礼儀2.0問題に一言「でも若い人も、たいがいおっさんじゃないですか?」

Business Insider Japanで報じられた「礼儀2.0」問題を読んで、半分納得したものの、変な違和感が残った。関連記事:日本人は礼儀もアップデートできていない。礼儀2.0世代が感じる「相手の時間を奪う」非効率なマナー

ビジネスシーンでのお辞儀

物議を醸した、礼儀2.0問題。けれど、本当に凝り固まっているのはおじさんだけだろうか。

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たしかに、古めかしい礼儀や価値観の押しつけを食らったときほど萎える瞬間はない。

一方で、これは世代間の問題なのか?果たして上の世代だけが凝り固まっているのか?リベラルな60代もいれば、若くして凝り固まってしまった10代もいるのではないかと。

それはきっと僕が10代から60代まで幅広い年代の人たちと触れ合える機会に恵まれているからだろう。

もちろん僕自身(現在、30歳)も、目的が理解できない古いルールや礼儀は苦手だ。校章をつけないと指導とか、髪は黒でないといけないとか、名刺は相手より低くとか、酒のラベルは上を向いてないといけないとか、正直このクソ暑い中で死にそうになりながらスーツを着ないといけない謎の文化には、疲れる。

そして、面倒くさい。そして、もれなく反射的に頭に思い浮かんだ「悪者」はその無意味なルールで人を判断しようとしてくる40〜50代くらいの中間管理職だった。

ただ、自分より若い人の言動を見ていても、「こうしないといけない」という気持ち悪い排他的な雰囲気が漂っているように感じるのだ。

SNSのお作法問題

LINEアプリの画面

ShutterStock

わかりやすいのがSNSの利用方法についてだ。おじさんの#の付け方がキモい、おじさんのLINEごっこに対する若い世代からの批判。

SNSは本来個人が自由に使えるはずなのに、「使い方はこうあるべき」という凝り固まった価値観を軸に判断し(しかも陰で)批判するという行為は、ともすれば「そこ上座だよ」という指摘以上に、たちの悪いものなのではないかと思える。

もし、前回の記事で出たような「礼儀1.0」による行動統制について異議を唱えるのであれば、せめて自分たちは、礼儀についてはリベラルなマインドを持っておいてほしい。

「私たちは、おじさんたちがSNSをどう使おうと文句は言いません。だからせめて社内の飲み会くらいの席くらいは、自由にいきましょうよ」

と、かっこよく言い放っていただきたい。

文中のこの言葉。

礼儀という「暗黙知」と「同調圧力」の塊が、日本企業のシステムをアップデートできない“足かせ”になっているのだとすれば、こんなに無駄なことはない。

この文章で言及されている「礼儀」が、文脈上「おじさんたちの礼儀」と理解され、凝り固まった若者たちが自分を棚に上げて、「やっぱりおじさんは凝り固まっている!」とディスった揚げ句、特大ブーメランで赤面しないように、早めにワクチンを打っておきたい。

改めて、違和感の正体は、こうだ。

根本の問題である世代間のコミュニケーション断絶を埋める第一歩は、双方が「自身は常に偏り、凝り固まっている」と認知したほうが良い。

しかしこの記事「だけ」では、抑圧された若い人たちが「そうだそうだ!」と、これ見よがしに、自分たちの凝り固まった価値観を無意識に振り乱しそうな予感がするのだ。

マス受けする、表面的なプロレスをする気はない。(自分も含めて)ミレニアル世代にはそのような醜態を晒して欲しくないのだ。

そして、僕たちが年をとったとき、未来の若者たちから同じことを言われたくない。以下は、現代の利便性の罠にかかり、若者たちが無意識に偏ってしまう原因と、陥る悲劇について考察したものである。

違った価値観に恐怖?

事実、若者の自己肯定感の低さが国家レベルで問題視されている。(内閣府、子ども・若者白書

好景気を知らない、一人っ子が増え親の過干渉が増えている、など諸説あるが、今回は、以下の仮説について考察する。

その仮説とは、#の登場と、地域コミュニティの崩壊により異質と触れ合うという貴重な機会を失ったという2点だ。

要因1.#の功罪

ハッシュタグが示されたスマホ画面

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#はとても便利だ。

今は#で検索すれば、同じ趣味、同じ日に同じ場所に行った人に出会える。同質へのショートカットが可能である。非常に便利な時代だ。

#は便利な一方で、同質に出会うまでの異質との触れ合いが減少する。結果、異質を知る機会に恵まれず、異質に対する恐怖心はどんどん膨らんでいく。

僕自身も若い人たちと、キャリア相談などで話をしてかなり不安になることがある。

「アイツとは価値観が合わない」「ロールモデルがいない」「なんか違った」

が口癖になっている気がするのだ。

これらの発言は「価値観は完全一致する」「ロールモデルは存在する」「何が違うかわからない」という前提の元に発されている。

つまり、価値観は完全一致するか否かの世界で語られている。まるで#で検索に引っかからないように、部分一致については不一致と判断されているのだ。

加えて「じゃあ自分の価値観について教えて」と言うと急にモゴモゴしてしまう。違いに触れてこなかった彼らは、あれは違うこれは違うとは言える一方で、違くないものについては説明できない。

また、異質に触れることをサボった人たちは「否定されること」に慣れていない。行動否定、能力否定(部分否定)を全て人格否定(全否定)と捉えてしまう。

面接に落ちれば「自分は社会で価値のない人間だ」と勘違いしてしまい、社会に出てからも改善のためのフィードバックを人格否定と思い込み、精神を病んでしまう。非常にもったいない。

要因2.地域コミュニティの崩壊

高層マンションの写真

都心の高層マンションで、子育てをする核家族は少なくない。

ShutterStock

東京に住むようになって驚いたことがある。同じマンションに引っ越したときに同じ階の人たちに挨拶が不要だというのだ。

地域の繋がりも弱く、自分が出会いを作らなければ、子どもは自分以外の大人に触れられない。

核家族化と少子化により、安全の元に子どもを“監視”する親や学校が増えた。防犯ブザーを持たされ、家と学校の往復。公園では来ている家族同士の交流はない。

中でも最悪なのは子どもを私物化し、子どもの人生に依存し、自分の不安を子どもへの愛と詐称し、子どものチャンスを奪っている毒親である。

関連記事:親ブロックチェーンレボリューション(なぜ、無償の愛はねじれるのか)

こうして、歪んだ愛のもとに社会から隔離された子どもたちは、幼少期から大人のサンプルを採取できなくなり、上記のロールモデル欠乏症のように、大人を神格化し完全な正解を求めるようになる。

凝り固まったおじさん

彼らの幼少期の風景には、カミナリさんのような近所の怒ってくれる頑固おじいさんも、缶チューハイを飲みながらスポーツ新聞を観ている飲んだくれのリーマンも、存在しない。彼らの目に映る大人は、親と先生と、テレビで作り笑いをして台本通りの動きをする芸能人くらいしかいない。

大人にもいろいろいるということを、知る機会がないのだ。

異質に対して恐怖を覚え、もともと低い自己肯定感を、異質に対するディス(ネットの暴言等)で補充している若者たち。

彼ら彼女らが大人になったとき、今のおっさん以上に凝り固まったおっさんが大量発生するかもしれない。

人のふり見て我が身をなおし始めてほしい。ミレニアル世代には醜態をさらしてほしくないのだ。


寺口 浩大:ワンキャリアの経営企画 / 採用担当。リーマン・ショック直後にメガバンクに入行後、企業再生、M&A関連の業務に従事。デロイトで人材育成支援後、HRスタートアップ、ワンキャリアで経営企画/採用を行う。社外において複数HRに関わるコミュニティのデザイン、プロデュースを手がける。3月よりライターとしても活動を開始。

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