福島第一原発の事故で、2017年3月まで全域に避難指示が出ていた福島県飯舘村。この村で、いちはやくビジネスの再生を成し遂げたいちご農家がある。佐藤博さん(67)が代表を務める「いいたていちごランド」だ。
長期の避難生活と、事故に伴う放射能汚染の風評で、一時は福島を出ることも考えたが、再開を願い、いちごの苗の維持を続けてきた。
いちごを栽培するビニールハウスの中に立つ、佐藤博さん。
JR福島駅から車で1時間ほど走ると、阿武隈山系の高原に飯舘村が広がっている。東日本大震災が起きた2011年3月11日の時点で、6509人が暮らしていた。村を貫く幹線道路のわきに、広さ約2000平方メートルのビニールハウスがある。
「最近のいちごは甘いばっかりだけどね。うちのはちょっと酸味があるから、パティシエが好むんです」
ハウスのあるじ、佐藤さんが言った。
生まれも育ちも飯舘という佐藤さんは、このハウスで2004年ごろから、「雷峰」という品種のいちごの栽培を続けてきた。年間の平均気温が10度ほどの飯舘村で雷峰は、5月から12月まで1年の3分の2は収穫ができる。高温になる夏場は、ハウス内での収穫はつらい仕事でもある。他の品種よりも日もちすることもあって、取引先はいずれもケーキ店だという。
栽培を始めたころ、夏場に収穫できるいちごは決して多くなかっため、取引先は全国各地に広がった。
いちごを栽培するビニルハウスの内部。
7年前の3月11日午後、佐藤さんは妻と2人で、車で福島市に向かっていた。午後2時46分、隣町付近を走っていたとき、激しい揺れで車を止めた。
ハウスが心配で村に引き返すと、自宅もハウスも無事だった。停電で、何の情報もないまま、自宅で夜を明かした。
翌12日朝になると、村の道路は避難する人たちの車であふれた。この日の午後3時36分、第一原発1号機で最初の爆発が起きた。しかし、停電が続く村に情報は届かず、佐藤さんは爆発を知らなかった。
この日以降、原発で爆発が相次ぎ、飯舘村の放射線量の数値は上昇していく。
佐藤さんは、いちごの苗を植える作業を終え、いったん3月17日ごろさいたま市の家族宅に身を寄せる。6月には福島市内に移り住み、長い避難生活に入る。
住民たちは村内のパトロールを続けていたが、次第に草が生い茂り、故郷は荒廃が進んでいった。この間、佐藤さんは飯舘村に通い続け、いちごの苗の手入れを続けてきた。苗が絶えてしまうことだけは防ぎたいと思った。
2012年には事故当時に使っていたハウスのビニールを張り替え、翌2013年には栽培に使う土も入れ替えた。隣の県に移ってハウス栽培を再開することも、頭をよぎることがあった。でも、飯舘の気候はほかにない。佐藤さんは、静かに再開のときを待った。
佐藤さんのビニルハウスでは、白いいちごの花が咲いていた。
2014年、ハウスの一部でいちごの栽培を始め、この年の7月、震災後初めての出荷にこぎつける。ただ、当時はまだまだ出荷先の拒否感も根強く、価格はかつての半額ほどだった。
福島県内外のケーキ店を回って、頭を下げた。
「なんとか、うちのいちごを使ってくれんだろうか」
厳しい言葉を投げつけてくる人もいた。けれど、佐藤さんは足を止めなかった。
「飯舘でもできることを見せるんだ」
興味をもってくれた顧客には、飯舘のハウスに来てもらい、現状と放射性物質への対策を説明した。佐藤さんのハウスに隣接する土地は、除染で剥ぎ取られた表土の「仮置場」にもなっている。
店を回るうち、少しずつ理解は広がった。「がんばってっから、応援するよ」
2017年3月末。村の一部を除いて、6年にわたった避難指示が解除された。飯舘村によると、「帰還」をした人は、2018年3月1日現在で537人と、震災前の10分の1に満たない。
一方で、この年のいちごランドの売り上げは、震災前の水準に近づいてきた。15軒ほどの取引先の7割は、震災の後に開拓したという。
また、あの日が巡ってきた。佐藤さんにとっては、「長かったような短かったような」日々だ。
「なにくそ、負けてらんねえって。それだけなんです」
佐藤さんは照れくさそうに、ぼそぼそと言うのだ。
(文と写真:小島寛明)