名門校女子高生だった私はある日難民になった。そして今トランプ政権にも翻弄される

16歳、初めて自分が難民だと知った —— 。

在日コリアンの趙正美(チョウ・チョンミ)さん(44)は、長い間パスポートのない生活を送ってきた。

自身の経験をもとに難民のために働きたいと、電通から世界的な人権NGOのヒューマン・ライツ・ウォッチ(以下HRW)に転職したのは6年前。だが、今、再び国家によって翻弄される事態になっている。

トランプ政権のせいでNYで働けない

趙正美さん

趙正美さん。ヒューマン・ライツ・ウォッチの東京オフィスにて。

撮影:今村拓馬

趙さんはHRWの東京オフィスで発展戦略・グローバル構想局ディレクターとしてファンドレイジングや広報などを担当してきた。念願叶ってアメリカ・ニューヨーク本部での勤務が決まったが、待っていたのは思わぬ事態だ。

「就労ビザの審査が厳格化して、いつ取得できるか分からない状態なんです」(趙さん)

趙さんが申請しているのは、「H-1B」という高度な専門知識や技術を持つ外国人労働者を対象にしたアメリカの就労ビザ。この審査が厳格化し、長期化しているのだ。追加料金を支払えば約15日以内に同ビザの一次審査の結果が分かる「プレミアムプロセス」も停止されたため、移民局の担当者からは「どれだけ時間がかかるか分からない」、アメリカで趙さんのビザ申請を担当している弁護士からも「来月には取得できそうだ」と言われ続けてもう数カ月になるという。

背景には、移民排斥や米国第一主義を訴えるトランプ政権の影響がある。

2017年、トランプ大統領は「バイアメリカン・ハイヤーアメリカン」という大統領令に署名し、H-1Bビザの発給厳格化を決めた。ビザの更新審査が終わらず、仕事があっても国外退去を余儀なくされた人もいると報じられており、エンジニアなど多くの社員が同ビザを利用しているシリコンバレーへの影響も懸念されている。

実は、趙さんが政治の影響によって移動を制限されるのは、これが初めてではない。

両親が民主運動家だからパスポートなし

金大中

のちに大統領になった金大中氏。1998年2月、就任式のパレードの様子。

REUTERS/Str Old

趙さんは在日コリアンだ。父親が2世、母親が1世で、趙さん自身は2.5世になるという。生まれも育ちも東京都で、公立小学校から「女子御三家」と呼ばれる中高一貫の私立校・女子学院に進学した。

転機が訪れたのは、高校1年生16歳のときだ。 アメリカでの1年間の交換留学を両親に内緒で申し込み、奨学金を勝ち取った。しかし、肝心のパスポートを韓国政府は発行しなかった。

当時、韓国は1963年から続いていた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領による軍事独裁政権が後継者たちによって続けられていた。1970年代には、国内で民主化運動をすると拷問などの危険にさらされるため、在外韓国人による民主化運動が盛んになっていた。その日本におけるリーダーが趙さんの両親だった。

趙さんの父親は、のちに大統領になる民主運動家の金大中(キム・デジュン)氏の日本での秘書を務めていた。金氏が東京のホテルグランドパレスで拉致されたのは、趙さんが生まれる前年のこと。金氏はその後ソウルで解放されるも、収監され死刑判決まで受けている。

趙さんが幼い頃、父親は頻繁に海外に出かけ、金氏を死刑にさせないよう韓国政府に圧力をかけて欲しいと各国の野党党首と交渉していた。趙さんは母親と一緒に金氏の解放を訴えるデモに参加することが、「散歩」の定番だった。

趙さんの正美という名前は、獄中の金大中氏がつけたものだという。

名門私立に通う「難民」女子高生

趙正美さん

留学ビザと再入国許可を得て高校1年生のときアメリカに留学、ホームステイ先の家庭での1枚。

本人提供

当然、韓国政府は趙さんの両親の活動を快く思わず、活動を制限するためか、家族全員のパスポートの発給を拒否していた。だが、パスポートなしでも留学する手段はあった。アメリカから留学ビザをもらい、帰国するための「再入国許可」を日本から受ければいいのだ。渡航中に何が起きても両国の大使館ともに助けてくれないというリスクはあるが、他に方法はないと割り切った。

思いもよらない言葉が飛び込んできたのは、再入国許可書の小冊子をめくっているときだ。

「日本は難民条約を批准しているので再入国を許可しますが、身元の保証をしているわけではありませんよ、という趣旨のことが書いてあったんです。あっ、私って難民なんだとそのとき初めて知りました。東京の一軒家に住んで私立の高校に通って……自分では中流家庭だと思っていたので、かなりの衝撃でしたね」(趙さん)

当時の趙さんの難民のイメージは、1975年のベトナム戦争終結後に日本に小舟でやってきたインドシナ難民、いわゆる「ボートピープル」だった。なぜ自分が難民なのか? 疑問に思い調べていくうちに、政治や宗教などを理由に自国の政府などから迫害され国を追われた人の他にも、海外で暮らしていたが政治的な理由で自国に帰れなくなった人も難民と呼ばれるのだと知った。

「将来は難民の人たちを助ける仕事をしようと決意したのはそのときです。私より深刻な状況にいる人たちがたくさんいることも分かったし、例えば私の両親は『国政は選挙で民主的に決めるべき』という信念に基づいて活動していましたが、こうした意見を言うのは犯罪じゃないですよね。政治や宗教のスタンス、人種などを理由に酷い目にあわされるのはおかしい、変えたい、と思ったんです」(趙さん)

こうした思いに至ったのは、小学生時代に経験したい壮絶ないじめも影響している。

「隠れ日本人」と呼ばれ殴られ続けた小学生時代

子ども

いじめで苦悩した小学生時代。より一層勉強に打ち込み、受験のために通った塾が心の支えだった(写真はイメージです)。

GettyImages/OkinawaPottery

趙さんの母親は「タイガーマム」。年金が支給されない、健康保険に入れないなどの在日コリアンの差別を解消しようと運動で声を上げ続けてきたという。口癖は「韓国人は日本人より120%できて、初めて対等とみなしてもらえる」だった。

趙さんも期待に応えようと、勉強、運動、ピアノ、水泳は努力して学年で誰にも負けないほどの実力を身につけた。学校には本名で通っていたため、韓国人だと皆知っていた。

そんな趙さんをよく思わなかった「ボスキャラ」の女子から、ある日突然、「隠れ日本人」と呼ばれるように。それを機に男女問わず無視されたり、「キムチ臭い」など、聞こえるように言われるようになっていった。上履きがなくなるのは日常茶飯事で、机や椅子を隠されたことも。男子からは殴られる、突き飛ばされるなどの暴力を振るわれた。

毎日泣きながら帰宅する趙さんに対し、母親は「自分は何も悪いことをしていないと思うなら、国籍が原因でそんな仕打ちをされていると思うのなら、顔を上げなさい。韓国人であることは誇らしいこと」と言い続けた。そして、フルタイムの仕事をやりくりして毎日登下校に付き添い、励ましたという。

「きっといじめたその子も親の受け売りだったんでしょう。韓国人は差別してもいい存在なんだと。何度も何度も死のうと思いましたが、母の強さに引っ張られてサバイブしました。でもその後もアイデンティティには悩み続けましたよ」(趙さん)

日本人にも韓国人にもなれない私

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他人にはつらそうに見えるかもしれないが、自分の人生は「すごくカラフル」だと言う趙さん。

撮影:今村拓馬

趙さんはもともと外交官になるのが夢だった。しかし、中学2年生のときに日本国籍がなければ国家公務員になれないと知り、断念。両親は帰化などとても許してくれないだろう。韓国語を話せないため、韓国で外交官になるのも難しい。しかも韓国でも「パンチョッパリ(半日本人という差別的なニュアンスの言葉)」として受け入れてもらえない。

将来は難民支援を、という思いから、高校2年生でUNHCR日本事務所でボランティアを始めた。当時はユーゴズラビア紛争で多くの難民が発生していた。日本人で初めて国連難民高等弁務官になった緒方貞子さんや、日本人女性初の国連事務次長として軍縮担当(UNODA)上級代表を務める中満泉さんらの当時の働きを見聞きして、将来は国連職員になりたいと強く思うようになったという。

国連で働くにはアメリカの大学を卒業する方が有利だと考え両親に相談すると、父親から猛反対された。

「『アイデンティティの問題から逃げたいだけだろう、それを解決するまでは日本を離れることは許さない』と言われてしまって。図星でした。日本人にも韓国人にもなりきれない、在日コリアンとして日韓の緊張関係のはざまに落ち込んでいた私は、キャリアよりも高校時代に私を受け入れてくれたアメリカの多様性に惹かれていただけだったんですよね」(趙さん)

結局、日本の大学で最も国連職員に近そうだと思った慶應義塾大学・湘南藤沢キャンパス(SFC)に進学。そこで再び立ちはだかったのが国籍の壁だ。国連職員になるには2年間の派遣を経て正規職員になることを目指す外務省の「JPO制度」を利用するのが一般的だが、ここでも日本国籍が条件だったのだ。

それ以外では、英米などの難民研究で名だたる大学で博士号を取り、合格率数%の採用試験に合格するしかない。海外の大学院に進学する金銭的な余裕もなかった。

大学院の費用を3年で貯めるために、マッキンゼーなどの外資系企業や、大手マスコミなど初任給の高い企業を中心に就活。内定を得た中で最も給与のよかった電通に就職した。

当時は在日コリアンに対する就職差別が根強かった時代だ。趙さんの知人は内定をもらった企業から「通名で働いて欲しい」と言われ、内定を断った人もいる。両親に電通の内定を伝えると、父親は「誇らしい」と嬉しそうに笑ったという。

東日本大震災で「なぜ難民支援を仕事にしなかったのか」

東日本大震災

3.11から数日後の東京・渋谷。あの日をきっかけにキャリアを見つめ直した人は多い。

GettyImages/Adam Pretty

電通ではマーケティングの部署に配属され、CM制作や商品開発を担当した。世の中の流行をいち早くキャッチするため「自己投資を惜しむな」という社風に従い、ファッション、映画、食にお金をつぎ込んだ結果、全く貯金ができない生活に。

何より仕事が楽しかった。1億円の案件をプレゼンで勝ち取るカタルシスは唯一無二だった。

一方で、頭の片隅にはいつも、なりたかった自分からどんどんかけ離れていく焦りがあった。

そんなときに高校時代に同じ塾に通い、当時弁護士になっていた女性と偶然再会する。HRW日本代表の土井香苗さんだ。

「弁護士を辞めてHRWの日本事務所を立ち上げる!というキラキラしたやる気に満ちていました。実は私、NGOには少し懐疑的だったんです。主張するのはいいけど“落とし所”を見つけていかないと世の中は変わらないじゃんと思ってて。でも土井から聞くHRWの活動は非常に合理的でいいなと」(趙さん)

資金集めのためのパーティーを手伝ったのをきっかけに、以降約4年間、電通に在籍しながらプロボノでHRWに関わるようになっていく。電通を退社することを決意したのは、2011年の東日本大震災だ。

地震が発生したとき、趙さんはHRWのイベントの打ち合わせの電話中だった。電話を切り、机の下に隠れて椅子にしがみつきながら思ったことは、たった一つ。

「なんで難民の仕事をしなかったんだろう。17歳からずっとやりたかったことなのに」

電通ではいよいよ部長職も視野に入っていた時期だったが、死を予感したときに真っ先に「後悔」が思い浮かんだのは、自分でも予想外だった。やりたいことをやり切って死のう、そう思い2012年10月にHRWに飛び込んだ。年収は半減したが、今もこの決断に後悔はない。

国賊から国賓へ、政治に翻弄されたから分かったこと

趙正美さん

HRWは世界の人権状況を調査し政策提言などを行う団体。対人地雷禁止条約につながった活動でノーベル平和賞を受けている。

撮影:今村拓馬

今はアメリカの就労ビザがおりるのを待ちながら、東京とNYを行き来する日々だ。

ビザは「L-1A」という管理職用のものに切り替えて申請中だ。こちらは約15日以内に一次審査の結果が分かる「プレミアムプロセス」がまだ使えるからだ。

もちろん今のパスポートは韓国のものだ。韓国は1987年に民主化を宣言。趙さんが韓国政府からパスポートを発行されたのは、1993年だった。民主化運動をしていた仲間たちの中でも最も遅かったという。

1998年に両親が支援していた金大中氏が大統領に就任した。その式典に招待されたときの「違和感」を、趙さんは今でもはっきりと覚えている。国賓扱いのため何の入国審査もなく、空港に迎えに来ていた黒塗りの車に乗った。ついこの間まで自分たち家族のことを追いかけ回していた役人に笑顔と賛辞を向けられ、母がつぶやく。

「『信念のない生き方は哀れよね』と。私にそんな風にならないでと言いたかったのかもしれません。今思い返すと、高校生の私に留学ビザをくれたアメリカってすごくフェアだった。政治犯の娘としてではなく、英語を学びたいという私個人を評価して受け入れてくれたんですから。今は真逆のことを経験しているので、かつての寛大さをことさら強く感じるのかも。世界中で時計の針が巻き戻っているこんな時代だからこそ、反対の声を上げたいし、そういう人たちの勇気を大切にしていかないといけないと思います」(趙さん)

(文・竹下郁子、浜田敬子)

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