元CM制作プロデューサーの久野美穂さん(38)は、6月から入院による緩和医療を受けている。2012年に発症した乳がんが脳や頭蓋骨にも転移していると判明したのは5月のことだった。現在は数種類の医療用麻薬(モルヒネなど)を調節しながらがんの痛みを抑えている。
関連記事 :乳がんステージ4からのハローワーク——「麻央さんとは違う」車椅子シングルマザーが在宅でがん治療をするという現実
病床の彼女が今一番伝えたいこと。それは、子ども食堂の「真実」の姿だ。
「車椅子になって分かったことは、子どもの目線に立って話すことの大切さです。1mの高さでものが見える。子どもの側に立ってものを考えられるようになりました」と久野美穂さん。
撮影:古川雅子
「こんなに体がボロボロになっても…」
美穂さんはライフワークとして「みなみこしがや子ども食堂」(2017年秋から「みなみこしがやこどもレストラン」と改称)の活動を2016年2月からほぼ月1回のペースで続けてきた。昨年から骨転移による下半身麻痺で寝たきりの状態だが、2カ月前までは毎月車椅子が乗る介護タクシーでなんとか出かけていた。
「周囲からは、『自分の体を優先して!』と言われることもある。こんなに体がボロボロになってもなぜ続けているのか。自分でも意味がわからない(笑)」
と自虐的に言う。
シングルマザーの美穂さんは、長男で小学3年生の碧星(かいせい)くんと2人暮らし。2012年に乳がんを発症後、在宅での療養を続けて来た。近所に住む母親(69)は、高齢な上、看護師としての仕事もあり、立ち寄れるのは大抵夕方か夜になる。一人暮らしに近い闘病生活だ。
自分のいのちも食堂の経営も綱渡りの中、決して途切れさせぬよう活動をつないできた——そんな自負心と情熱が伝わってきた。思い入れがある活動だけに、「きれいごとだけじゃない現実」も見過ごせないとも話した。
彼女が病床で語ったのは、主宰者として内側から見た子ども食堂の等身大の姿だ。
「子ども食堂」は、今や全国に2286カ所もある(湯浅誠法政大学教授が代表を務める「こども食堂安心・安全向上委員会」調べ)。なかでも100人規模の親子が集う「みなみこしがやこどもレストラン」は、集まる人数も多く、地元での知名度も高い。創設から3年目に入った。
「最大で30人ほどの(現在は20人強)ボランティアさんに支えられてここまで続けてこられた」
と美穂さんは言う。
「母親が楽するため?」ボランティアからの疑問
地域の子どもに無料か安価で食事を提供する「子ども食堂」。美穂さんらは子どもには無料で、大人には300円で食事を提供してきた。用意するのは「あたたかなごはん」と「ほっとするだんらんの場」。子どもにとっては「楽しい居場所」。ただそれだけ、というスタンスを貫いてきた。「貧困家庭向け」と限定しなかったのは、本当に困っている子どもたちが足を運びにくくなってしまうからだ。
「参加した子どもが『楽しかったよ』と口々に話題にして、『それなら僕も、私も行ってみたい!』とあらゆる子たちが思える場にすることを、目指してきました。最終的に本当に経済的に困っている子どもにも情報が伝われば、足を運んでもらえるかもしれない。そのためにも、息の長い取り組みでなければ。『絶対に大人の都合で子ども食堂をなくさない』と最初に決めたんです」
抗がん剤の治療予定とにらめっこしながら、体調が回復する時期に子ども食堂のスケジュールを組んだ。チラシも美穂さんがPCで手作りしている。
撮影:古川雅子
だが、門戸を広く開けば新たな課題が生まれる。
美穂さん主宰の子ども食堂は評判が高まり、一時期は130人以上も集まった。支え手としてのボランティアの数は限られている。一回の開催に十数人のボランティアが集っても、100食を上回ると、食事の用意だけでもスタッフはてんてこ舞いになり、疲弊感が募ってくる。
代表である美穂さんには、調理を担うスタッフらから「大衆食堂と化していないか?」「普通の母親が楽をするために私たちは働いているの?」といった疑問を突きつけられるようになった。
60代、70代のスタッフも多いため、体力の問題や世代間ギャップもある。若いスタッフも、子育てとギリギリで両立しており、毎回参加できるわけではない。
全てボランティアで賄うため、常時余力を持ってとはいかない。
「ここはガスト?」大衆レストラン化への懸念
キャパの問題と大衆食堂化への懸念は「みなみこしがや〜」だけでなく、全国各地の子ども食堂が抱える悩みでもある。全国274団体から回答があった農林水産省の調査では、課題として、「来てほしい家庭の子どもや親に来てもらうのが難しい」と回答する団体が42.3%を占めていた。「みなみこしがや〜」もやむなく、2017年から定員を設けた。
「誰にでも気軽に来てもらえる食堂を目指しているので、定員になったらバチっと切る、みたいなことはしたくない。今も、申し込みがあったらなるべく受けられるよう、ギリギリまで調整する努力はしています」
ただ、スタッフが疲弊してくると、「残飯がこんなに? 好き嫌いなくなんでも食べてもらわないと」「ごちそうさまの声が聞こえてこない」といったボヤキも聞こえてくる。
「どうだった?」という1枚の貼り紙から「ごちそうさま」の声が生まれる。
久野さん提供
「『ここはガスト?』と本音を漏らす人もいます。残飯は毎回、場所をお借りしている地区センターに残さないように、スタッフが手分けしてゴミ袋に入れて持ち帰っています。そうした現実は、みんな知らないと思うんです」
一方で美穂さんは代表として、「残さず食べて」とマナーを強調したり、あいさつを強要したりするような「教育的」な空気を出したくないと考えてきた。ほっとするあたたかな場所という雰囲気を壊したくないからだ。そこで4月、食器を戻すスペースの前に一枚の貼り紙をしておいた。〈きょうのごはんはどうだったかな? 感想を聞かせてね〉と。
「そうしたら、みんな言うようになりました。『おいしかったぁ〜』って。その一言が聞けただけでも十分だなと。ちょっとした仕掛けで子どもが自発的に言葉をかけてくれるようになる。私も毎回学ばせてもらっています。ただ、世の中の大人の人には知ってもらいたい。ボランティアがどんな思いで、どんなに必死で場づくりをしているかということを」
「孤食の風景」が活動の原点に
撮影:馬場磨貴
乳がんのしこりに気づいたのは、6年前。息子はまだ2歳だった。手術を受けた翌年に、がんが血液を巡って体のあちこちに転移する「多発性骨転移」が発覚。ステージ4の末期がんとの診断で、仕事を休んで治療に専念した。翌2016年1月、仕事に復帰。休職期間の穴を埋めるよう猛烈に働いていたところ、夫とすれ違い、離婚。シングルマザーとしての道を歩むことになり、心も体もすり減っていた頃に、子ども食堂というライフワークに出会った。通勤の満員電車の中で目にしたネットの新聞記事を読み、「自分も何かできないか」と考えたのがきっかけだ。
「病気も離婚もして、一人で子育てしていて。何より、自分が人とつながりたかったんでしょうね。それに、病気になるまでの私は、仕事人間でしかなかった。自分さえよければという考えは捨てて、誰かのためになることをしたいと」
その頃、仕事帰りに碧星くんを保育園に迎えに行き、決まって寄るのは自宅近所のファミリーレストランだった。経済的にも仕事は手放せなかった。子育てとの両立に疲れ果て、ごはんをつくる気力もなくなっていた。夜8時にもかかわらず、たくさんの親子連れの姿があった。自分と同じように、仕事の後に立ち寄ったであろうスーツ姿の母親と子どもの姿もあった。「ワンオペ育児」で奮闘する母親たちは、どこか孤独なのだと感じた。
「当時、まだ幼かった子どもと2人きりのごはんはわびしく、とても孤独だった」
と美穂さん。
「共働きの人もひとり親世帯も、みんな孤食。それなら、ここに来ているような親子連れが、みんな一堂に介してごはんを食べることができれば、孤食が解決するかもしれない」と考えた。ノウハウも地元のコネクションもない中、チラシを作ってボランティアを募るところから始めた。
初回は自分でお金を出しての開催だった。メニューはカレーライス。5人ほどの子どもが来てくれた。
「普通のカレーだったけれど、世の中にはこんなにおいしいカレーがあるんだ!と思うぐらい感動したのを今でもよく覚えています」
継続のカギはボランティア集め
大勢の人が利用するようになった子ども食堂。
みなみこしがやこどもレストラン提供
全国に次々できている子ども食堂だが、継続することは難しく、閉鎖も相次いでいる。
美穂さんは、初回開催後にクラウドファンディングサービス「Readyfor」で33万円を集め、お皿など物品や食材の購入費に充てた。当初は倉庫を借りず、自宅を物置きに。段ボール10箱前後の飲み物や米などが寄付でドーンと送られてくることもあった。
私が初めて美穂さんの自宅を訪ねた時は、玄関扉が開かなくなるほどダンボールが積み上げられていた。活動を応援したいと毎月のように支援してくれる人が現れたのだ。玄関の出入りも困難になったため、その支援者には事情を正直に話したところ、それ以降は物品の代わりにお金を振り込んでくれるようになった。そうした寄付金と自治体の助成金とでやりくりして今日まで運営費を賄ってきたという。
何より大変なのは、ボランティアを集めることだ。高齢のボランティアが持病で戦線離脱したこともある。子育て真っ最中のママボランティアたちは、子どもの体調や学校の行事で毎月のようには手伝えない。メニューづくりや買い出しなどは10人の運営メンバーで協力して進めてきたが、ボランティアの負担を減らそうと、美穂さんは、チラシづくりや農家との交渉、参加者からの問い合わせ対応、行政とのやりとり、助成金の申請書類づくりなどを、今回入院するまで一手に引き受けていた。
毎回コンテナ10箱分はある物品の搬入は、ボランティアの手を借りた。「今月は人手が足りなくてピンチ!」と聞いた時には、私も取材を兼ねて手伝わせてもらったこともあり、その時は碧星くんも台車を押したり、持てる荷物を持ったりしていた。
「正しさ」では割り切れない子育てにある問題
子ども食堂を開催している地区センターの近くに倉庫を借りたのは、下半身麻痺で歩けなくなってしばらくして、首の骨にも転移が分かってからのことだ。
撮影:馬場磨貴
子ども食堂は現代社会の縮図だと感じたのは、2016年12月のクリスマスイベントを兼ねたランチバージョンの子ども食堂だった。100人近く集まるいつも通りの賑わい。美穂さんは前の晩、ほぼ徹夜で子どもたちに渡すプレゼントを包装する作業を行っていた。
食後にプレゼントを渡す予定だった。だが、1人の子が嘔吐したのを機に、場は騒然とした。その子は1人で食べに来ていた。周りの母親やボランティアが吐しゃ物を片付ける中、ある母親は美穂さんにこう問い詰めていた。
「もしかして、家族が体調を崩していてあの子だけ来たのでは? もし嘔吐下痢などの感染症だったらまずいことになる。ちゃんと調べてほしい」
美穂さんは苦渋の表情を浮かべていたが、企画していた「あそび」の時間は中止し、「サンタさんとじゃんけんしながらプレゼントを手渡す」というミニ企画に急きょ変更。子どもたちには心配を与えないよう配慮しながら全員を速やかに帰した。私は前日までの準備を知っていただけに、さぞかし無念だったろうと思ったが、あの時の美穂さんのとっさの判断は、英断だったと思う。
今の社会では、子どもの安全を考えれば、親同士の警戒心も強くなる。社会の論理を持ち込めば、ささやかな交流の場でさえ息苦しくなる。そんな一面を見た思いがした。一連の風景を見ていて、筆者は子育ての現場には「正しさ」では割り切れない、複雑な問題が山積みだと痛感したのだった。
いちばん助けられているのは病身の私
昨秋、都内で自身の闘病と子ども食堂をテーマに講演した美穂さん。今も子ども食堂の代表を務め、スタッフとの打ち合わせは病床で行う。
撮影:古川雅子
実は今回、入院前に自宅で痛みに悶え苦しんでいた美穂さんは、「こんなに苦しいなら、はやくお空に行きたい」とまで思っていたという。「もはや、子ども食堂の閉店も考えなければならないのか……」と諦めかけたこともあった。
水分も受け付けず、ひたすら吐くことを繰り返していた時期に、ちょうど次回開催の食事メニューを検討するスタッフミーティングが重なった。急遽、スタッフには自宅に来てもらった。その時点ではもう、次回以降の参加は難しいのではと美穂さんは覚悟していた。
すると、スタッフの1人がこんなことを打ち明けた。
「ぶっちゃけ、美穂さんのいないところで、今後子ども食堂を続けていくのかどうか、皆で腹を割って話し合ったんです。そうしたら、全員一致で、『美穂さんとは別の人が代表になったら、解散する。美穂さんがやっているから、私たちは続けている』ということになって。だから、あなたが代表を続けている限りは、たとえ現場にあなたが顔を出せなくても、私たちはなんとか開催し続けるからね」
その言葉を聞いて、美穂さんは熱く込み上げてくる思いだったという。
「正直驚きました。そのミーティングの間も、ゲロゲロやっている私の背中を皆でさすってくれたり、吐しゃ物の始末をしてくれたり、私は世話になりっぱなしだったんです。私は、誰かに代表を代わってもらっても活動が続いていけばと思っていたのに、支えられていたのは私だった。私が引っ張ってるつもりだったけれど、逆だったんだなあとわかったんです」
6月の子ども食堂は、入院のため参加できなかった。参加した子どもたちは口々に、
「あの車椅子のひとは?」
と心配していたと後になってスタッフが美穂さんに伝えた。
準備を手伝ってくれる小学生も
6月に入院後、病院の緩和ケアチームのケアを受けている。痛みがコントロール出来る時間には、息子とテレビでサッカーW杯の観戦も。
久野さん提供
ある時から毎回、自らの意思で当日の準備を手伝ってくれるようになった小学生もいる。その子たちは、毎回美穂さんに褒められるのが嬉しくて手伝いを続けているとも聞いた。
最近になり、緩和医療に加え、腫瘍の放射線照射が功を奏し、体調も上向きに。美穂さんは、「当面は(子ども食堂の)閉店は考えず、頑張っていこうと思います」と語っていた。
「私は何もできなくなった人ではないんだ。車椅子でただ座っているだけでも、待っていてくれる子どもたちがいるんだ。そう思うと、元気が出てきます。今の感じだと、近いうちに参加できるぐらいに回復しそうな勢いです」
(文・古川雅子)