READYFOR創業者でCEOの米良はるかさん。20代最後の年にがんになったことで、経営者としての人生を大きく見直すことになった。
READYFOR(東京・文京区)の創業者でCEOの米良はるかさん(30)が23歳でスタートさせた「Readyfor」は、日本初・国内最大のクラウドファンディングサービスに成長。だが、米良さんは2017年7月、血液がんの一つ、「悪性リンパ腫」の宣告を受けた。29歳の時だった。治療が落ち着くまでは完全に社長業を休み、信頼する役員を共同代表に据え、全面的に仕事を委ねる道を選んだ。
約半年に及ぶ抗がん剤治療を終え、12月末には「寛解」(がんが縮小、または消失し、症状が落ち着いた状態)に至った。
2018年1月26日からは、代表取締役CEOとして現場復帰する。治療期間に溜め込んだ「インプット」をいかに社会に還元していくか——。年明け、インタビューに応えた米良さんは、「今は、そんなワクワクする気持ち100%」と現場復帰へ向けた気持ちを語った。
「20代でがん!?」ポジティブな未来を描けない日々
「私ぐらいの年代だと、周りにがんになった人も少なく、自分が病気になるなんて、全く想像もしていなかったんです。がんになる前は、『会社と命と、どちらを取る?』と選択を迫られたら、会社の方を取っちゃうんじゃないかっていうぐらい、私は仕事が大好きな人間でした。でも、いざ、がんという病名を突きつけられたら、頭の中は怖さでいっぱいになって、会社のポジティブな未来を描くことができないような精神状態に陥っていました」
米良さんが体の異変に気づいたのは、2017年5月初旬。首の左側に直径3センチほどのしこりが2つできていた。風邪を引いてのどに痛みを感じていたため、「扁桃腺の腫れかな?」と当初は考えた。翌日から出張を控えていたので、夜間病院を受診したところ、医師からは「特に問題はなさそうだ」と伝えられ、安堵した。
ところが2〜3週間経っても腫れは引かず、新たに大学病院を受診。注射器で吸引して細胞を採取し、悪性細胞の有無を判定する「細胞診」を行ったところ、6月初旬に腫瘍内科医からこう告げられた。
「咽頭がんか、悪性リンパ腫か、良性の炎症ですね」
可能性の3分の2が「がん」? 今まで入院さえしたことのない自分が、20代でがんを患うなんて。
最初の受診から1カ月が過ぎても、しこりはいっこうに小さくならず、病名が確定しないまま、不安だけが増していった。悪性リンパ腫の確定診断には、腫瘍やリンパ節を切り取って病理検査を行う「生検」が必要だが、首の目立つ所にメスを入れる必要があったため、リスクがある程度はっきりした段階まで待つことに。結局、診断が確定するまで約2カ月かかった。
「この時期が一番しんどかったです。悪い方のシナリオばかり考えてしまって……。病名が確定するまでのあまりにも長い期間、仕事のことをどうしたらいいか、それを誰に相談すればよいか、いつから職場に伝えればいいか全然分からなかった。自分の経験からも、治療と仕事の兼ね合いや職場への告知など、困っている人は、たくさんいるんだろうなと思いました」
会社はちょうど、7月から4期目を迎える直前だった。会社の長期戦略も考えなければいけない時期。5月から6月にかけて毎週のように病院を受診していたが、その間、仕事はセーブせずに続けていた。
会社という「家族」に全部任せよう
念のため2度目の細胞診を行い、悪性リンパ腫の可能性が高いというデータが出たのが、6月下旬だった。医師からその結果を知らされた翌日に生検のための手術を受けた。医師からは「90%は悪性リンパ腫の可能性がある。仕事は休めるなら休んだ方がいい」と助言された。会社にとっても大切な時期だけに、判断は早いに越したことはないと、米良さんはすぐさま2人の取締役に電話を入れ、病院近くのファミレスで落ち合い、こう伝えた。
「ごめんなさい。治療に専念したいので、落ち着くまでは会社を休ませてください」
ともに、会社を創り上げてきた、取締役COOの樋浦直樹さん(29)は言った。
「そうですか……。でも、大丈夫です。READYFORは、僕らが守るから」
この言葉は米良さんを勇気づけた。
「私は一人で走ってきたんじゃない。会社という『家族』をつくってきていたんだと。つらいときは、彼らに全部お任せしてもいいんだと思えてほっとしました」
2017年7月からは、樋浦さんを共同代表に据え、しばらくは全面的に経営を任せる形で治療に専念した。
米良さんは、志を持つ人が資金を調達しやすいように、「世の中を変えるお金の流れをつくろう」と、国内初のサービスづくりに仲間とともに奮闘してきた。「誰もがやりたいことを実現できる世の中をつくる」ことが「READYFOR」が掲げるミッションだ。サービス開始から6年。会社創立から4年。のべ36万人から55億円を調達するサービスに成長していた。
そんなタイミングでふりかかった病。会社を休むと決めたときは、ただただ、がんの恐怖に押しつぶされそうだったという。
「その頃はまだ、自分の病気の重さがどの程度のものかも分からない段階でした。治療の開発が進み、標準治療が確立しているがんは生存率が比較的高いといった知識も持ち合わせていなかったので、私の中に漠然と、『がん=死』のイメージがありました。だから、がんになっても治療を続けながら仕事と両立できるという見通しが全く持てていませんでした」
経営者としての本来の仕事は、サービスも会社全体も成長させるというポジティブなシナリオで、「会社の未来を考えること」だと話す。 「それなのに、私は『未来を考えたところで、私が死んじゃうかもしれない』と怖さが先立っていて、会社の未来戦略を構想することを考えられる状態ではなかった。経営者として話にならないなと、自分で判断したわけです」
途中で立ち止まることは悪いことじゃない
社内に休業を伝え、治療に専念する間は、あえて「経営にはノータッチ」の姿勢を貫いた。
「創業者で一番意思を持っている立場だからこそ、戦う舞台に参戦していないのに、いろいろ口を挟むのは、みんなも嫌だろうなと。もう全部任せると言ったからは、スラックもメールも見ませんでした。Facebookのメッセンジャーだけ開いて、何かあったら連絡してって。抗がん剤でしんどいときは、FBも開けませんと伝えました。それまでワーワー言っていた人が急に消えたのですから、メンバーは皆大変だったと思います」
手術を受けて10日後、ようやく病名が確定した。悪性リンパ腫の中でも日本人に多い、「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫(DLBCL)」と呼ばれるタイプのがんで、病期は早期の「ステージ1」。抗がん剤を3週間に1回、計6回投与するという治療方針が決まった。
「自分のがんが、比較的治療しやすいDLBCLだと分かってからは、だいぶ気持ちが落ち着きました」
2000年頃に登場したリツキシマブという抗がん剤によって悪性リンパ腫の治療成績は飛躍的に向上したと言われている。副作用も比較的に抑えられるよう設計されている。米良さんの場合、抗がん剤治療も初回以外は全て通院で済んだ。治療後数日間は全身のだるさは続いたが、思っていたよりは、穏やかだった。
「もしはじめから闘病の様子がわかっていたら、仕事のことを考えるのが大好きな私のことだから、『ここまでは私できます!』って、仕事を入れちゃっていたかもしれません」
治療に専念すると決めた以上は、それまで頭の中の「100%」を占めていた仕事のことを、強制的に「0%」にする作業が必要だった。その空白の時間を埋めてくれたのは、本だった。最初に読み始めたのが、半藤一利著の『幕末史』という歴史本だった。
「私が学んだのは、途中で立ち止まることは、悪いことじゃないということ。幕末の志士たちだって、最初から歴史の表舞台に立っていたわけじゃなかったんですよね。西郷隆盛は二度も島流しにあっていたし、勝海舟は軍艦奉行を罷免されて2年間蟄居していました。私も、今、『ゆっくり自分と向き合う時間を与えられているんだ』と思うことで、気持ちが楽になりました」
それまではアウトプットばかりで、「経営者としての人生以外の人生を考える余裕もなかった」という。仕事脳を捨て去ったリセット時間を利用し、「今まで読めなかったような本を100冊読む!」と目標を立てた。哲学、日本史、経済学、政治学……と読み漁った。
経営者としての20代、生き急いでいなかったか?
治療の間、一つだけ続いていた“仕事”がある。治療に入るタイミングの2017年9月に選ばれた「人生100年時代構想会議」の有識者議員。メンバーには、会議が掲げるキーワード「人生100年時代」の基になった『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)——100年時代の人生戦略』の著者、リンダ・グラットンさんも名を連ねる。大きな目で社会を見る好機になったと米良さんは振り返る。
「人生100年時代」というキーワードに出会い、自身の中に、新しい視点が加わった。20代で経営者になった自分は、生き急いではいなかったか? と。100年も時間があれば、治療に費やした時間はわずかな期間にすぎず、むしろその時間の中で新しい価値観を得る経験ができるのならば、人生上の実りは大きいと。
「これまでの私は、人生20代で終わるんじゃないかという勢いで走っていて、正直、それ以降のことは何も考えていませんでした(笑)。人生が100年だと思えば、20代なんてまだまだ駆け出しだし、キャリアも急ぐことはないんですよね。未来予測が難しいこの時代に生まれたからこそ、いく度も立ち止まってものを考え、そしてまた走り出したらいい。100年という時間を存分に楽しむために、立ち止まる時間を持つことが、人の可能性を伸ばし、充実した一人一人の人生を生み出していく原動力になるのではと思いました」
これからは「育ての親」として
とはいえ、闘病で仕事や職場を手放した当初は、「自分のアイデンティティーが失われるような恐怖感に襲われた」という。自宅でぽつんと一人、部屋に取り残されたとき、「突然表舞台から降ろされ、誰もいないところに連れ去られたような孤独を味わいました」。
けれども、米良さんはこの孤独の時間を、創造的な価値転換の時間に充てた。会社の代表という役割から切り離された時間を持てたからこそ、日常の延長線上ではなく、本質に立ち返って会社のあり方を考えることができた。結果的に「子離れ」がしっかりでき、事業体を客観的に見られるようにもなったという。
「会社は私の不在も影響なく、順調で、みんなに可愛がられていて、軽い嫉妬を覚えたぐらい(笑)。『なんだ、この子(会社)って、私がいなくてもちゃんと歩けているじゃない』と。これまでの私は、大学院生だった頃からサービスを育ててきた『生みの親』として、母性愛で会社を抱っこしちゃっていたと思うんです。でも、これからは、『育ての親』として経営者の役割をしっかり全うしていきたいなという風に気持ちが変化しました。この子が立派になるために、自分はどんな役割をすればよいか。この子が大きくなるために、どんな仲間を集めればよいかと」
自分はあくまでも、育ての親の一人。そう、思考を切り替えられた。
「私が今回休めたのは、会社のメンバーの支えからあったからこそだと思ってますし、そのこと自体自身がとても恵まれた立場だということも再認識しました」
「その上で、私が会社といい距離を保てるようになったのは、この会社にとってすごくよかったことじゃないかと思っています。これからも、3年に1度は、立ち止まって深い思考の時間を持つつもりです。結果的に、ではあるのですが、今回の闘病が自分、会社、そして社会を見つめ直すかけがえのない時間になりました」
米良さんは、晴れやかな笑顔で話した。
(文・古川雅子、写真・竹井俊晴)