旧ソ連が打ち上げた世界初の人工衛星、スプートニク1号。
NASA
60年前の1957年10月4日、ソビエト連邦は世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功した。ピーピーとビープ音を鳴らし、約3カ月間、地球を1400回以上周り続けた人工衛星に、アメリカをはじめとする西側諸国は「スプートニク・ショック(クライシス)」と呼ばれるパニックに陥り、米ソの宇宙競争を加速させていった。
当時のアイゼンハワー米大統領は、スプートニク打ち上げ当初に明らかな対抗措置を取らなかった。旧ソ連に対する競争を宇宙分野に拡大することで、宇宙までもが冷戦の舞台になり、第三次大戦への流れが拡大することを恐れたため、宇宙競争では「二番手」に甘んじたというのが通説だ。
これに対し、スプートニク1号打ち上げから60周年記念にあたる2017年10月4日、CIA(アメリカ中央情報局)は当時の旧ソ連人工衛星打ち上げ計画調査に関する440ページの文書を公開した。
この内容に、実に興味深い一説がある。CIAのレポートによると、ある女性分析官がスプートニクの打ち上げを「9月20日から10月4日の範囲内」と読んでおり、衛星の概要や打ち上げ射場の場所も掴んでいたという。
そこまでわかっていながら、アメリカは旧ソ連が先を越すことを許した。しかも人工衛星開発の計画はアメリカのほうが先に始めていたことは既知の事実だ。CIAの文書は、60年前にアイゼンハワー大統領にスプートニク・ショックを抑える行動を促せなかった情報機関としての自省を含んでいる。宇宙を駆けたスプートニクを巡って米ソの間で何があったのだろうか。
東西冷戦時代の「科学的な」宇宙競争
これまでに知られている事実では、スプートニク1号は、チュラタム射場と呼ばれた現在のカザフスタン共和国、バイコヌール宇宙基地から打ち上げられた重量82kgの球形の人工衛星だ。直径58センチの球形で4本のアンテナを備えたごくシンプルな形状だった。1958年1月4日まで3カ月間軌道上にあり、高度228~947kmの楕円軌道を1周およそ96分で周回していた。
スプートニク1号のモックアップ。
NASA
スプートニク衛星の打ち上げ計画は、公式には1956年1月から始まっている。1957年7月~1958年末までIGY(国際地球観測年)と呼ばれる国際的な科学イベントが行われることから、観測手段として人工衛星の開発・打ち上げを発表したのだ。アメリカはすでにアイゼンハワー大統領がIGYに向けて人工衛星開発を発表しており、両国による「科学的な」宇宙競争が始まっていた。
CIAが今回公開した文書によれば、「世界初の人工衛星の重要な意義を考慮し、コストを惜しまないのであれば、ソビエト連邦は1956年後半または1957年初めに衛星を打ち上げることができる」と相手の能力を評価していた。また、IGYの期限内に旧ソ連がアメリカに先んじて人工衛星を打ち上げるようなことがあれば、「アメリカの国際的な科学的名声にダメージを与える」「アメリカの精神的な敗北につながる」との懸念を持っていた。
1956年8月のCIA科学調査部門の報告書では、旧ソ連はロシア中央部から12~14機の人工衛星打ち上げを計画しているとされ、アメリカの人工衛星計画よりも大規模であるとの見解に達していた。
1957年1月の国家安全保障会議では旧ソ連の人工衛星打ち上げが議題となり、CIAは「打ち上げは1957年前半」との見解を示した。この時点ではまだ衛星や打ち上げ計画の詳細は不明だったのだが、4月になると状況が一変する。U-2偵察機からの情報により、新たな打ち上げ射場としてカザフスタンのチュラタム射場の存在が浮上した。旧ソ連はここでICBMを転用したロケットにより人工衛星の打ち上げを準備しているという。また、8月には旧ソ連がICBMの試験を行うことについても警告が含まれていた。
「スプートニク打ち上げ」を読み切ったCIAの凄腕女性調査員
6月になると、旧ソ連側の科学者から公然と人工衛星の打ち上げは「数カ月以内」といった発言が出るようになる。ただ、依然として詳細な日程は不明であり、CIAは想定される日付を「ソ連ロケット工学の父の生誕100周年にあたる9月17日」だと考えた。ロケット工学の父とは、コンスタンチン・ツィオルコフスキーのことだ。
7月に入ると、旧ソ連の科学者は初打ち上げを「9月または10月」と具体的な日付に言及するようになる。このときCIA内部には、ほぼ完璧な情報を掴んだ人物がいた。女性で初めてCIA海外支局長や理事などの要職につき、CIAの「トレイルブレイザー(先駆者)」表彰リストに名を連ねているエロイーズ・ペイジ氏だ。
女性初のCIA海外局長となったエロイーズ・ペイジ氏。
Central Intelligence Agency
ペイジ氏は後にインタビューで次のように述べている。
「1957年の5月までに、我々はスプートニクに関することは全て把握していました。打ち上げの角度、その日付もわかっていました。打ち上げは9月20日から10月4日の間に行われるでしょう。9月20日はソ連のロケット工学の父生誕100周年にあたり、10月4日はこの打ち上げ可能期間の最終日です」
実際にはツィオルコフスキーの誕生日は9月17日だが、それでもほぼ2週間の期間に予定日を絞り込んでいたことは驚愕に値する。
ペイジ氏は1947年のCIAの前身組織設立時からのメンバーで、南部ヴァージニア州の出身。サザン・レディーと呼ばれる慎み深く優雅な物腰を備えた女性だったが、カウンターインテリジェンスや対テロ活動の専門家でもあった。
職務の有能さから「鉄の蝶」「鋼の芯を持った完璧な南部の淑女」とも呼ばれていたという。知的で洗練されたペイジ氏は、米国内の地球物理学コミュニティとの間にしっかりした親交を持っており、ここから情報を得ていた。たとえば国際学会に出席した科学者から旧ソ連側の発言などを丹念に収集し、分析していたのだと思われる。
だが、ペイジ氏の報告は握りつぶされた。
当時、CIAの内部に科学技術情報委員会と呼ばれる小委員会があり、ペイジ氏の報告はこの委員会を通じて政府へと送られることになっていた。ところが、委員長であったホワイト大佐は報告の送付を拒否。理由は「ソビエト側から得た公式発言に基づく情報は信用できない」からだという。ペイジ氏は再三に渡って報告の公表を求めたが拒否された。
8月にはソ連メディアのタス通信がICBMの発射試験成功を伝え、9月12日の国家安全保障会議でCIAのダレス長官はソ連の人工衛星打ち上げが差し迫っていることを伝えたものの、「いつ」について具体的な日付を提供することはできなかった。CIAの文書は、情報機関としてスプートニク・ショックの影響を和らげるために主体的に行動できなかった、という反省を今回の文書公開にあたって記している。
実際のスプートニク打ち上げでどんなショックが起きたのか、それはNASAが公開している人工衛星の歴史から伺い知ることができる。
9月30日、ワシントンD.C.で開催されたIGY参加国が集まる学術会議の席で、ソ連の科学者は衛星の名前が「スプートニク」であることを公表したが、その機能はIGYで国際的に取り決めた合意を大きく外れていた。アメリカ側は、合意内容と異なるのであれば、観測準備のために打ち上げ日程について情報を開示するよう求めたが、ソ連側は「笑ってごまかした」という。
スプートニク1号の打ち上げ成功を伝える1957年当時のニューヨーク・タイムズ。
Central Intelligence Agency
スプートニク1号打ち上げ、その時
そして、10月4日にスプートニク1号が打ち上げられた。後にアメリカ初の人工衛星を打ち上げることになるJPL(ジェット推進研究所、現在はNASAの研究センター)のビル・ピッカリング所長は、IGYに向けた国際会議の後にソ連大使館で開催されたパーティに参加中、スプートニク1号打ち上げの知らせを突きつけられ、ニューヨーク・タイムズの記者にコメントを求められて驚愕している。アメリカの中でこんな大騒ぎが繰り広げられていた一方で、CIAのペイジ氏はといえば、スプートニク1号打ち上げの後にCIAの科学情報部門から情報の正確さに対する賞賛の手紙を受け取っただけなのだと今回の文書には記されている。
「スプートニク・ショック」といわれる中で、アメリカのメディアや上下両院の議員はアイゼンハワー大統領が何らかの対応を行うものと期待していた。だが、大統領は平静を保ち、海軍が進めていた人工衛星開発「ヴァンガード」計画を急がせることもしなかった。スプートニク打ち上げ後の10月9日の記者会見では、旧ソ連の人工衛星打ち上げはアメリカにとって驚異ではない、との姿勢を貫いた。
アメリカ初の人工衛星を目指した海軍のヴァンガード1号は、12月6日、発射台で打ち上げ時に爆発事故を起こして失敗した。
ショックの余波は大きかった。続く11月3日にはライカ犬こと世界初の生物を乗せた「スプートニク2号」が打ち上げられる。
そして2カ月後の12月6日、ようやくアメリカ側の人工衛星計画「ヴァンガード」の打ち上げが行われた。だが、ヴァンガード衛星もろともロケットは発射台で爆発炎上し、打ち上げは失敗。議会から「屈辱的」と評されたこの失敗のため、製造に関わったマーチン社の株式は暴落し、ニューヨーク証券取引所は取引中止に追い込まれた。
アメリカが人工衛星打ち上げに成功したのは、翌1958年の1月31日、海軍に変わって陸軍のレッドストーンロケットとJPL開発の「エクスプローラー1号」によってのことだった。
アメリアkがついに人工衛星打ち上げに成功したのは、スプートニク1号打ち上げから4カ月近く後の1958年1月31日のことだった。
NASA
スプートニクの謎。「ビープ音発信機能」はなんのため?
スプートニクは、人工衛星としてはほとんど何の機能も持っていない。搭載された電池が切れるまで、ひたすらビープ音を鳴らし続けることが最大の機能だった。だが、スプートニクの発信するビープ音は無線の受信機があれば世界中どこでも聞こえた。
その訳のわからなさが驚異になった。音を鳴らしているのは何のためか? 約100分ごとに頭上を通り過ぎる物体はアメリカをスパイしているのか? 旧ソ連のロケット、つまりミサイル能力はアメリカのはるか先へ進んでいるのではないか? ということがアメリカ人の懸念となった。
だが、ビープ音しか鳴らせなかったのには訳がある。
元三菱重工業のロケット技術者、富田信之氏が旧ソ連の宇宙開発を詳細に記した『ロシア宇宙開発史』によれば、旧ソ連は当初、初の人工衛星を200kg超で多くの観測機能を搭載した高機能なものにする予定だった。しかし開発が間に合わずに80kgの機能を限定した衛星に設計変更したという経緯があるのだ。スプートニクはこの設計変更によるいわば妥協の産物だった。
しかも、アメリカ側に「世界初の人工衛星」の座を奪われてはならないと、旧ソ連側も日程を前倒しした結果がスプートニク打ち上げだった。結果として「世界初」の偉業を成し遂げたことは間違いない。
そして、歴史上知られている事実では、旧ソ連に対し弱腰に見えたアイゼンハワー大統領に対し「スプートニク・クライシス」の責任を激しく追及したのが、民主党のジョン・F・ケネディ上院議員と、リンドン・ジョンソン上院議員だった。CIAが大統領にスプートニク打ち上げ情報を伝えきれなかったことで、結果として人類を月に送ったケネディ大統領、ジョンソン副大統領への政権交代の道が開かれたのだ。
(文・秋山文野)
秋山文野:IT実用書から宇宙開発までカバーする編集者/ライター。各国宇宙機関のレポートを読み込むことが日課。著書に電子書籍『「はやぶさ」7年60億kmのミッション完全解説』、書籍『図解ビジネス情報源 入門から業界動向までひと目でわかる 宇宙ビジネス』(共著)など。