11月4日に鎌倉・光明寺で行われた「鎌倉の企業 合同説明会」。冒頭で講演した慶應義塾大学大学院の前野隆司教授(ホワイトボード左)とカヤックの柳澤大輔代表(右)。
撮影:川村力
東京から電車で1時間ほどの距離にもかかわらず、海と山に囲まれ、神社仏閣も多数。「住みたいまち」ランキング上位に常に名を連ねる古都・鎌倉。
実は、記者も東京から鎌倉への移住組。インターネットとコミュニケーションツールが発達したおかげで、東京・渋谷にある編集部と都内外の取材先、自宅を目まぐるしく行き来しながら、何とか取材活動を続けられている。
が、現実には職種や雇用形態ごとにさまざまな制限があり、誰もが鎌倉移住を実現できるわけではない。
Business Insider Japan編集部は2018年10月、試しに鎌倉にリモート拠点を置いてみたが、同僚記者たちの感想は賛否両論で、取材先へ向かう時間と労力の重さや、都会の喧騒と切り離された意外な孤独感からか「リモートワークの街・鎌倉のその空気を吸うだけで、私は高く跳べると思っていたのかなぁ……」などとつぶやく者も出る始末だった。
参考記事:鎌倉で働いてわかった「リモートワークに向く人・向かない人」と生産性幻想
そんな地方移住にまつわる「仕事の壁」を打ち破ろうという取り組みが、鎌倉側で始まった。
鎌倉に本拠を置くIT企業、面白法人カヤックなど地元企業が連携して立ち上げた「まちの人事部」がそれだ。端緒となる「鎌倉の会社 合同説明会」が11月4日、800年近い歴史を誇る古刹、光明寺で開催された。あいにくの雨天にもかかわらず、多くの就労希望者、地元の採用企業が参加した。
勤労世代の「しっかり働く」地方移住はなかなか難しい
観光客にも人気の鎌倉・由比ヶ浜海岸。鎌倉で働く人たちは始業前にサーフィンを楽しんだり、仕事の合間に気分転換にやって来る。
撮影:川村力
「まちの人事部」の取り組みを紹介する前に、地方移住の現状を見ておこう。
少子高齢化による人口減少、それがもたらす税収減に苦しむ地方自治体は、こぞって移住促進の取り組みに力を入れている。
内閣府が2014年に行った調査によると、東京在住者(18歳〜69歳)で移住を予定・検討したいと考えている人は4割にものぼり、その理由として最も多く挙げられるのは、「出身地だから」「スローライフを実現したいから」というものだ。
関連記事:移住をブームで終わらせない——カヤックが移住促進サービスをスタート
しかし、豊かな自然やゆっくりと流れる時間、温かい人間関係と三拍子揃っても、適当な収入を得られる仕事があるところは多くない。十分な貯蓄をベースにした静かな生活を送りたい引退世代はともかく、現役世代がしっかり働きながら地方での移住生活を満喫するのは、それほど簡単ではない。だからこそ、自治体による地方移住の取り組みはなかなかうまくいかない。
そういう意味で、仕事の集まる東京まで1時間ほどの鎌倉は、他の地域に比べれば恵まれているという見方もできる。
実は、鎌倉に住む子育て世帯については、父親のほぼ半数が東京で正社員勤務、母親の半数超が鎌倉勤務(その半分以上はパート・アルバイト)というアンケート結果がある。高収入の会社役員や地元の自営業者を除くと、この数字はより際立つ。ちなみに、子育て世代のほぼ半数は共働き。うち6割の世帯収入は600万円以上で、800万円以上の世帯の方が割合としては多い(2015年、鎌倉市調べ)。
雑な言い方だが、夫婦の一方が東京(あるいはより近い横浜)でそれなりに収入のある正社員として働き、一方が地元でパート・アルバイトできるなら、子育てしながらでも鎌倉移住は可能であることをデータは示している。
給料以外のお金で測れない価値を充実させる
鎌倉に拠点を置く企業が結集して立ち上げた「まちの人事部」。合同説明会だけでなく、社員研修なども展開していくという。
まちの人事部ウェブサイトより編集部キャプチャ
平日は往復だけで数時間プラス激務でも、海も山もあるまちで休日を楽しく過ごせればいい、あるいは子どもの養育環境が充実していればいいという考え方は、それはそれでアリだろう。転職が当たり前になってきた今、仕事の集まる東京に片足を残しながらの「半移住」は、仕事の選択肢を広く手もとに残しておくという意味で、リスクヘッジとしても有効かもしれない。
しかし、面白法人カヤックをはじめ鎌倉の企業が始めた「まちの人事部」の試みは、そうした既存の発想とはまったくスタンスが異なる。
11月4日に行われた「鎌倉の会社 合同説明会」で、カヤックの柳澤大輔代表は「鎌倉は住環境はいいけれども、他の地方と同じで都心ほど給与水準は高くない。ここを何とかしないと地元企業で働こうという人は増えない」とした上で、「(給料以外の)お金では測れない価値を指標化して、そちらを充実させることで幸福を得られるように、いわば豊かさを再定義する発想の転換が必要だ」と語った。
参考記事:「GDPに替わる指標を企業からつくっていく」鎌倉資本主義とは何か?
企業誘致によって大手企業がどんどん地方に移転し、給与が上がって採用が増えればいいのだろうが、現実はそう甘くない。豊かな自然や地域住民との温かな関係は、確かに安い給料を補ってあまりある価値と言えるが、それも「見える化」されなければ、生活という現実の前では案外もろかったりするものだ。
鎌倉でも、一度は思い切って移住してみたものの、通勤や生活水準の維持が難しくなり東京に戻っていく人たちは後を絶たない。
「人事部」「保育園」「社員食堂」を地元で共有
「企業主導型保育事業」制度を使って、カヤックと豊島屋が設立した「まちの保育園」。「地域枠」があるので地元住民も利用できる。
まちの保育園ウェブサイトより編集部キャプチャ
「まちの社員食堂」はJR鎌倉駅から数分の便利な場所にある。地元の飲食店が入れ替わり立ち替わり美味しいメニューを提供するだけでなく、鎌倉で働く人たちの交流イベントや、他の地方都市とのコラボ企画も行われている。
まちの社員食堂ウェブサイトより編集部キャプチャ
そんな現状のなかで「まちの人事部」が狙うのは、鎌倉に拠点を置く企業同士が知見を共有し合ったり、鎌倉在住の大手企業役員やOBたちの経験や知恵を借りる機会を創出したりすることで、鎌倉の企業の成長を後押しすることだ。
また、冒頭で述べたような鎌倉に拠点を置く企業の合同説明会を主催するなど、地元在住者や他の地域からの移住希望者との出会いの場をつくり、優秀な人材、地域に貢献したい人材の定着を図る狙いもある。地元企業が地域を愛する優秀な社員を増やし、成長していくことが、待遇や労働環境の充実を下支えするというわけだ。
カヤックはじめ鎌倉の企業や飲食店が協力して運営する「まちの社員食堂」。写真はBusiness Insider Japanと共同で10月14日に開いたトークイベントの模様。
撮影:川村力
同時に、お金で測れない価値を充実させていくという面では、「鳩サブレー」で知られる地元の老舗企業・豊島屋とカヤックが協力し、両社の従業員以外に地域住民も利用できる「まちの保育園 かまくら」を2018年4月に開園。同月、鎌倉で働く人限定の「まちの社員食堂」もオープンさせ、地元の飲食店が週替わりで健康に配慮したメニューを提供している。
いずれも、鎌倉企業の成長を後押しする「まちの人事部」と不可分の取り組みだ。
豊かな環境のなかで働くことの「効用」
合同説明会の参加者たちに囲まれ熱弁をふるう鎌倉の企業。青いTシャツを来ているのは訪日外国人と日本人ガイドのマッチングを手がける「Huber.」の社員たち。
撮影:川村力
「鎌倉の企業 合同説明会」の参加者たちは、Business Insider Japanの取材に対し、次のように話した。
「数カ月前に鎌倉に移住し、今は渋谷に通勤していますが、地元に魅力的な企業が見つかれば、ぜひ働きたいと思って参加しました。国際交流をしたい日本人と、ガイドを希望する訪日外国人をマッチングするサービスを全国展開している『Huber.』さんの説明がすごく興味深かった。正直、給料が下がるなどの不安はあるのですが、もっといろんな企業の話を聞いてみたいと思えるイベントでした」(元官公庁勤務の女性)
「今はフルタイムでパート勤務。子どもが大きくなってきたので、学費や貯蓄も考えたら正社員に戻りたいと思っていますが、東京で働くのはちょっと難しいと思っていて。全然知らなかったけれど、個性的な企業が鎌倉にはいくつもあることを今日知ったので、本腰を入れて探そうという気持ちになりました」(藤沢市在住の女性)
お金で測れない価値、幸福や豊かさを再定義しようという鎌倉の企業によるこうした試みは、従来の地方活性化や移住促進の取り組みはもちろん、日本の働き方に対する考え方にも一石を投じるものではないか。
合同説明会の冒頭で講演した慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科の前野隆司教授は、豊かな住環境や労働環境のなかで働くことの効用をこう語った。
「幸せな人はそうでない人より創造性が3倍高く、生産性も1.3倍高いという研究結果がある。(そうした仕事をする人は)欠勤率や離職率も当然低くなる。働き方改革で無駄を排除せよと言うが、幸せな状態で働くことの方がよっぽど大事です。しかも、地位やお金を得ることによる幸せは長続きしません。長続きする幸せは、安全や安心など環境や心の状態によってもたらされるのです」
(取材・文:川村力)