日本では、STEM教育というと文字通りScience(科学)・Technology(技術)・Engineering(工学)・Math(数学)の強化と紹介され、理数系科目の強化にばかり注目が集まる。香港で行われている教育はそれとは一線を画し、理数系の知識をベースに「これまでになかったモノを計画し、作る」一連の流れがSTEM教育とされている。
香港の小学校・Baptist Rainbow Primary Schoolでは、STEM教育の一環として小学生が先生にプレゼンし、予算を含むリソースを確保して起業家のようにプロジェクトを進める。先生は投資家のようにそれをサポートする教育が行われていた。
2017年11月、メイカーフェア香港を運営する香港科技大学のクリフォード教授にアレンジしてもらい、実際にその教育を進めている小学校に訪問してきた。
自分たちで作った投石ロボットで遊ぶ子どもたち。
写真提供:Baptist Rainbow Primary School
教師は投資家でありプロデューサー
香港はOECD加盟国を対象とした「15歳時点での学習到達度調査」(PISAランキング)で常時トップランクをキープしている。このランキングは科学、読解力、数学、共同作業による問題解決の能力をテストしたもので、必ずしも知的好奇心を測るものではない。親たちはもちろん好成績を求めるが、好成績だけがゴールでなく、最終的に子どもがきちんと人生を楽しみ、生き抜いていく力をつけることを求めている。なのでトップクラスの学校の多くは、プログラミングクラブなどの課外活動も活発だ。
香港の公立小学校ではトップクラスのBaptist Rainbow Primary Schoolでは、午前中の授業では通常の教育プログラムの科目を行うが、午後はSTEMとして生徒が主体となってプロジェクトを進め、先生はそれを投資家やプロデューサーのように助ける形で教育をしている。
3Dプリンタルームを作り企業ロゴを貼ることで、DTSLから3Dプリンタの提供を受けた。「こういう環境を整えるのが自分たち先生の仕事で、何をするかは子供たちが考えます」と案内してくれたチェン先生は語る。
プロジェクトは生徒が考案して、先生宛にプレゼンし、同時にチーム作りもする。先生は生徒からのアイデアにGoサインを出し、必要なリソースを確保し、プロジェクトの進捗についてレビューする。
それはまるでスタートアップに投資するアクセラレータやエンジェル投資家のようだ。予想されていたものが手に入らなかったので、プロジェクトの内容が修正されることもある。
いくつも「ものづくりのプロジェクト」が並行して進められているが、必要な3Dプリンタやレゴのようなブロック、マイコンキット、木材などの多くは先生達が企業スポンサーや協力者を獲得して集めてくる。
レゴのようなブロックとマグネット式の電子回路(工作キット「LittleBits」のようなもの)を組み合わせた製品「METAS」でものづくりをする子ども。
写真提供:Baptist Rainbow Primary School
壁一面がレゴに似たブロックで埋まったSTEMルーム。壁の「STARTup!」は、まさに起業の意味だという。
小学校の予算は限られている。すべてを自分たちで賄うわけにはいかないし、年度の途中で新しく予算を持ってくることは難しい。教師たちは香港ジョッキークラブ(香港競馬を主催し、収益を使って学校教育を含めたさまざまな公益活動を支援している)などのツテをたどってスポンサー探しを始めたという。
FUJI Xerox香港から提供されたビルのエネルギー効率などを計測するシステム。これを使って何ができるか考えるのも、生徒の選択肢の一つ。
普通の企業は小学校に直接スポンサーをしたことなどない。企業の担当者がたとえ乗り気でも、企業ごとに上司へ説明方法も違うし、企業ごとに気持ちよく出せるものや出せないものがある。教師たちは時には何度も足を運び、お互いが満足できる着地点を探す必要がある。
3Dプリンタやブロックは学校に専用のルームを作ってプロモーションを兼ねることで、販売している企業から物品提供を受けた。木材は廃材をもらってきた。
木工の材料にするため、廃棄されるパレットをもらってきた。
公立の中ではトップクラスの学校だけに優秀な教師が多いのだろうが、公立学校の教師に要求されるスキルとこうした活動の“プロデューサー”に要求されるスキルはかなり違う。スポンサー集めなど、教師にとっても毎日が経験したことがないことへの挑戦だという。
魚を飼うプロジェクトでは食用魚を養殖し、うまく育ったら付近の老人会と一緒になって調理し、パーティーを開くことまでプロジェクトの視野に入っている。資金調達やスポンサー集めだけでなく、複数の仕事をつなげて一連のプロジェクトにすることを、生徒と教師が一緒になって進めている。
なぜメイカーフェアを教育関係者が運営するのか
今回の小学校訪問をアレンジしてくれたクリフォード教授は、香港のSTEMを牽引する一人だ。その一貫として、世界的なDIYの祭典であるメイカーフェア香港のチェアマンを務めている。ぼくはメイカーフェアシンガポールや深センの運営チームの1人で、アジアのメイカーフェアには世界でも最も多く参加している。2016年にクリフォード教授が各地のメイカーフェアを調査したときに、各地を案内したことが今回の訪問につながった。
香港、シンガポール、深セン。この3都市では、教育関係者が自らメイカーフェアを運営している。
自分のアイデアでものをつくることが、社会を変えつつある「メイカームーブメント」。これは「フリー」「ロングテール」などの概念を普及させたクリス・アンダーセン氏が、それにつづいて「メイカーズ」を2012年に出版してからあちこちで聞かれるようになった。
このSTEMとものづくり、メイカーフェアとの結びつきもメイカームーブメントの一部なのだ。
僕やクリフォード教授の間では、メイカー教育とSTEM教育はほぼイコールで語られる。他のフェアの運営メンバーともよく話す。
日本では文部科学省が主導するプログラミング教育やSTEM教育と趣味のイベントであるメイカーフェア東京が結びつけて語られることは希だが、東京インターナショナルスクールでアクティブ・ラーニングを牽引しているパトリック・ニューウェル氏は、「日本の教育関係者が言うSTEMは、メイカーフェアに全部ある。教育関係者はもっと東京はじめいろんな国のメイカーフェアを訪れるべきだ」と言っていた。
実際にクリフォード教授はアジアの主要なメイカーフェアは毎年ではないにせよ、すべて見て、どういうことが行われているか知っていて、自分の言葉で語ることができる。
「つくること」がなぜ今重要になっているのだろう。
コンピュータが人間に勝つ時代の教育
STEMは、Science(科学)・Technology(技術)・Engineering(工学)・Math(数学)、それぞれの頭文字を取ったものだ。Art(芸術)を加えてSTEAMとする人もいる。この4つはそれぞれ具体的な教科の話なので「理数系教育の強化」と語られることは多い。
実際これらのスキルは重要だ。50年前ならコピー機やFAXは部下に使わせるものだったろう。今はコンピューターを使えないシリコンバレーの経営者はいない。多くの経営者は今もプログラムを書いていたり、プログラムを書くことが起業のきっかけになっている。テクノロジーを自分で使う人と他人任せの人の、人生の可能性の差は開く一方だ。
プログラミングをしている子どもたち。思いつき、それをコンピュータに実行させるプログラミングは、未来に必要な力だ。
写真提供:Baptist Rainbow Primary School
もちろんコンピュータの使い方だけでなく、工学の知識が必要になることもあるし、数学や科学の知識がないと書けないプログラムも多い。たとえばゲームの中で宇宙船をホンモノらしく飛ばすには慣性や重力についての知識が要る。
しかし、超受験戦争国家である香港、あるいは上海やシンガポールでは、直接的には「いい学校」に入るとは無縁に思える「自分たちで考え、生み出す」ものづくりに、先生も生徒も(ひいては親も)多大なエネルギーを使っている。
子どもの教育に深くコミットするタイガー・マザーが多いとして知られるこれらの都市で、なぜ「ものづくり」が教育に取り込まれているのだろうか。
実は、これこそがSTEM教育と呼ばれている新しい教育の一環である、教わっていないものを自分で調べて試行錯誤しながら作りあげる能力だからだ。先行事例を調べてアイデアを具体化し、自分のアイデアを他人にわかりやすく説明して巻き込んでプロジェクトを立ち上げ、問題にぶつかるたびに修正したり、時には目的そのものを見なおしたりしながらプロジェクトを進めていく能力で、アクティブラーニングとかプロジェクトベースドラーニングなどと呼ばれている。
現代社会で働いてる人のほとんどが、自分が学生時代にはなかった道具を使って、学生時代にはなかった仕事をしている。今43歳の僕は大学生になるまでインターネットを使ったことがなく、学生の間はスマホもソーシャルネットワークもなかった。
今はそれなしで仕事をするのは考えられず、そうしたテクノロジーに何ができるかを試行錯誤し、新しい使い方を思いつくことが仕事の中心になりつつある。
また、変化のスピードは早まっている。この原稿を打ち込んでいるマイクロソフトWordをぼくは1996年頃から使っているが、もっとも多く文字を書いているのはたぶんFacebookかWeChat(中国のSNS)だ。さらに、5年後も同じSNSを使っているかはわからない。
「そういう時代に何を教え、学び、どういう力をつけて社会に出て行くべきか」は大きなテーマになっている。こういう時代に大成功しているマーク・ザッカーバーグやイーロン・マスク、ちょっと遡ってスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといった人たちは、彼らが受けた教育の延長線で成功したわけではなかった。今でもシリコンバレーの起業家は良い大学の修士・博士が多いので、「きちんと勉強し、良い大学に入ること」は今も「良いこと」ではある。
でも、ググれば何でも出てきて、コンピュータが将棋で人に勝つ時代に、子どもたちに何を教えるべきなんだろう?あるいは、どういうものが「今は不要な教育」なんだろう。STEM教育、メイカー教育はそれに対する答えの一つと考えられている。
アイデアは実現化しなければならない
アイデア、発想と言ったときに、多くの人は努力とは無縁にいきなりひらめく、宝くじのようなものを想像する。また、アイデアさえあれば画期的な製品が生まれたり、イノベーションが生まれると語られたりする。
だが実際には多くのインプットを消化していく中で発想が生まれ、その発想を実際にモノにしていくためにはさらに多くの行程が必要であり、どこが抜けてもいいものにならない。
廃材の木材をレーザーカッターなどで加工し、ソーラーパネルで駆動するカート。これはエコロジー関係のビジネスコンテストで受賞し、学校に飾られることになった。そうしたコンテストへの応募もいくつかの選択肢の中から生徒が決める。
漫画にたとえるとヒット作を書く漫画家は多くの漫画や映画ほかコンテンツを見ているし、それを実際に紙の上に表現するまでも多くの努力を払っている。製品開発や会社経営も同じで、アイデアは長い道のりのなかの1歩にすぎない。
そうした発想と、それを実際にプロジェクトとして育てていく過程を身につけさせる教育は、技術教育に比べていろいろ掴みづらい。新しい分野というのもあるし、幼稚園児に好き勝手やらせるのは将来に寄与するだろうか?そして、やったことをどう評価すればいいんだろうなど、新しい取り組みを始めることにつきものの、範囲の策定や評価軸の検討など、考えることはいくらでもある。
このやったことがないことを試行錯誤しながらまわりを巻き込んで進めるというのは、ぼくら社会人が毎日行っている仕事そのものだ。明確な答えや評価軸はない。社会ならお金はかなりユニバーサルな評価軸だけど、教育に完全に適用するのはむずかしい。ものを自分で考えて作るという行為にはそのすべてが内包されている。
ぼくが見た香港の小学校ではそれがメイカー教育という形で見事に具体化していた。
教わっていないものを自分で調べて試行錯誤しながら作りあげる能力を養うのがテーマのため、STEM教育を行う教室は黒板がない。
ぼくは「未来は、自分の作りたいモノを作る人たち、つまりメイカーによって作られていく」と思っている。香港ほかアジアのSTEMについてはあまり日本語の情報がないので、訪れた外国人が皆絶賛する素晴らしいメイカーフェア東京を持つ、メイカー国家日本のために今後もアジアの友人メイカー達の活動を広めていきたい。
(文・写真:高須正和/編集:西山里緒)