鶴岡サイエンスパークには慶應義塾大学先端生命科学研究所やバイオベンチャーらが集まる。
写真:竹井俊晴
人工タンパク質素材の産業化による資源・環境問題の解決、うつ病の診断キットの開発、唾液によるがんの発見、心不全の治療——。そうした地球や人類が抱える課題に取り組むベンチャーがいる。
今回注目するこれらのベンチャーはいずれも日本発。しかし、本社は東京ではなく、山形県の人口約13万人の地方都市、鶴岡市サイエンスパーク内に置かれている。
なぜ世界最先端でスケールの大きいベンチャーが地方都市から生まれるのか。その秘密を現地で見た。
次世代のためにゼロから新産業づくり
山伏が修行する山としても有名な羽黒山の頂上からは庄内平野の美しい田園風景が見渡せる。
多くの地方都市と同様に、急速な人口減少が続く山形県鶴岡市。サイエンスパークは、当時の富塚陽一市長のもとで「長期的な目線で新たな産業を生み出す」ことを目指して開発された。
他の都市がやっているように、企業や工場誘致をした方が短期的にはすぐに人口が増える。しかし、それでは結局国内での奪い合いになり、日本としてはプラスマイナスゼロだ。
コスト競争ではない、新しい知的産業を興す必要がある —— 鶴岡市と山形県が「慶應義塾大学先端生命科学研究所(先端研)」を誘致したことには、そうした背景がある。
先端研は2001年に設立。山形県と鶴岡市が慶應義塾と協定を締結し、この協定に基づき、年間7億円を補助(平成30年度現在)するなど、長期的な投資を続けている。
先端研設立から17年が経過し、6つのバイオベンチャーが生まれた。2003年に設立したヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)は2013年東証マザーズに上場も果たした。
今では先端研と関連ベンチャー6社で400人以上が働く。鶴岡市を含む庄内地方ではまだ人口減少が続くが、ベンチャーの中心世代である25〜34歳に限れば、2009年以降転入超過が続いている。
先端研から生まれたバイオベンチャー
取材をもとにBusiness Insider Japan作成
飲み会で生まれた人工クモ糸のアイデア
世界最先端のベンチャーが、なぜここ鶴岡市で生まれるのか?
「欧米先進国の大学は、地方郊外にキャンパスがあって、芝生やテニスコート、プール、ゲームセンター、バーもある。そういうアメニティがセットでアカデミアです。日本は学園都市というと、5階建てのコンクリートの建物が集まった、いわば団地。全くワクワクしない。研究で一番重要なのは発想。クリエイティブな仕事にはリラックスできる環境が大事ですよ」
先端研所長の冨田勝教授はこう語る。
山形に縁もゆかりもなかった先端研所長の冨田勝教授は「一軍は東京」の考えを変えないと地方創生は成功しないと語る。
研究所内には、24時間入れるジャグジーとサウナも設置されている。
合計約174億円を資金調達し、世界的に大きな注目を集めるSpiber(スパイバー)社が生まれたのも、会議室ではなく、飲み会の場だった。
「QMONOS®」人工合成クモ糸繊維で作られたブルードレス。現在はザ・ノース・フェイスなどのアパレルブランドを取り扱うゴールドウインと共同で商品化を進める。
天然のクモの糸は重さあたりの強靭性が鋼鉄の340倍、炭素繊維の15倍と、昔から夢の素材と言われてきた。もしクモの糸を実用化できれば、石油などの化石資源に頼らない素材ができるかもしれない。しかし、クモ糸の実用化は、NASAや米軍が膨大な研究資金を費やしても開発に失敗するほど全人類未踏の領域だった。
当時大学4年生だった関山和秀さん(35)が「研究したい」と言った時には周りは反対したが、冨田所長は「面白い」と薦めた。
「本当は日本にもパイオニア精神を持った若者は多くいると思うが、彼らを先生や教育、周りの大人が平凡な優等生にしてしまっている。慶應先端研では『普通』はゼロ点だ。普通で優等生的なことはやらない。僕らは人がやらないことをやる。前例がないから失敗するかもしれないが、それは社会にとって必要な失敗です」(冨田所長)
地方都市の立地が「本気人材フィルター」になる
サイエンスパークも人が人を呼ぶ状態になっており、サイエンスパーク内にオープンしたSHONAI HOTEL SUIDEN TERRASSEを運営するヤマガタデザイン代表の山中大介さんも先端研の冨田所長や関山さんと出会い、三井不動産を辞めて鶴岡市への移住を決めた。
出典:ヤマガタデザイン
サイエンスパークが新しく興そうとしている知的産業は、人材の力で成否が左右される。
優秀な人材を集めるには東京に本社を構えた方が良いのではないか……普通に考えればそういう発想になるが、ここ鶴岡だからこそ、やる気に満ちた優秀な人材が集まるとスパイバー代表の関山さんは語る。
「東京から離れていることで、中途半端な気持ちを持った(ある種の)ミーハーな人は来ません。スパイバーに応募してくる人は、本当にスパイバーで働きたい人だけ。鶴岡にある、というのがスクリーニング(選別)になっており、人材の採用コストも結果的に低くなります」
関山さん自身も東京から移住し、大学4年の時に同じく冨田研究室の菅原潤一さんと意気投合し、人工クモ糸量産化の研究を始めた。
2007年創業のスパイバーも今では社員数が200人近くになり、そのほとんどが移住してきた人たち。国外からも研究者が集まり、社員の約1割は外国人だ。
事業内容は、石油などの枯渇資源に頼らず、環境性に優れた人工タンパク質素材の産業化に向けた研究開発。サイエンスパーク内に、新たな研究施設の開発も進めている。今後も東京に本社を構えるつもりはないという。
「何十年か経って、ここがシリコンバレーのような大都市になったら、移るかもしれません(笑)」(関山さん)
もちろんわざわざ世界中から移住して来るのは、スパイバーや先端研が世界最先端の位置にいるからだろう。
地域一丸となって未来への投資を続ける
先端研のメタボローム解析は、動物、植物の細胞内代謝物質を短時間で網羅的に測定することができ、世界でトップクラスの技術となっている。遺伝を解析するゲノム解析では体質がわかるが、メタボローム解析では代謝物質を解析し体調がわかる。
2001年の先端研設立から、補助金の総額は100億円を超える。地方都市である山形県と鶴岡市にとって小さい負担ではない。
経済効果があるのか、当初は疑問の声もあったが、富塚元市長をはじめ、歴代の市長はブレなかった。10年以上が経過し、徐々に成果が出始め、2013年にHMT社が東証マザーズに上場した頃から「批判から応援の声に変わっていった」と冨田所長はいう。今では地方創生の成功事例として、国会でも度々言及される。
行政だけではなく、民間でも協力が相次ぐ。
2012年度から始まった「鶴岡みらい健康調査」は、市民約1万人の協力のもと、メタボローム解析等を用いて生活習慣病のメカニズムを明らかにし、子どもや孫の世代の健康のために役立たせようとしている。
また、鶴岡市は日本で唯一、養蚕から絹織物まで一貫した生産工程が集約されている地域。そうした会社も、スパイバーを全力で応援し、ノウハウを提供している。
20年後、30年後に向けた長期的な目線での投資、ゆっくり物事を考えられる自然豊かな環境。そして世界最先端を求めて集まる、熱量の高い人材が互いに刺激し合う。ぶっとんだことを提案しても、馬鹿にされない。むしろ行政も民間も一緒になってチャレンジする。
それが「普通」ではないベンチャーが鶴岡市に生まれる理由だ。
(文、写真・室橋祐貴)