「映画を支えるインフラになりたい」と話す石原弘之さん。
撮影:小島寛明
ほぼ1人で運営する、映画会社がある。石原弘之さん(30)が2015年7月に立ち上げたポルトレだ。
2017年秋、ポルトレが初めて配給した、2種類だけのパンを売る浅草の店を追ったドキュメンタリー『74歳のペリカンはパンを売る。』は話題を集めた。この秋には、同社が配給する2作目の映画『シンプル・ギフト はじまりの歌声』が公開される。
石原さんは「映画は、知を探求する道具。映画を企画制作し、劇場公開へとつなげて、社会に一石を投じていきたい」と話す。
中1でドキュメンタリー制作
石原さんは、子どものころから映画への情熱で突き進んできた。
愛知県江南市で生まれた石原さんは、小学校高学年のころから、名古屋の映画館に通っていた。子どものころに見て、強く記憶に残っている映画を尋ねると、とても渋い答えが返ってきた。鉄道の乗務員を追った、土本典昭監督の記録映画『ある機関助士』(1963年)だ。
中1で、映画を撮り始めた。自分で課題を設定して活動する「総合学習」の時間に、学校の隣にある老人介護施設を撮影することにした。
半年間、週に2度ほど施設に通った。繰り返し話を聞くうちに、老人たちは、自身の戦争体験を語り始めた。ドキュメンタリー作品にまとめ、学校の体育館で上映した。
高校時代も、映画を制作しては文化祭で見てもらった。
映画愛抱え上京
石原弘之さん。映画愛を抱え、高校卒業後に上京するも、映像制作の現場はキツかった。
撮影:小島寛明
高校卒業後、上京した。「とにかく、東京に行って映画の現場に入りたい」という思いが募っていた。そば屋でバイトをしながら、音楽作品のプロモーションビデオの撮影現場で、アシスタントをした。
映像制作の世界は、昔ながらの体育会系の世界だ。現場の仕事に参加するたびに、厳しい言葉が飛んできた。現場に行っては、「だめだ、だめだ」と言われる日々が続いた。次第に、現場の仕事からは足が遠のいた。
ほぼフリーターの生活が5、6年続いた後、映画制作を学ぼうと、24歳で多摩美術大学の社会人向けのコースに入った。起業の足がかりをつかんだのは、大学時代だ。
多摩美の同級生たちに呼びかけ、渋谷の映画館で上映会を開いた。
同級生たちに新作を撮ってもらい、映画館の担当者に話を持ちかけた。映画を制作し、劇場で上映し、観客から対価をもらう。それまでは映画をつくり、学校などで上映して終わりだったが、映画を公開することは、作品を中心にひとつの経済圏をつくることだと分かった。
石原さんは「制作だけでなく全方位的に映画にかかわることで、なんとか未来が見えてこないか」と考えるようになり、大学3年のとき、映画会社を立ち上げた。
パン屋の映画で配給スタート
浅草のパン屋を追った映画『74歳のペリカンはパンを売る。』
提供:ポルトレ
最初に制作し、劇場公開にこぎつけた作品は『74歳のペリカンはパンを売る。』だ。多摩美の同級生の内田俊太郎さんが監督、石原さんはプロデューサーを務めた。GREEN FUNDINGでクラウドファンディングを実施したところ、140万円ほどが集まった。
2017年10月から公開した映画は話題になり、6200人の観客が見てくれた。ドキュメンタリーの作品としては、なかなかの反応だ。興行収入は約850万円になった。
映画界の慣習として興行収入はおおむね映画館が5割、制作者が3割、配給会社が2割の取り分で分配される。
『ペリカン』の制作費は60万円ほどで収まった。しかし映画は、制作以上に公開するのに元手がいる。映画の特設ウェブサイト、ポスター、チラシをつくり、新聞に広告も出す。地方の映画館に営業に行けば交通費もかかる。
最初の配給作品として、一定の手応えは得たものの、最終的に会社に残ったのは100万円ほどだった。そもそもドキュメンタリーは話題になったとしても、国内のマーケットはそれほど大きくない。
「映画館に足を運んでもらうだけでは限界がある。どうやって劇場公開以外で稼いでいくかを考えないといけないと痛感した」と、石原さんは言う。
一方で、『ペリカン』の公開の半年ほど前から、2作目の劇場公開作品の準備も進んでいた。TBS出身の篠田伸二監督(57)の『シンプル・ギフト』だ。
アフリカと東北つなぐ物語
アフリカの大地で歌うウガンダの少年たち。
エイズで親を亡くしたウガンダの子どもたちと、東日本大震災で親を失った子どもたちが、同じブロードウェーのステージに立つまでを追った作品だ。
あしなが育英会の玉井義臣会長の発案で、世界的な演出家ジョン・ケアードを招き、ウガンダと東北で、子どもたちは合唱の練習を重ねる。
篠田監督は、大学時代からあしなが育英会の運営に関わってきた縁で、ステージが完成するまでの過程を映像で記録することになった。
撮影が始まった5年前には、篠田監督はまだTBSの社員だったため、まとまった休みの取れる夏や正月にウガンダに渡航し、子どもたちの日常を撮った。
「カネにならないとわかって、付き合ってくれる」
篠田伸二監督。作品をまとめるため、TBSをやめた。
撮影:小島寛明
撮りためた映像は全体で300時間を超える。映像を90分の作品にまとめるため、2016年3月に30年以上勤めたTBSを辞めた。
篠田監督は「TBSにはそれなりに満足していたんだけど、会社員のままでは映画を完成させることはできない。これも、運命かなあと思って」と笑う。
知人を通じて、石原さんと篠田監督が知り合ったのは、2017年の春ごろのことだ。ポルトレは、『シンプル・ギフト』の配給を担当することになり、劇場公開を目指すことになった。篠田監督は石原さんとの出会いについて、こう話す。
「いままで大メディアにいて、インディーズになってみると1人で全部やらないといけない大変さを身にしみて分かり始めていた。そういう時期に、石原さんに出会ったのは大きかった。いまどき、こんな奇特な若者がいたのか、と」
国内の各地に映画館がある大手映画会社にも売り込んだが、反応は鈍かった。映画館もビジネスである以上、作品を選ぶ基準の最上位に収益性があるのは仕方がない。そこで、石原さんと篠田さんは「作品性で選ぶ映画館も少しはある」と、単館系の映画館に作品を売り込む方針に切り替えた。
『シンプル・ギフト』は、東京都内の有楽町スバル座で11月3日〜16日まで公開できることになった(11日は休映)。
篠田監督は言う。
「カネにならない作品とわかって、それでも付き合ってくれている。こういう人がいないと成立しないんです」
今回は、配給会社としての役割を担ったポルトレだが、石原さん自身は映画制作への思いがとても強い。
「できれば映画を企画し、つくるところから一貫して関わりたい。そして、つくったものをいかに売るか。このことを、生涯をかけて追求していきたい」
(文・小島寛明)