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フィンランド政府は2017年1月より2年間の計画でベーシックインカムの給付実験を行っているが、先日、この給付実験が中止されることとなったというニュースが世界中を駆け巡った。『ベーシック・インカム入門』の著者で、同志社大学の山森亮教授は、この報道に疑問を投げかける。
一部のメディアの見出しはセンセーショナルなものだった。以下に列記しておこう。
「急に中止することとなった(is killing)」(Business Insider, 4/19)
「まったく失敗に終わった(falls flat)」(BBC News, 4/23)
「スクラップにする(scrap)」(Sky News, 4/24)
「失敗したベーシックインカム給付実験(failed universal basic income experiment)」(Olando Sentinel, 4/24)
「機能しなかった(didn’t work out)」(USA Today, 4/25)
これらの見出しは不正確、ものによっては誤報であると言わざるをえない。もともと実験は2年間の予定で行われており、少なくとも現時点ではそのことに変更はなく、当初の計画通り、2年間まるまる行われる予定である。実務を管轄しているフィンランド政府の行政機関「社会保険庁(KELA)」は、メディアの「事実に反した報道(incorrect reports)」に苦言を呈している(Kela Press release, 4/25)。
実験結果の分析はまだ行われてもいない
フィンランド議会の様子(但し、写真は大統領就任式時のもの)。
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ただ、「火のないところに煙は立たない」とも言う。この場合の「火」とは何か。
1つは、KELAが実験の延長を提案したが、政府は承認しなかったという事実だ。
もう1つは、現在のフィンランド政府がベーシックインカムの導入に向けて前へ進もうという方向に向かっているかというと、そうではないということだ。ただし、これは最近初めて明らかになった事実ではなく、2017年秋の時点ですでに明らかになっている。
2017年の秋、フィンランド政府は失業手当給付について、求職に向けた活動実績などの要件を2018年1月から厳格化すると発表した。この決定に対しては、10万人を超える反対署名が提出されるなど多くの批判が集まったものの、予定通り実施されている。
政府は新しい方針を「アクティベーション・モデル」と呼んでいる。失業者を「アメ」と「ムチ」で就労復帰させることを政策目標の中心に据えるこの考え方は、(失業者を主にムチで就労復帰させようとする「ワークフェア」と並んで)ベーシックインカムとは正反対の方向を向いていると一般に考えられている。
いずれの決定も、実験で思うような結果を得られなかったからとか、実験が失敗に終わったからとかいうことでは全くない。実験の効果については、実験終了後にKELAが分析することになっていて、現時点では何の分析も始まっていない。
筆者がフィンランドで目にしたもの
筆者がベーシックインカムに関するワークショップに参加したフィンランドの地方都市トゥルク。
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現在進行中の実験の詳細を政府が発表した2016年8月25日、筆者はフィンランドの地方都市トゥルクでベーシックインカムのワークショップに参加していた。翌日以降、トゥルクと首都ヘルシンキで、政府担当者のほか、長年ベーシックインカムを提唱してきた研究者、議員、活動家などに取材することができた。
印象的だったのは、政府担当者を除いて、いずれも落胆ないし醒めた眼差しを実験に対して向けていたことだ。数日後に世界各地のメディアがセンセーショナルな見出しで報じた(一連の報道の中にはベーシックインカムそのものを導入するとの誤報もあった)のとは、とても対照的だった。
長年ベーシックインカムを求めていた人たちが、なぜ当初から実験に懐疑的だったのか。一番の理由は、実験対象者が失業手当の受給者のみに絞られたことだ。提唱者たちが考えるベーシックインカムの理念と、(実験を行う主体である)政府の考えが、正反対のところにあることが明らかとなったのである。
提唱者たちの理念と政府案の「乖離」
フィンランド社会保険庁のあるオフィス。
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今回の実験はもともと、2015年春に行われたフィンランド議会総選挙で、当時野党だった中央党が選挙公約として、給付実験の実施を掲げたことに端を発している。選挙後、中央党は他の2つの保守政党と連立を組むことになり、実験は連立政権によって認められた。政府は同年秋、KELA内に研究者などから成るワーキンググループを設置し、翌2016年3月に実験の青写真を示す暫定報告書を提出させた。
政府が発表した実験の詳細は、月560ユーロ(690米ドル)という給付額こそワーキンググループの提言に沿ったものだったが、一点、根本的なところで提言をひっくり返すものだった。すなわち、実験の対象者を抽出する母集団を、稼働年齢層全体ではなく、失業手当受給者に限定したのである。
ワーキンググループは前出の暫定報告書の英語要約版(公表は2016年10月)の後書きで、「暫定報告書で提案した最適な実験案と比べて、政府案は焦点と範囲がかなり限られてしまっており、多くの人にひどい失望をもたらした」と言及している。
フィンランドで長年ベーシックインカムを提唱してきた人たちは、人々を狭義の雇用に縛られがちな状況から解放し、生活費を稼ぐことに全精力を使い果たすのではなく、当座の生活費を心配したり、失敗に怯えることなく長期的な視野で、自分が社会にどのような貢献ができるのか、自分を生かした活動を行える社会を可能にしてくれる、そういうベーシックインカムの可能性に賭けていた。
それに対して、政府による給付実験は、失業者を狭義の雇用に押し込むことに主眼を置いていることが明らかだったのである。
現地の関係者たちに意見を聞いてみると……
日本版のBusiness Insiderから本稿の執筆依頼を受けた筆者は、ここまで述べてきたような状況について、ベーシックインカム給付実験の関係者や、研究者、活動家などにコメントを求めた。以下はその一部で、いずれも4月末時点のものだ。
給付実験の青写真を描いたKELAのワーキンググループのメンバーだったヴィラベッコ・プルカ氏は、「政府はこれまでも決してベーシックインカムの理念に肩入れをしてこなかった。いわゆる『アクティベーション・モデル』ばかりを強調してきた。フィンランドの所得保障は今ではむしろ実験前より条件の厳しいものになってしまっている」と語った。
ベーシックインカムを綱領にかかげる野党・海賊党のペトルス・ペナネン副代表は、「実験は最初からフェイクだった。政府のチーフ経済アドバイザーであるマーティ・ヘテマキは、ベーシックインカムが何だか分かっていない上に、人々を怠け者にすると考えている」と手厳しい。
同党の前党首だったタパニ・カービネン氏は、「実験は失敗するよう仕組まれていた」と同調する一方、「(ベーシックインカムについての)公共の議論を喚起する効果があった」ことも指摘する。
政府は実験の拡張には否定的だった
2018年2月、失業者給付を減額する議会決定に対して抗議行動を起こした首都ヘルシンキの市民たち。
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半世紀近くにわたってベーシックインカムを提唱してきたアボ大学名誉教授のヤンオット・アンダソン氏も、現在の政府の方向性には疑義を持ちつつ、政府が実験を行ったことのポジティブな帰結として次のように述べ、社会民主主義者たちの態度の変化を挙げている。
「(現在野党の)社会民主党は、これまでベーシックインカムに批判的だったけれども、今ではベーシックインカムやそれに類似した負の所得税などのシステムへ現行の制度を改革していくことに大きな関心を持つようになっている。(2019年の総選挙後の)次の政府が正しい方向へ歩むかもしれないことを期待したい」
ベーシックインカム・フィンランド・ネットワーク元代表のオット・レヒト氏は、「政府はそもそも最初から小規模の実験だけを行う予定で、(期間を延長したり給付額や対象を増やすなどの)実験の拡張には一貫して否定的だった」と振り返っている。
フィンランドでのベーシックインカムをめぐる状況と、それについてのメディアの報じ方を振り返って、私たちが学べることは何だろうか。2016年8月末に野党・緑の党所属の欧州議会議員ハイディ・ハウタラ氏が、筆者の取材に対して、政府の実験案の問題点を指摘した後で、「私たちがこの経験から何を学べるかが大事だ」と述べたことを、今思い出している。
山森 亮(やまもり・とおる):同志社大学経済学部教授。1970年生まれ。京都大学大学院経済学研究科修了。著書に『労働と生存権』『貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか』『ベーシック・インカム入門』など。