撮影:今村拓馬
6月29日。戦後最大の労働時間規制の緩和となる「高度プロフェッショナル制度」(高プロ)が国会で可決・成立した。
休憩・休息時間の付与なし、深夜労働、休日労働に関する労働時間規制が全て外され、もちろん残業代も発生しない。
制度の対象者は「高度の専門的知識等」があり、年収が1000万円超の人である。
法律には「高度の専門的知識等」がある人と書いてあるだけで、野党が具体的な業務とは何かを追及しても政府は「法案成立後の省令で検討する」と言うだけで明かされなかった。
ただし、法案提出の根拠となった厚労省の審議会の報告書には「金融商品の開発、金融商品のディーリング、アナリスト(企業・市場等の高度な分析業務)、コンサルタントの業務(事業・業務の企画運営に関する高度な考案又は助言の業務)、研究開発業務等」が例示されている。だが高度の専門的知識を持つ人は金融業やコンサルタント業だけではないし、全ての業種にいる。実際に高プロ導入に熱心な経団連は一部の業務に限定せず、研究職、技術職、市場調査担当などあらゆる業務への適用を求めている。
通勤代入れると年収880万円も対象
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仮に省令で例示のように対象業務が抽象的かつ網羅的に列挙されると、企業は独自の判断で対象者を決定することが可能になる。
また、年収要件として「労働者の平均給与額の3倍を相当程度上回る」という条件がついている(具体的には年収1075万円以上を想定)。具体的には厚生労働省の「毎月勤労統計」の家族手当などの諸手当込みの毎月の給与×12カ月で年収1000万円超の人が対象になる。
厚労省の山越敬一労働基準局長がこの年収に「通勤手当」が含まれると国会で発言し、話題となった。
通勤手当はその人の能力に関係なく支払われ、新幹線通勤の人も珍しくない。ちなみに静岡県の三島駅から東京駅までの1カ月の定期代は9万円超、栃木県の宇都宮駅からだと10万円超、軽井沢駅からだと12万円超である。月額10万円だと年間で120万円。通勤手当を除いた年収880万円でも高プロの対象者になってしまう。
残業代なしの「働かせ放題」が可能に
労働時間規制の適用除外の副作用として懸念されるのが長時間労働の発生だ。
高プロ制度を採択にするに当たって長時間労働防止措置として、「年104日以上かつ4週4日以上の休日確保」を義務づけている(ただし、月初めに4日休ませて残りは毎日24時間連続勤務させることが理論上可能になる)。そのほかに①勤務間インターバル制度の導入(終業から始業までの休息時間の確保)②労働時間の上限設定③年に1回以上の2週間連続の休日取得④臨時の健康診断の実施 —— からいずれか1つを選ぶ必要がある。
だが、そもそも高プロに労働時間規制がないことに魅力を感じているのに①や②を選択するとは思えない。最も簡単な健康診断の実施を選択することが想定される。
対象業務の定義が曖昧なうえに年収の中には通勤手当なども含まれるとなると、対象者が拡大し、事実上の残業代なしの「働かせ放題」が現実のものになる可能性もある。
中小企業から引き下げ要求の可能性
経団連にとって高プロ制度導入は悲願だった。右は榊原定征前経団連会長。
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もともと経団連は高プロと同じ仕組みの、アメリカの「ホワイトカラーエグゼンプション(適用除外)」の日本版を2005年に政府に提案し、第一次安倍政権で法案提出寸前までいった。
だが、経団連が年収400万円以上の社員を対象にしていたことに世論が「残業代ゼロ法案」と反発し、取り下げた経緯がある。今回ようやく経済界の長年の悲願が実現したわけだが、今後年収要件が下げられ、高プロ対象者が増えていく可能性がある。
経団連の榊原定征前会長も2015年に記者会見で「全労働者の10%程度が適用を受けられる制度にすべき」と記者会見で述べていた。労働者の10%といえば、500万人程度になる計算だ。
実際に人事関係者の間でも年収1000万円は高すぎるとの声もある。ネット広告業の人事部長は「年収要件1000万円はハードルが高い。当社で1000万円以上もらっているのは管理職クラスが大半。管理職は時間管理をしていないので意味がありません。せめて600万円にまで下げてもらうと、対象者が20%ぐらいになるので利用価値は上がる」と語る。
建設業の人事部長はいずれ1000万円の年収要件が下がるのではと予測する。
「年収要件の1000万円超のプロフェッショナル職となると、大企業でも製薬、銀行、商社など業種が限られるでしょう。下請け会社の人事担当者が『うちは管理職の上のクラスが1000万円。高プロに当たる技術系の専門家クラスは600~700万円です。同じ専門家であっても優遇を受けられるのは大企業だけで不公平だ』と言っていました。そうした不満は絶対に出てくるでしょう。今回の導入を推進したのは大企業中心の経団連ですが、今度は日本商工会議所など中小企業団体から1000万円を下げろ、という運動が起こるのは間違いない。そうなると政府も『国民の声』を名目に年収を切り下げてくるのではないか」
仮に大企業の多くが社内に「高プロ制度」を導入すれば、他の企業から年収要件の切り下げ要求の圧力が強まるかもしれない。
過労死起きれば批判されるリスク
一方、高プロ導入に慎重な意見もある。玩具などアメニティ関連のグッズの製造・販売を手がける企業の人事担当者はこう語る。
「当社は商品企画がメインですが、とにかく仕事が好きでたまらない社員が多く、ほっとけば夜中まで夢中になって仕事をしています。人事が『早く帰れ』と何度注意しても聞かずに隠れてやっているのが実状。こういう社員ほど本来、高プロにはうってつけだと思いますが、一方では野党も過労死を引き起こすと導入に批判していましたが、さすがに好きでやっているから死にはしないと思いますが、下手をすると病気で労災認定をされて、企業のリスク管理の責任を問われることになりかねません」
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人事担当者にとっては、できれば「高プロコース」を設定し、企画開発部門を中心に適用したいという声も少なくない。だが、「104日以上の休日」などの健康確保措置が現行の労働基準法から外れることによる管理の難しさを指摘する声もあれば、長時間労働を防止できないのではという不安もある。
もう1つの懸念は社員自身がどう思うかである。サービス業の人事部長はこう指摘する。
「社内には実際に本来の高度専門者と言われる人も20人程度います。そのほかに管理職から外れていますが、1000万円超の課長待遇、部長待遇の社員もいます。うちだけではなく、できればこの人たちも高プロコースに入れたいと思うでしょうし、そうなればうちでは100人ぐらいの高プロが誕生する。
でも社員からは『あの人は年齢は高いけど、高度専門職じゃないよね』と言う声が出るのは必至です。社員に不信を持たれると、制度そのものが機能しなくなることもあり得ます」
実際の運用は難しい。本来の高度専門職として高プロに任命されることになれば、部署全員ではなく、各部署に1~2人ぐらいが部署を超えて存在することが想定される。しかも、その人が仕事好きで、夜遅くまで仕事に没頭するようになれば、その人の指導を受ける若い社員も帰りづらくなるのではないかという声もある。
高プロ制度の導入が法律上可能になったとしても、実際の制度設計に頭を悩ますことになるかもしれない。
溝上憲文:人事ジャーナリスト。明治大学卒。月刊誌、週刊誌記者などを経て独立。人事、雇用、賃金、年金問題を中心テーマに執筆。『非情の常時リストラ』で2013年度日本労働ペンクラブ賞受賞。主な著書に『隣りの成果主義』『超・学歴社会』『「いらない社員」はこう決まる』『マタニティハラスメント』『辞めたくても、辞められない!』『2016年残業代がゼロになる』『人事部はここを見ている!』『人事評価の裏ルール』など。