フォーラムに先立つ日ロ首脳会談後の記者会見(9月10日)で握手する安倍首相とプーチン大統領。会談後、安倍首相は「我々の新しいアプローチは、日ロ協力の姿を確実に変化させている」と述べたが…。
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プーチン・ロシア大統領の、「前提条件なしに年末までに日ロ平和条約を締結しよう」という発言が波紋を広げている。事実上の「領土棚上げ」発言だが、日本政府は抗議もせず、「ちゃぶ台返しではない」と、否定するのに精いっぱいだ。
だがロシア内政、外交、安全保障をレビューすれば、「領土は返還しない」というメッセージは明らかだ。経済協力をすれば領土が戻る、という返還への期待を高め、期待が世論で大きくなればなるほど、妥協は許されない「落とし穴」にはまる。「自縄自縛」の安倍外交の典型。結局そのツケは誰が払うのだろう。
2日前の協議を無視された
プーチン大統領は、9月10日の安倍首相の発言を無視する形で、無条件での平和条約締結を日本に求めた。
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プーチン発言は、極東ウラジオストクでの東方経済フォーラムの全体会合(9月12日)で飛び出した。横にはフォーラム初参加の習近平・中国国家主席が座り、大勢の参加者を前にした発言である。安倍首相はフォーラムに先立つ日ロ首脳会談後の記者会見(10日)で、「我々の新しいアプローチは、日ロ協力の姿を確実に変化させている。双方の法的立場を害さず、できることから実現する先に平和条約がある」と述べたばかりだった。
安倍首相はその唐突な発言を聞きながら苦笑いを浮かべるだけで、その場で一切反論しなかった。この対応に立憲民主党の枝野幸男代表からは「言うべきことを言わず、国益に反する」、自民党総裁選で安倍首相と戦った石破茂元幹事長からも「経済協力で領土が帰ってくると思ったことは一度もない。信頼関係とかいう話でそんなことが本当にあるのか」(「毎日新聞」9月16日)と、「新アプローチ」自体に疑問を投げかけるのだった。
逆風を受け首相は、発言後プーチン氏に直接「領土問題を解決し、平和条約を締結する」という基本方針を「改めて伝えた」と弁解したが、総裁選最中の「失点」を恐れる首相の狼狽ぶり。しかしロシア大統領報道官は、「実際に安倍氏本人からの反応はなかった」と否定する始末だった。
進まない「新アプローチ」
2016年12月に日本で行われた日ロ首脳会談のポスター。この会談で、北方4島において日ロで共同して経済活動を行うことが合意された。
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プーチン氏の真意については見方が割れる。
「ちゃぶ台返し」を否定する東郷和彦・京都産業大教授は「2人の間で平和条約を締結しようという強い意欲を示したもの」「根本から覆す意図を読み取るのは適切ではない」(共同通信インタビュー「平和条約締結への意欲表明」)とみる。東郷氏はエリツィン時代に日ロ外交を取り仕切った元外務官僚である。しかし、東郷説は少数意見だ。
「新アプローチ」を振り返る。安倍・プーチン両氏は2016年12月の山口県での首脳会談で、日ロが北方四島で「共同経済活動」を実現し、それを「平和条約締結への重要な一歩」につなげることで合意した。それをテコに領土返還を実現するというのが日本側の目論見である。
しかし、合意した3000憶円規模の経済協力は思うように進まない。「共同経済活動」についても、日本の主権を害さない形で活動できる「特別制度」を提案した日本に対し、ロシアは自国の法制度下での活動を主張し、双方のミゾは埋まってない。
内政・外交上で返還誘因はない
クリミア半島のセバストポリにて、海軍の日のパレードのリハーサルを行うロシア軍(2018年7月26日)。「強いロシア」を演出すべく、クリミア割譲をめぐり欧米諸国と鋭く対立している。
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「新アプローチ」の不調に加え、ロシアが置かれた内政・外交・安全保障をみれば、「領土返還」への本気度がうかがえる。まず内政。高い支持率を維持してきた大統領だが、ロシア政府が6月に年金受給年齢、公共料金、消費税率の引き上げ案を発表すると、支持率は一気に20%も急落した。発言のタイミングについて外務省関係者は「強いロシアを演出し、求心力を回復する思惑」を指摘する。
外交でも「強いロシア」を演出しなければならない。クリミア割譲をめぐり西側の制裁を受け、シリア問題でも欧米と鋭く対立している。プーチン氏にとって、対日関係改善の主要な狙いは、主要先進7カ国(G7)の一角を崩し経済的利益を得るためだった。領土を返還せずに平和条約を結べば、間違いなく株は上がる。
ロシア人の約9割が返還に反対という世論調査結果をみれば、領土での妥協は何の得点にもならない。プーチン氏も全体会合の最後に「領土問題は政治的、心理的に困難で敏感な問題」と改めて発言した。
返還すれば米軍基地を危惧
沖縄県の嘉手納基地。ロシアは北方四島を返還した後、そこに米軍基地ができることを危惧している。
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安全保障はさらにやっかいだ。ロシア側は2016年、歯舞・色丹2島の日本引き渡しについて、日本に施政権が移れば日米安保条約第5条の適応対象となり、2島に米軍基地ができるとの懸念を表明した。日ロ関係とは安保上は米ロ関係なのだ。
プーチン氏自身、山口での首脳会談で日米安保条約の存在や、ウラジオストクを基地にするロシア艦船が太平洋に出るルート確保の必要性を強調した。「太平洋に出る経路」とは、国後島と択捉島の間にある「国後水道」。ロシアは、オホーツク海に原子力潜水艦を展開させ、アメリカの核攻撃に反撃できる体制を取る。その原潜の「通り道」が国後水道なのだ。
日ロ交渉について、最悪でも歯舞と色丹の2島は戻るとみる向きが多いと思う。しかし、色丹には約2000人のロシア人が居住しており、引き渡しは簡単ではない。フォーラムが開かれた日、ロシア軍は冷戦終結後最大規模となる軍事演習「ボストーク(東方)20181」を開始し、中国軍が初参加した。
期待あおり、「落とし穴」に
ロシアと中国は経済的結びつきが強いため、日本が狙う「対中抑止」実現は現実的ではない(写真は東方経済フォーラムでパンケーキを焼くプーチン大統領と習近平国家主席。2018年9月11日)。
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さまざま角度からロシアの置かれた状況を見れば、プーチン氏が今、領土返還に応じる誘因はほぼゼロに等しい。にもかかわらず、安倍首相がプーチン氏と22回も首脳会談を重ねてきた大きな理由の一つは、対ロ関係改善による「対中抑止」だった。
しかし、時代錯誤の「対中抑止」戦略は、対ロ外交でも成果は出ていない。中ロ関係は、貿易額で日ロの4倍に達する。ロシアには、「中国が経済的にロシアを飲み込む」などの懸念はあるものの、トランプ政権に対抗する上で、中国との共通利益は大きい。対中関係と比べれば、日本の比重は落ちる一方なのだ。
安倍首相はこれまで、領土返還の期待感をあおってきたが、「ないものねだり」であろう。返還への期待が世論で大きくなればなるほど、妥協できない落とし穴に自らはまってしまう。北朝鮮外交でも「拉致被害者の全員即時帰国」という高ハードルを設ける同じパターンを踏んでいる。
対ロ、対北外交の成果は全く出ていない。
岡田充(おかだ・たかし):共同通信客員論説委員、桜美林大非常勤講師。共同通信時代、香港、モスクワ、台北各支局長などを歴任。「21世紀中国総研」で「海峡両岸論」を連載中。