日経新聞「火災」で明らかになった東京テロ対策の実力と死角

2017年年末に起きた日経新聞社内での「火災」では、大々的なテロ捜査シフトが敷かれていた。2020年の東京五輪をにらんで着々と進んでいるテロ対策。その裏側がこの事件から明らかになっていた。

大手町の日本経済新聞社東京本社

大手町の日本経済新聞社東京本社

Issei Kato/Reuters

騒ぎが起こったのは2017年12月21日。年末も押し迫った白昼だった。

ビジネスの中心地、東京・大手町を騒然とさせたのは、単なる火災ではなかった。火元は日本経済新聞社本社ビル2階オープンスペースの一角にある男性トイレの個室。

警視庁によると午前11時前、女性清掃員が「ボン」という音を聞いた後、火の手が個室から上がったという。通報を受けて、目と鼻の先にある東京消防庁からも消火隊が直ちに出動し消火作業に当たっている。丸の内警察署からも警察官らが駆け付けたほか、警視庁通信指令センターに入った110番通報は警視庁本部の関係各課隊に同報された。

警視庁本部からは刑事部鑑識課・現場鑑識係や捜査一課特殊犯捜査係や第一機動捜査隊のほか、公安部の初動捜査部隊・公安機動捜査隊や警備部も出動した。捜査支援分析センター、通称SSBCの捜査員も集結した。

消火作業で延焼は防げたが、個室からは全身をやけどした男性が発見された。救急隊が駆け付けたときはすでに心肺停止状態で、その後死亡が確認された。

自爆テロ疑いテロ捜査シフトに

SSBCとは2009年に警視庁刑事部に設置された犯罪の広域化や電子化に対応した組織だ。周辺の防犯カメラの画像収集に当たり、現場の「入り」、男性の「前足(事件前の行動)」を確認する。さらに回収した画像を警察当局がストックする運転免許データ・前歴者データと「顔認証」で照合するのだ。こうしたビッグデータ分析捜査が主流となりつつあるのが、現代の警察捜査でもある。

公安部の初動捜査部隊・公安機動捜査隊は、爆発物の形状を調べる「特殊鑑識」を行う。爆発物なら使われた火薬やリード線の種類。燃焼材と呼ばれる油などの採集・鑑定を独自に行う。さらには集まった野次馬の動向を密かにビデオカメラで撮影する。テロ事件の場合、爆発物等を仕掛けた犯人が現場に野次馬を装って姿を見せることが多いからだ。自分が仕掛けたテロ行為を見届けるためだとされている。

警視庁は事件から1週間後、死亡した男性の身元を特定。男性は練馬区内に住む無職の56歳の男性で、新聞販売店の経営者だったことがわかった。遺書などは見つかっていないというが、「油をかぶって自らに火を放った焼身自殺とみている。元新聞販売店経営者が新聞社を死に場所に選んだのは、おそらくは何らかの抗議の意を示したのだろう」(ある捜査関係者)

結果として焼身自殺事案だったのだが、警視庁は当初自爆テロを疑い、テロ捜査のプロフェッショナルを集結させる大規模なテロ捜査シフトを敷いていたのだ。

テロへの脆弱性を露呈、ハードターゲットの死角

クリスマスマーケットでのテロの犠牲者を追悼する市民(ドイツ)

クリスマスマーケットでのテロの犠牲者を追悼する市民(ドイツ)。

Sean Gallup/Getty Images

結果的にテロではなかったわけだが、この時捜査に関わった公安関係者は、「少なくともテロ捜査シフトには意味があった」と指摘する。

「トイレの個室内部という閉室性から考えて自殺という線が強かったが、一報段階ではテロということも考えた。けが人の人定(身元)、何らかのメッセージの有無は速やかに調べる体制を取っていた。男性以外に、けが人がなく本当に良かった」

自殺を図るにしても、なぜこの場所を選んだのか。筆者が取材した複数の警視庁幹部や捜査関係者は「場所」に注目していた。

欧米でテロが続く中、テロリストの狙いは「ソフトターゲット」に移ってきている。ソフトターゲットとは比較的警備が手薄で、常に多くの人が集まっている場所。都心のホテル、劇場、コンサート会場、ターミナル駅、歩行者天国、花火大会の会場などだ。

一方、「ハードターゲット」は首相官邸、国会議事堂など、平常から警備が厳重な場所を指す。今回、男性が自殺を図った日本経済新聞社の本社ビルも警備の程度の差はあれ、ハードターゲットの一つとみてよいだろう。日本の新聞社やテレビ局などマスコミ企業の多くはセキュリティーチェックが厳しく、入館手続きが必要となる。

しかし、今回の舞台となった日本経済新聞社本社ビルは2階部分のオープンスペースが現場だった。読者や地域との交流性を高めようと設けられたオープンスペースが、逆に新聞社というハードターゲットの「死角」となった可能性がある。

「日経新聞での事案は自爆テロの可能性は極めて低いが、新聞社を自殺の現場に選んだことには正直驚いた」(公安捜査関係者)

自殺とはいえ、新聞社が現場となったことへの不快感が警視庁公安部内部では漂っているという。

テロの「兆対策」ための情報収集

東京五輪カウントダウンモニュメントの序幕式の様子

東京五輪カウントダウンモニュメントの序幕式の様子。

Issei Kato/Reuters

2020年に東京五輪を控える中、警視庁はテロ対策に全力を挙げている。

2017年12月31日の大晦日の夜。東京・渋谷のスクランブル交差点付近に200人の警察官、警視庁機動隊の大型車両数台が集結した。毎年恒例のカウントダウンイベントが午後9時から行われるとあって、「テロ警戒態勢」が敷かれたのだ。

雑踏の流れを整理するために人の流れを一方通行にする。スクランブル交差点の信号の間隔も調整され、辻々には警視庁機動隊員や渋谷署員らがスタンバイ。大きな通りにつながる道路の入り口には警視庁機動隊の大型バスが進路をふさぐように停車している。警視庁幹部が説明する。

「ヨーロッパで頻発した車両突入テロを一番の警戒項目として、機動隊の大型車両で主要な道路の動線をふさぐ。有事に備えて、警視庁警備部の緊急時初動対応部隊、ERTも待機させた」

ERTはサブマシンガンの携行を許可され、市街地での対テロ活動を行う精鋭部隊だ。

東京五輪に向け、今の喫緊の課題はテロリストの実態把握だ。

「あらゆる情報収集がなされる。警視庁では兆(きざし)対策を徹底して行うことが公安部、所轄署の警備課公安係に通達されている」(前出の警視庁幹部)

兆対策の中心は警察庁警備局とされている。公安警察の総本山で、「ビキョク」と呼ばれる。「テロの兆しをつかむ」ために公安捜査官たちは、通信傍受やカメラ捜査、追尾、協力者獲得などのさまざまな手法で情報を収集している。

東京五輪シフトの幹部人事

テロ対策では幹部人事でもその布石は着実に打たれている。

2018年1月早々、警察庁長官が坂口正芳氏から栗生俊一氏 に交代した。そして官房長として長官ラインに乗ったのは警察庁警備局長の松本光弘氏である。松本氏は公安畑を歩んだ国際テロ捜査研究の第一人者で。松本氏は2019年にも次長に昇格し、2020年の五輪開催時に長官に就任するとみられている。

警視庁は刑事や公安の経験が豊富な吉田尚正警視総監が2017年9月に就任。2020年春に警視総監に就任するとみられているのが斉藤実神奈川県警本部長だ。斉藤氏は警備のエキスパートでテロ対策にも精通している。同氏は2019年1月以降の早い時期に警察庁警備局長に就任する見込みだ。

「東京五輪に向けて松本長官・斉藤警視総監による公安・警備重視のシフトが近く完成する。この2人の公安・警備のエリートを前面に出すということは、とにかくテロ対策を徹底して行うという警察庁の強い意志の表れ」(警察庁幹部)

警察庁幹部によれば、この五輪シフトは安倍晋三首相、菅義偉官房長官、警察庁出身の杉田和博官房副長官に内々に了承を得ているという。

(文・今井 良)


今井良:ジャーナリスト。中央大学卒業後、1999年にNHK入局。報道局でニュース番組の制作に関わる。2009年に民放テレビ局に移籍。警視庁担当記者を務める。著書に『警視庁科学捜査最前線』『マル暴捜査』『テロVS日本の警察 標的はどこか?』『警視庁監察係』がある。

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