あの日、僕らは大企業を離れた。東日本大震災抜きには語れないafter3.11世代の生き方とは

2011年3月11日、東日本大地震をきっかけに価値観が変わり、今までの暮らしや働き方を変えたという人は多い。中でも、当時まさに進路に迷っていた大学生や新卒で入社したばかりの世代に与えた影響は大きい。そうした世代をBusiness Insider Japanでは「after3.11世代」と名付けた。あれから7年。彼ら彼女らは今でもその志を絶やさずに各分野で活躍している。

東日本大震災が起きたとき、筆者(1988年生まれ)は大学3年生だった。それまでは途上国に関心を持ち、すぐに海外で働けるような国際機関に内定をもらったが、結局就職せずにベンチャーやNPO立ち上げにかかわり、今も日本にいる。

NPO法人「SET」の代表である三井俊介さん(1988年生まれ)はちょうど就活を始めるところだった。面接で「会社に貢献できることは何か?」と質問され、質問されていることの意図が全く理解できなかった。震災後、岩手県陸前高田市広田町に移住し、2015年の陸前高田市議会議員選挙でトップ当選を果たす。

なぜ「after3.11世代」は“王道ルート”である大企業で働くことを選ばず、自ら起業したり、進路を大きく変えたのか。1回目は「大企業で働く」という選択肢を見直した人たちの話である。

東日本大震災

東日本を襲った震災は多くの若者に影響を与えた。

REUTERS/Toru Hanai

死を意識して本当にやりたかったことを

「死ぬかもと思って、すごい後悔した」

学習塾を展開するKUMONに就職し、池袋の教室にいた今井悠介さん(1986年生まれ、31)は、大きな揺れに戸惑いながら隠れた机の下でそう思ったという。

今井さんは2010年に関西学院大学を卒業し、「ずっと働くつもり」でKUMONに就職した。学生時代から、ブレーンヒューマニティーというNPOで不登校の生徒を支援する活動を通じて子どもたちの成長に関われることに楽しさを感じていた。

今井悠介

公益社団法人「チャンス・フォー・チルドレン」代表理事の今井悠介さん。震災4日前に「何か一緒にやりたいね」と話していた共同代表の奥野慧さんと一緒に設立した。

一方で、悶々とした思いも抱えていた。

「KUMONにはある程度お金のある家庭の子どもしか来ることができず、自分が接することができる子は限られている」

今井さんは大学4年のときに、不登校だったり働けなかったりする人を対象にした30日間のキャンプに参加。そこで、10年間人との関係を絶ち続け、笑う筋肉がなくなってしまった人など「社会的に消されてしまった人たち」に出会い、「何かしなきゃ、何かできないかな」と思っていた。

とはいえ、新入社員としての毎日は忙しく、「いつかやれれば」と何もできない日々を過ごしていた。震災の揺れの中で、はっきりと思った。

「やりたいことをやれずに死にたくない」

キャンプの後に、NPOの立ち上げを相談したブレーンヒューマニティーの理事長(当時)から言われた言葉も思い出した。

「いつか圧倒的なニーズに出合うときが来る。それまでは今いる場所で可能なことをやればいい」

会社を辞めるのは正直怖かった。だが、「あの時やろうと思っていた自分の気持ちが風化していくのを感じて、このままだと死ぬときにまた後悔する」と決意。震災の翌月に退社、東北の子どもを中心に、塾や習い事などで利用できる学校外教育バウチャーを提供する公益社団法人「チャンス・フォー・チルドレン」を立ち上げた。

2011年9月に生徒の募集を開始すると、毎日電話は鳴り止まなかった。定員150人の枠に1700人ほどの応募があった。「圧倒的なニーズ」を実感した。

バウチャー利用者・申込者

震災以降も申込者数は減らず、学校外教育を受けられない教育格差の問題は「震災で生まれた課題ではなく、もともとあった社会的な課題」だと今井さんは指摘する。

チャンス・フォー・チルドレンの公開情報をもとにBusiness Insider Japanで作成

その後は、東北発の仕組みを全国にも提供しようと、渋谷区や他のNPO等と組んで「スタディクーポン」というプロジェクトを立ち上げ、政策を通して教育格差の問題を解決しようとしている。

違和感を拭いきれず福島に移住

大企業を辞めるのは誰しも怖い。しかし、大企業に期待している安定や収入よりも、自分の中にあるやりたい気持ちや違和感に正直であることもこの世代の特徴だ。

現在、「防災ガール」として、防災活動を変えようとしている田中美咲さん(1988年生まれ、29)もその1人。

田中美咲

2018年3月15日、green drinks Shibuya「防災をソーシャルデザインから考える」というイベントに登壇した田中美咲さん。防災の重要性や海外の動向を紹介した。

田中さんは4月からサイバーエージェントに就職予定だった。新入社員でも裁量権が大きく、市場としての成長が期待できるウェブ広告事業を展開していたことが就職の決め手だった。

震災が起きたのは大学卒業直前。すぐに大学時代の友人らと30人程度のフェイスブックグループを作って、朝から晩までスカイプで「若者は東北のために何をすべきか」を話し合った。SNSなどでは同世代やその上の世代が東北のために動き出していて、「何かしない方がおかしい雰囲気」を感じていた。

就職先のサイバーエージェントには「会社として東北に対して何かしないんですか?」と問い合わせた。担当者から返ってきた返事は「今のところ予定はない」。「ちょっとやばいかもしれない」。会社に対して違和感を覚えた。

だが、その違和感の答えを見つけられずに、そのまま入社。だが、入社後、違和感は拡大する一方だった。

「上司が絶対」というトレーナーの意見や“体育会系”のマネジメント姿勢にも納得できなかったが、何より感じていたのが、そんな時にソーシャルゲームをプロデューサーとして作り続ける虚しさだった。

一方で、大学在学中に授業を受けていたクリエーティブディレクターの佐藤尚之さんやdreamdesignの石川淳哉さんらが公益社団法人「助けあいジャパン」(今は一般社団法人)を立ち上げ、社外では多くのクリエイターが復興支援に精力的に関わる「かっこいい」姿も見ていた。

2012年3月に辞める決意をし、7月に退社。3日後には福島県民になっていた。

「助けあいジャパン」の福島県の事業責任者として福島に移住した田中さんは、県外に避難した人向けの情報発信を担当。

日本は世界有数の「災害大国」にもかかわらず、防災が「自分ゴト化」されておらず、行政の防災活動にも課題を感じた経験から、2013年3月11日に一般社団法人「防災ガール」を立ち上げる。

今は滋賀県長浜市の特別職員として、家と車、ベーシックインカム(月約16万円)、年間約150万円の経費をもらいながら新しい防災の形を研究している。

研究者志望がソーシャルビジネスのベンチャーへ

当時多くの学生が被災地に向かい、ボランティアとして活動した。その原体験が進路に与えた影響は大きい。

震災が起こった当時、慶應義塾大学理工学部4年だった島田悠司さん(1988年生まれ、29)はそのまま大学院に進学し、研究者やエンジニアの道に進もうと思っていた。だが今、ソーシャルビジネス系の会社で働いている。

転換のきっかけは被災地でのボランティアだった。

島田さんは2011年4月に新聞で同世代の学生がボランティア団体を立ち上げ、学生を被災地に無償で派遣している活動を知った。大学院の論文発表が落ち着いた7月にボランティアとして参加。 人生で初めてのボランティアで、被災地で困っている人たちを目の当たりにし、自分の中で世界観が変わった。

「東京に帰ってきて、リフレクションという振り返る作業をしたときに、ぼろぼろと涙が止まらなくて。人の役に立ちたいと心の底から思った」

島田悠司

「人のために活動することが自分の幸せ」だと語る島田悠司さん。株式会社LITALICOは「障害のない社会をつくる」をビジョンに就労支援や教育事業を展開している。

その後、ボランティアとして参加した「Youth for 3.11」の代表に就任。大学院卒業まで運営に関わった。今でも被災地で知り合った人に会いに半年に1回程度は東北に通っている。

インターネットのネットワークについて研究していたことから、研究室の同期の多くは大手のIT企業などに就職していった。周囲からも最後まで大手企業を強く勧められたが、「会社の利益ではなく、どれだけ社会を変えられたかを重視する社長たちの考えに共感」し、株式会社LITALICOに就職。LITALICOは障がいのある人たちの就労支援や教育事業を展開している。

震災で受けた影響について、島田さんはこう語る。

「震災前までは、自分の生活を良くするには、と考えていたが、震災以降は、どういう社会にしていきたいかと考えるようになった。震災がなかったら今の会社にはいなかったと思う」

「Youth for 3.11の活動などを通じて学生が現地に行った意味というのは、どれだけのがれきを撤去したか以上に、現実に直面し、学生ながらに今後社会をどうしていくべきか考えるきっかけになった点にあるのではないか」

被災地で行政のゆがみを感じて政治の世界へ

学生ボランティアとして感じた課題を解決しようと活動を続けている人もいる。現在、東京都議会議員として防災政策にも関わる鈴木邦和さん(1989年生まれ、29)だ。大学3年のときに震災が起こり、4月に宮城県石巻市でのボランティアに参加。ここで現在の活動にもつながる体験をする。

「当時は使える建物も限られており、ご遺体を安置する場所で、被災した方たちが寝泊まりしていた。そうした状況を目の当たりにし、何かできないかと考えずにはいられなかった。ボランティア活動を続けているうちに、明日のご飯も困っている中で5億円でコミュニティーハウスが建設されたり、お金の使われ方などに行政のゆがみを感じた

鈴木邦和

「UT-Aid」というボランティア団体を立ち上げながらも、自身の専門性の無さから大きな挫折感を感じたという鈴木邦和さん。都議会議員として現在の東京都の震災対策は「ハード面に偏りすぎ」だと問題点を指摘する。

もっと政治が健全に機能するにはどうすればいいのか。無党派層の声が政治に反映されるべきだと考え、2012年9月に起業し、選挙情報サイト「日本政治.com」を立ち上げた。

実は就職活動も並行して進めていて、総合商社や大手メーカーから内定が出ていた。

投票マッチングサイトは無料。マネタイズが難しい。実際、5年間サイトを運営したが、「食べていくのが大変だった」という。

総合商社に入れば、日本では高年収が約束される。

それでも政治の世界を選んだ理由について、鈴木さんはこう語る。

普通に就職していたら、震災で感じた気持ちが風化する気がして、それが嫌だった

気持ちの風化。after3.11世代はあの時に感じた気持ち、何か社会のためにしなければ、という思いを忘れたくないと感じている。ある種のリスクも覚悟して、自分が本当にやりたいことは何かを自問した結果、今ではその分野で最前線にいる。

震災を機に自分の存在価値を問う

震災の影響を受けたのは必ずしもボランティアに行った人に限定されない。

今はReadyforでキュレーターとして働く田島沙也加さん(1990年生まれ、27)は大学入学当初から、ホームレスの方向けに炊き出しや介護の手伝いなどのボランティア活動をしていた。

震災が起きたのは大学1年の時。街頭での募金活動には参加したが、当初は被災地には行かなかったという。

「地震当日、父は福島県郡山市にいました。家に残っていた母が、毎日テレビで流れる被災地の状況を見てひどく落ち込んでしまって。娘にもあの光景を見せたくないから、行かないでと言われて。それを振り払ってまで私ができることって何だろう?とすごい考えた」

当時20歳、「自分の価値とは何か?」を考える初めてのきっかけとなった。

よく自分らしく働け、自分らしく生きろと言われるけど、自分らしくいるって誰が幸せになるの?と考えてしまって。その頃には、何か社会に貢献できる人間にならないといけないという使命感を抱いていた

たまたま行ったイベントでReadyforを創業した米良はるかさんに出会い、「お金を出すことで何かしようと思っている挑戦者を助けられる仕組み」に心を動かされ、インターンとして参画した。

田島沙也加

震災直後には被災地にボランティアしに行かなかったが、Readyforでは震災関連のプロジェクトを多数成功に導いた。

就活は「とりあえず」大企業にエントリーしていたが、Readyforで今自分ができることの価値を信じようと思いそのまま入社した。

「自分1人が成長するよりも、何かやろうとしている人たちが挑戦できる環境を整えた方が世の中に与える社会的インパクトが大きいのではないか」

その後、300件以上のプロジェクトの資金調達を成功させ、最近では病院や大学、自治体など、今までクラウドファンディングが活用されていなかった領域にまで広げようとしている。


全員に共通しているのは自分のやりがいや幸せを感じる対象が社会に向いている点だ。社会に貢献することで、自分が幸せになる。

3.11で若いうちに「死」を意識したことも大きい。「死生観」を持っているからこそ、やりたいことを先伸ばしにしない。

こうした新しい価値観を持った「after3.11世代」が社会の中心になる頃には、日本社会は大きく変わるかもしれない。

(文、写真・室橋祐貴)

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