日本の上場企業3655社(12月26日時点)のうち、女性が社長を務める会社が何%を占めるか、ご存知だろうか。
答えは「1%」。数にして39社(東京商工リサーチ調べ)という稀少性は、日本のジェンダーギャップの現状を象徴している。
東証一部に指定替え
サニーサイドアップ提供
その“超レア”な女性社長が率いる企業のうちの1社が、12月3日、東証一部への指定替えを果たしたサニーサイドアップだ。
中田英寿や北島康介といったトップアスリートと個別に契約を結んでマネジメントを引き受け(北島とは現在は契約終了)、選手個人の価値向上を目指す「スポーツマネジメント」というビジネスモデルを、日本で開拓した企業。
ほかにも、パンケーキブームの火付け役となった「bills」のプロデュース、「東京ストリート陸上」の開催など、幅広い分野での“仕掛け人”集団として知られる。
「滅多に取材を受けず、表に出てこない」ことで有名な社長の次原悦子さんが、今回、インタビューに応じたのはなぜか。それは、“女性社長”として歩んできた34年のうちに背負ってきた「雑草みたいな私の使命感」によるものだった。
最初は母の手伝い、17歳から手探りの出発
同級生数人と始めた会社も、今や社員数は約200人に。
同社が創業したのは1985年。離婚を機に東京・中野のマンションの一室でPR業を始めた母親を手伝う形で、当時17歳だった次原さんのキャリアはスタートした。
制服で営業に行き、見よう見まねで書いたリリースが新聞のわずかなスペースの記事に乗るだけで、飛び上がるほど嬉しかった。自分が関わった商品を、たまたま乗った電車の中で誰かが話題にしている時のなんとも言えない誇らしさ。
それが今でも変わらない、次原さんのモチベーションの原点だ。
創業から数年後、母親の再婚を機に本格的に事業を引き継ぐことになったが、「私と一緒に巻き込まれた数人の同級生だけの出発」。イベント情報を書いた看板を持ってテレビの天気予報コーナーに映り込んだりと、ありったけの行動力で無我夢中で仕事をしてきた。
その名が広く知られるようになったのは、1991年から始めたスポーツマネジメント事業が軌道に乗ってから。1995年にサッカーの中田英寿選手(当時)と契約を結ぶと、サニーサイドアップという会社、そして社長である「次原悦子」という女性にも注目が集まった。
当時、中田選手がセリエAに移籍するとなれば、オファーのあったチームすべてを回って練習環境など直接ヒアリングした。
だが、世間の関心は、若いスポーツ選手と妙齢の女性社長という関係に注がれ、週刊誌に「中田のポルシェを乗り回す女」と見出しが載ったこともあった。そもそもスポーツの世界にエージェントという考えを持ち込んだことへのスポーツ界からの反発もあった。
「いくら情報公開しても誰も信じてくれなかった」
取材はほとんど受けない。顔写真も出さない。それはPR業は黒子であるべき、という信念からだろう。
「それは嫌というほど感じていました。でも、余計な色眼鏡で見られることは仕方ないと思っていたし、私がどうこう言われるのは覚悟していました。
それよりもずっとショックだったのは、思いを込めて大きなプロジェクトを成し遂げても、会社としての信用が足りていないと思い知った時。一緒に働く仲間が後ろめたい思いをするのはたまらなかった」
そう振り返るのは、2005年に企画から立ち上げた「ホワイトバンド」キャンペーンのことだ。
白いリストバンドを身につけることで貧困撲滅を各国首脳に訴えよう。そんな国際キャンペーンが始まったと英BBCニュースで見て、次原さんは社会貢献事業として日本でもムーブメントを起こすことを発案。NGOに協力する形でキャンペーンを仕掛け、600万人がホワイトバンドを身につけた。PRという仕事が秘める大きな可能性を確信できたという。
募金や寄付ではなく、「ファッションアイテムで意思表明する」という新しい手法だからこそ多くの人々に広まり、話題を生む“アドボカシー(PRの手法を活かした社会啓発活動)”としての成功。
反面、無理解からのバッシングも呼んだ。
「ぼったくりのイカサマバンドだ、なんて言われてね(苦笑)。実情は持ち出しだったから真逆だったんですけどね。
でも、いくら監査を入れ、会計情報を公開しても誰も信頼してくれない。会社のメンバーたちもそれなりの年齢になって家族持ちも増えてきていたの。『へこんでいる場合じゃない、会社の信用を上げることが私の責任』と、上場を意識した一つの理由はそれもありました」
「日本の女性はあまりにも埋もれている」
若い頃は“女性社長の集まり”が苦手だったという。
2008年、大阪証券取引所ヘラクレス (現・東証JASDAQ市場) に上場した。「行けるところまで行こう」と10年かけて条件を整え、2018年9月、東証への市場変更を発表。上場の承認を得て、異例のスピートで2部から1部へ“昇格”指定に。
2014年には経団連にも加盟し、パブリックな活動も増えてきた。取材の数日前には、G20の下部組織である女性会議「W20」の委員に就任し、キックオフに参加してきたという。
「あまり大きな声では言えないけれど、正直、若い頃は“女性社長の集まり”ってすごく苦手でした。だって私は学もないし、賢くもない。華々しい経歴は何もなくて、まさに雑草みたいでしょ? 他の女性社長たちとはとても話を合わせられないと思っていました。
でも、だんだんと見える風景が変わってきて、あまりにも日本の女性たちが埋もれていると危機感を抱くようになったんです。年齢を重ねたからか、次世代の女性を引き上げる役割を果たしていきたい気持ちが強くなって。だから、 これからは自分の言葉でもメッセージを送りたいなあと。それも雑草女の役目なのかなと」
世界経済フォーラムが先日発表したジェンダーギャップ指数で、日本は世界144カ国中110位。2017年の114位より4ランク上がったものの、依然、後れをとっている状況を悲観している。
「女性たちにはもっと思い切り活躍してほしいなと思います。世の中の消費の7割は女性が決定権を持つと言われているのだから、女性は本来、決断が得意な生き物なはず。『責任のあるポジションに就く自信がない』という女性が多いらしいけれど、私だって自信もない。
ただ、一つだけ自慢できるのは、自分の会社を34年間続けてこられて、少しずつでも成長させていけたこと。なぜ続けてこられたかって? 始めたからには止める選択肢なんかなかっただけです」
東証一部上場を果たした女性社長の一人として、「臆せず発信していく」と決意を語るが、「メディアに顔は出さない」というポリシーは変えないつもりだ。人に光を当てる役割である以上、“stay at shadow”、黒子を貫く。
「まだまだ女の幸せも求めていきます」
若い社員が多いが、家族のいる社員も増えてきた。自身も2人の子どもを育てるシングルマザーである。
プライベートでは2人の子どもを育てるシングルマザーである。
18歳の長男はボストンに留学中で、15歳の長女と暮らすが、もう一人、同居するのはなんと「離婚した夫の母」。離婚の際、子どもたちがなついていた義母とは“子育てパートナー”として共に暮らし続ける約束をした。
毎年、年末年始には血縁のない知人友人が集まって子どもたちを囲み、「家族写真」を撮るのが恒例となっている。“巻き込み達人”ならではの子育てスタイルには気負いがない。
次原さんが最初の子どもを妊娠したのは、ちょうど中田選手の最初の移籍交渉が佳境だった。イタリアのチームのリサーチに回る旅の間に流産を経験した。大きな仕事と自身のライフイベントが重なった。
「働きながら育てるってたしかに大変。でも、その方法は自由に発想していいと思う。私が出産した頃は、仕事をするか育てるかという“or”の時代だったから、産後2週間で仕事復帰したりと多少の無理もしてきたし、それを可能にするための環境も整えてきた。
幼稚園に私がお迎えに行けた日は数えるくらいしかなかったけれど、子どもたちが『働いているママが好き』と言ってくれるのはすごく嬉しい。昔に比べると、今は仕事も子育ても両立しやすくなった“and”の時代。
だから、もっと欲張りにどちらも頑張ればいいと思いますよ。私もね、まだまだ女の幸せを求めていきます。来年は猪突猛進、私はもっと自由に思い切り、子ども達があきれるぐらい不良に生きたいですね(笑)。そしてまだまだ恋愛もしたいと思います」
(聞き手・浜田敬子、文・宮本恵理子、写真・岡田清孝)