード」を使う。参加者は、自分の中で優先順位の高い欲求のカードを選ぶことで可視化し、他の参加者が選んだカードと見比べる。
「欲求を可視化するコトで、より多くの人が大切にしている欲求に気付ける。そうすると、誰でもアイデアが思いつけることが実感してもらえる」
例えば、ある企業で社員の中に《家族》《時間》《承認》《束縛回避》といった欲求を上位に置く人が多ければ、在宅ワークでも昇進可能な人事制度の重要性に気付くことができる。ユーザーとしての視点に切り替えると、今度は対外的サービスを考えるきっかけになる。ワークショップで、自分事としてアイデア出しを体験し、自分の中に眠っていたアイデア構想力に驚く人も少なくない。
「イノベーションは単なる技術革新ではなく、身近に存在する欲求に気付くことから始まるのです」
(文・桑原和久)
福井直樹(ふくい・なおき) :ミクル株式会社代表取締役CEO、ひらめき財団代表理事、大阪大学経済学部特任研究員。NTT勤務を経て、広告モデルの無料メーリングリストサービスを創業し、2000年楽天に13億円で売却。その後創業したIT業務アウトソーシング会社は韓国上場企業に売却して日本法人の代表取締役に。2005年にeマンション、ミクル株式会社創業。2007年よりアイデア研究に従事し、2013年ひらめき財団を設立。