アリババグループの創業者、馬雲(ジャック・マー)会長が9月10日に1年後の退任を表明した。
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9月17日、上海で開かれた世界AI大会に出席したジャック・マー氏。
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事の発端は、ニューヨーク・タイムズの9月8日付けの「マー会長が10日にも会長を退任する」という報道だった。だが翌日、アリババ傘下の香港メディアが否定する記事を出したことで、報道は混乱した。
私が知る限り、日本では「(ジャック・マー引退は)誤報」という見方が優勢だったが、中国メディアの多くは自分たちの面子を潰したニューヨーク・タイムズの報道を重視し、Xデーの10日に向けて臨戦態勢をとった。
10日午前、マー氏本人が手紙を公表。退任日が「来年」の9月10日ではあったものの、アリババ会長引退は事実であることが確定した。
手紙には、マー氏のアリババへの思いが綴られていたが、退任後のプランは言及されていなかったため、私は日本で多くの人から、「で、ジャック・マーはこれから何をするの?」と質問を受けた。
実はマー氏は引退表明後も精力的に活動を続け、行く先々で自身の今後について語り続けている。
世界を驚かせた「ジャック・マー退任」だったが、中国では彼の周到な準備と次の夢は広く共有されていた。ただ、海外、少なくとも日本では、以下の2つの事実が知られていなかったようだ。
創業19年のうち10年を後任者育成に充てる
アリババのダニエル・チャンCEO(左)とスターバックスのケビン・ジョンソンCEOは2018年8月、中国市場での提携を発表。
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一つ目は、アリババの経営はかなり前から張勇(ダニエル・チャン)CEOが主導する体制に移行していることだ。
チャンCEOは米会計事務所プライスウォーターハウスクーパース(PwC)の上海拠点やゲーム会社のCFOを経て、2007年にアリババに入社した。今やブラック・フライデーを上回る世界最大のセールに成長した11月11日の「独身の日」セールを2009年に始めたのも、日本の大企業が多く出店するBtoCサイトの「天猫(Tmall)」の立ち上げを担ったのもチャン氏。2013年にはマー氏からアリババグループのCEOを引き継ぎ、最近ではスターバックスとの提携や出前アプリ餓了麼(ele.me)の完全子会社化など、マー氏が提唱する「新小売」のコンセプトの具現化に手腕を発揮している。
杭州市にアリババ本社には各国の首脳が頻繁に訪れる。写真は2018年8月、アリババ本社を訪問したマレーシアのマハティール首相を案内するジャック・マー氏。
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チャンCEOはそのキャリアから「プロ経営者」「堅実な実務家」と称されるが、アリババへの貢献を考えると、それらの表現は過小評価に聞こえる。日本人が知っている今のアリババは、チャンCEOがつくり上げたとも言える。
一方、マー氏はCEOを退いた後、活動の軸足を「会社」から「社会」「世界」に広げた。マー氏が講演や公益活動で世界を飛び回れるのは、チャンCEOへの全面的な信頼の裏返しとも言える。
アリババは2010年に、アリババの文化を深く理解し、優れた業績を上げた社員に大きな権限を与える「パートナーシップ・システム」も導入。現在36人いるパートナーは、取締役の過半数を指名する権利を有している。
マーは手紙で、「10年前、どうやって馬雲(ジャック・マー)が会社を去った後も、アリババを健全に成長させられるのかと、私は自分に問いかけました。私たちは、きちんとした制度と独自のカルチャーをつくりあげ、脈脈と人材を育成することで、ようやく企業の継承と成長という難題を解決できるのです。このために、この10年、私はたゆまぬ努力と実践を続けてきました」と明かした。
アリババを創業して19年目のマー氏は、その半分の期間を「自分がいなくても回る体制」の構築に充て、この5年の試運転によって、総仕上げを図っていたのだ。
SNSアカウントは「田舎教師のスポークスマン」
2018年1月、馬雲公益基金が主催した農村部の教師を顕彰する式典で登壇するマー氏。
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日本であまり知られていないもう一点は、マー氏が最近、「教師に戻りたい」と再三発言していたことだ。退任を表明した9月10日には従業員にもメールを送り、「ずっとやりたかった教育の世界に戻る」と書いている。
マー会長の誕生日でもある9月10日は、「教師の日」でもあり、中国では生徒やその親が教師に感謝を込めてプレゼントを贈る習慣がある。
彼のSNSのアカウント名は「田舎教師のスポークスマン」であり、アリババ内でも「マー先生」と呼ばれることを好んでいたという。彼が引退のアクションを起こすのに、これ以上の日はなかったのだ。
マー会長がアリババを創業する前に大学の英語教師だったのは割と有名な話だろう。海外メディアにも対応できるその英語力が、マー会長とアリババの世界的な知名度向上に一役買っているのも間違いない。
若き日のジャック・マーは北京大学を目指したが、数学が足を引っ張り、二浪しても合格できなかった。彼は結局、定員割れだった杭州師範大学に拾われ、卒業後は杭州電子工業大学で7年間、英語と国際貿易を教えた。その後、翻訳会社やホームページ制作会社の経営を経て、1999年にアリババを創業した。
CEOをチャン氏に譲った翌2014年には、環境保護や教育分野に貢献するため、馬雲公益基金会を設立。毎年、貧困地区を中心に100人の教師を選出し、彼らのスキル向上のために10万元(約170万円)を支給してきた。2008年には母校の杭州師範大学にアリババ商学院を設立。開学10周年を迎えた2017年10月にはマー氏が5000万元(約8億円)を寄付し、同学院をインターネットビジネスに特化した学部に改編した。
アリババ商学院からはこれまでスタートアップ18社が誕生し、在学生・卒業生が創業した企業の売上高は2017年に1億5000万元(約24億4000万円)を超えている。
マー氏は9月初旬のテレビ局のインタビューでも、「ECは2年で辞めるつもりだった。20年も続けるとは思わなかった。教師の方がもっとうまくやれる」とも語った。
だから今回の退任表明に際しても、中国メディアは、どこか心づもりをしていたような報じ方をした。
カリスマ創業者に依存する中国IT企業に示した「道」
ジャック・マー氏はダニエル・チャンCEO(右)を「自分より優秀な経営者」と評価している。
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ジャック・マー氏が後継者について考え始めた10年前、彼は中国の若者が憧れるほとんど唯一の起業家でもあった。それが今、中国はアメリカに次ぐユニコーン企業を抱え、「中国のスティーブ・ジョブズ」と呼ばれた小米科技(シャオミ)の雷軍CEO、騰訊(テンセント)の馬化騰CEOなど、スター起業家の産出国にもなった。
その一方で、中国のIT企業の大半が、カリスマ創業者に過度に依存する経営体制となっている。例えばEC大手、京東集団(J.D.com)の劉強東CEOは、会社の投票権の約80%を有しており、9月初旬にアメリカで逮捕された際には権力集中リスクが露呈して、株価が急落した。
IT起業家の中では年長者の部類に入るマー氏の引退に関する行動と言動は、他の起業家たちに少なからず影響を与えるだろう。54歳のマー氏は9月18日、引退は早すぎないかと問われ、こう答えた。
2018年7月に香港で上場したシャオミの雷軍CEO(左)。中国はスター起業家の産出国になった。
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「64歳まで今の地位にいても、若者に苦痛を与えるだけだろう。多くの創業者は会社から離れられないが、私はさっぱり身を引く。後継者は自分よりずっと能力があることを知っているからね」
マー氏の引退表明から3日経った9月13日には、シャオミが大規模な組織改革の実施を発表した。創業者でもある雷軍CEOは友人に対し、「創業当時のシャオミのやり方はゲリラのように行動し、多くのミラクルを起こした。だが、今のシャオミは2万人近い規模になり、きちんとした組織になってないとリスク管理ができず、企業の存亡に関わる」と語っている。
たぶん、マー氏が戻ろうとしている「教育の世界」は、彼がかつていた教育界よりもより広い世界のはずだ。
同氏9月20日、世界経済フォーラム(WEF)夏季ダボス会議でも、退任について質問され、「私は勇退するのではなく、むしろ新しい世界に進むのだ」と答えた。
「私は教師だったころ、企業家やビジネスパーソンをちょっと下に見ていた。しかし今はビジネス、企業、経済が国にとっていかに重要かを実感している。社会はビジネス、ビジネスパーソン、企業家、経済を正しく理解しなければならないし、私は20年の起業活動を通じて、これらの分野について客観的かつ理性的に説明できるようになった」
教師と起業家を経験し、教育とビジネスのどちらも国力に関わる重大事と考えるようになったジャック・マーは、両方の分野に橋を架け、「師」になろうとしているかもしれない。
(文・浦上早苗)