2011年3月11日、東日本大地震をきっかけに価値観が変わり、今までの暮らしや働き方を変えたという人は多い。中でも、当時まさに進路に迷っていた大学生や新卒で入社したばかりの世代に与えた影響は大きい。そうした世代をBusiness Insider Japanでは「after3.11世代」と名付けた。
あれから7年。当時多くの学生がボランティアで被災地に入ったが、そこでコミュニティーの価値や現地ニーズの重要性を学んだ人は多い。2回目は、そんな新しい考えを持ってまちづくりに従事している人たちの話である。
震災から7年経過したが、震災の被害を物語る建物は所々に残されたままだった。
文化や価値観で差別化したまちづくり
「僕らバブルを知らない世代は、お金を(必要以上に)稼ぐ幸せを知らない世代。お金を稼ぐことが豊かさに直結しない。そうすると、一人一人が豊かさを決めないといけない」
震災をきっかけに設立されたNPO法人「SET」の代表理事を務め、2015年から岩手県陸前高田市の市議会議員も務める三井俊介さん(29)は、今の若い世代の価値観についてこう話す。
SETでは約150人もの都内の学生・社会人が陸前高田市広田町で4カ月間の移住留学や地元の中高生向けのキャリア教育プログラム、地域おこし実践プログラムなど、人材育成を通したまちづくりに取り組んでいる。
三井さんは2011年4月以降、毎月広田町に通い復興支援に携わりながら、「広田町の人たちが好きで、新しいことができる『余白』があるからやりたいことができそう」という思いから大学卒業直後の2012年4月に移住した。
前列左から2番目が三井さん。SETでは年々都内から通う学生が増え、今では数十件ものプロジェクトを実施している。
写真:木許はるみ
まちづくりを進めていくために人材育成に力を入れているが、その理由について三井さんはこう話す。
「社会問題は結局人がつくっている。だからこそそれを解決する人を増やしていかないといけない。SETを始めたときも最初は広田町が抱える問題の解決策を考えたが、誰が実行するか考えたときに必要だと思ったのが、『やりたい』と思う人を育てることだった」
三井さんが目指す広田町の形は「『やりたい』が『できた』に変わる町」。
「震災が起こった町だからこそ、今を大事に生きている住民と交流でき、『余白』があるからこそ、誰かのために何かやった原体験を得られる。goodなchangeを起こせる人を育て、広田町そして日本を変えていきたい」
一般的にまちづくりは観光名所や特産品を作って差別化してきたが、広田町では新しい文化、価値観を持ったまちづくりを目指している。
「気仙沼発」の生き方を全国に
初対面の人がこたつを囲み、朝まで語る。宮城県気仙沼市にある「ゲストハウス架け橋」では、毎日そんな光景が見られる。
ゲストハウスを作ったのは、福岡県出身の田中惇敏さん(25)。2012年にボランティアを派遣する学生団体を立ち上げ、2014年に九州大学を休学し、気仙沼に移住した。
ボランティアとして通い続けることで地元の人と信頼関係が構築できた経験から、空き家を活用して安く泊まれるゲストハウスを作った。気仙沼に移住したのは「被災地」だからではない。
「気仙沼には一緒に生きたい人たちがたくさんいて、第二の家族がいる。今こうしてゲストハウスでいろんな人と飲んだり話したりできるのも幸せ。それができる場所がたまたま気仙沼だった」
田中さんがまちづくりで重視しているのが人や自然との関係性だ。「友達」と一緒に働き、ゲストハウスに泊まる人とも積極的に交流する。
泊まった人のリピート率は約3割にも達し、みんなが気仙沼で出会った人々に会いに戻ってくる。
「今では『いらっしゃいませ』よりも『おかえり』の方が多くなりつつある」
被災地という立場でいる限り、ボランティアで来る人は徐々に少なくなる。だからこそ気仙沼本来の魅力を伝え、別の目的で気仙沼に来てくれる人を増やそうとしている。今はゲストハウスに泊まった人と農業や漁業、狩猟を一緒に体験できる活動の準備をしている。
今は全国10カ所で空き家を活用したゲストハウスを運営しているが、「今後はその数を100に増やし、人や自然との関係性を重視した『気仙沼発』の生き方を全国に展開したい」
筆者が泊まった翌日の朝には母親らが子連れで働ける「絵本カフェ」が開かれていた。
スポーツを通じたコミュニティー再生
東日本大震災から7年が経過し、被災当時高校生だった若者も社会人となり、地元から離れた人も多い。
そうした中、今でも地元に住み、町の「復興」に貢献する若者もいる。高校2年生のときに宮城県南三陸町で被災し、今も南三陸に住み、まちづくりやコミュニティー形成に関わっている佐藤慶治さん(24)。
今も南三陸で活動を続ける理由についてこう語る。
「自分の家系は曾祖父さんから大工をしていて、町の生活の一部を作り上げてきたのを誇りに思っている。今は祖父や父親の世代がハード面を頑張って直しているから、自分はソフト面、コミュニティー再生に貢献したい」
どうすればコミュニティーをつくれるのか。悩んでいたときに出会ったのが「生涯スポーツ」だった。
大学時代に、生涯スポーツが普及しているフィンランドへの留学を経験した。
「フィンランドに行って学んだのは、スポーツ=競技、ではないということ。通勤のときにサイクリングするのもスポーツだし、スポーツの仕方は自由。だからこそスポーツが生活に溶け込みやすくて、コミュニティーの一環にもなっている」
今は「南三陸町観光協会」で働きながら、「あくてぃぶ」という団体で、週2回程度、体育館でスポーツをする活動をしている。毎週種目を変え、「たまにスポーツをやりたい人が気軽に入って来やすいようにしている」。
2017年に南三陸で6年ぶりにビーチが復活し、20代前半のメンバーらが中心となって東北で初めてとなるビーチアルティメットの大会を開催した。
提供:佐藤慶治
震災から7年が経ち、多くの仮設住宅は撤去が進む。震災で一度壊れ、再構築された仮設住宅でのコミュニティーが再度壊れている。今また新しくつくり直さなければいけない状況にあるという。
「復興の次のステップは町を繁栄させること。10〜20年後、町の中心にいるのは僕たちの世代。そこに備えて、僕たちは頑張らないといけない」
住民のニーズに沿ったまちづくり
最後に紹介するのは、今は東京を中心にまちづくりに関わる細田侑さん(27)。
震災が起こった当時、細田さんはヒッチハイクで沖縄にいたが、東京に戻るとすぐに被災地でのボランティアに参加。妊婦や病気を抱えた人など、避難所で特別な支援が必要な人を行政に知らせる役割を担った。
被災地から戻って始めたのが、東京の墨田発復興支援プロジェクト「ガクつな」。当時通っていたデザイン系の大学を中退し、復興支援などに関わった後、まちづくりを学ぶため2013年に東京都市大学に入り直した。
「復興に関わる中で、ずっともどかしさを感じていた。現地で困っている人の助けにうまく応えることができず……一方で、行政と住民のニーズのギャップも見えて苦しい時期だった」
「地域の問題はその地域の人が解決できるのが望ましいと思って。それを手伝うのがまちづくり。人がどうやったら安心して暮らせるのか、地域の人とのどうコミュニケーションするのかなどを学びたくてコミュニティーデザインを学べる学校に入った」
墨田区出身だが、伊豆大島にある高校に通った経験から、離島のまちづくりに関心を持ち、全国の島々が集まる祭典「アイランダー」や地元・墨田のすみだ青空市「ヤッチャバ」など、さまざまなまちづくりに関わっている。
右から3番目が細田さん。地元・墨田で長年まちづくりに関わる。
提供:細田侑
その活動に、震災の影響は大きく残っているという。
「まちづくりの対象になっている人が何を求めているのか、情報なのか、人なのか。それをよく観察するようになった。震災前から『人の役に立ちたい』という意識は強かったが、それをより考えるようになった機会だった」
今の大都市に住む若い世代は地域のコミュニティーというものをを知らない。核家族化し、近所との付き合いも薄い。だからこそ、地方の今も残るコミュニティーに価値を感じ、コミュニティーづくりに励む若者は多い。従来のハコモノ中心のまちづくりではなく、人を育て、人との関わりを重視する。そうした若い世代が考える新しいまちづくりが広がりつつある。
(文、写真・室橋祐貴)