韓国で100万部を超えるベストセラーになった小説『82年生まれ、キム・ジヨン』。日本でも2018年12月に刊行して以来増刷を重ね、これまでにアジア文学としては異例の8万部を発行している。今後はアメリカ、イギリスなど17カ国で翻訳される予定だ。
小説の主人公は、何かに声を上げるわけでも行動を起こすわけでもない、ごく一般的な女性だ。青春のみずみずしさや恋愛の葛藤、仕事の成功などのカタルシスも一切ない。
そこに著者の趙南柱(チョ・ナムジュ)さんの戦略があった。
女性が受ける差別を淡々と描く
『82年生まれ、キム・ジヨン』著者のチョ・ナムジュさん。2月19日に単独インタビューにこたえた。
撮影:今村拓馬
『82年生まれ、キム・ジヨン』主人公のキム・ジヨンは、前年に娘を出産したばかりの33歳の女性で、夫はIT企業に勤めている。キム・ジヨンは1982年生まれの女性で最も多い名前だという。
幼い頃から、炊き上がったばかりのごはんは父、弟、祖母の順に配膳された。学生時代、男子学生に後をつけられて怖い思いをしても父親には「なんでそんなにスカートが短いんだ」と叱られ、やっとの思いで就職した広告代理店には当たり前のように男女の賃金格差が。
紀伊国屋書店、新宿本店に並ぶ『82年生まれ、キム・ジヨン』。今週からJR山手線での動画広告も始まっている。
提供:筑摩書房
妊娠したのが息子ではないことに後ろめたさを感じなければならず、子育てのために仕事を辞める決断を迫られる。
盗撮事件では加害者男性がかばわれ、ネットには女性を揶揄するスラングがあふれている。キム・ジヨンが生きるのはそんな時代だ。
「精神科医のカルテ」を小説に
主人公のキム・ジヨンはある言葉をきっかけに精神のバランスを崩し、母親や友人が憑依したように振る舞うように(写真はイメージです)。
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小説は、ある言葉をきっかけに心のバランスを崩し、母親や友人が憑依したように振る舞うキム・ジヨンが、通院先の男性精神科医に向かってその半生を語った記録、つまり「医師のカルテ」という形式をとっている。
Business Insider Japanは著者のチョ・ナムジュさんに2019年2月19日、単独インタビューした。チョさんは言う。
「ドライな語り口だという感想は多いですね。読者に『女性たちが置かれている現状は正しいこと?合理的なの? 』と理性的に考えて欲しかったので、そのための判断材料として報道記事や統計データを多く引用したいと、初めから思っていました。カルテという形を選んだのは、そうしたデータが自然に出てくるようにしたかったからです」(チョ・ナムジュさん)
女性特有の問題を浮き彫りにするために、余分なものを削ぎ落としたという(写真はイメージです)。
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実際、小説には女性の就労や賃金、両親どちらの姓を名乗っているかなど多様なデータが引用され、エピソードのリアリティを補完している。
他にも、キム・ジヨンのプロフィールを韓国の一般女性より「少し上に設定」(実家の暮らしぶりや首都圏の4年制大学卒業など)したり、恋愛の描写を入れないなどの工夫をしたという。
「貧困などの経済格差がなくとも女性にはこれだけの問題が生じるのだということを書きたかったし、読者にも受け入れて欲しかったんです。女性と社会の問題に焦点を当てるために、余計なものはなるべく削りました。恋愛のエピソードがないのもそのためです」(チョ・ナムジュさん)
「ママ虫」と呼ばれた女性たちの反撃
韓国の20代女性の42.7%が自身をフェミニストだと認識しているという調査(2018年、韓国女性政策研究院)もある(写真はイメージです)。
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チョさんによると、小説を執筆していた2015年は韓国で女性たちを取り巻く状況が大きく変化した年だったという。
MERS(中東呼吸器症候群)は「道徳観念のない女性たちが持ち込んだ」というデマが広まり、韓国最大のポルノサイトで盗撮やレイプを共謀するやり取りが公然と行われていたことが明らかになった。育児をろくにせず遊びまわる害虫のような母親という意味の「ママ虫」という言葉がネットを中心に使われ始めたのもその頃だという。
「女性が女性であることを理由に搾取されたり暴力の対象になってはいけない、今の状況を受け入れてはいけないという思いで小説を書き始めました。同じように当時、『自分はフェミニストだ』というアイデンティティを持ち始めた女性たちがたくさんいて、『ミラーリング』という方法で、これまで女性たちが受けてきた言葉の暴力を男性に返す動きが、ネットを中心に広がったんです」(チョ・ナムジュさん)
なぜ男性の登場人物に名前がないのか
撮影:今村拓馬
ミラーリングは、相手の行動をまねることで何が問題なのかを明らかにする手法だ。女性たちは普段「女性はこうあるべき」と言われている「教訓」を男性にあてはめ、例えば男性が何かに対して異議を唱えたときに「男性は従順でないといけないのに」と返すことで、社会の偏見を可視化しようと試みたという。
『82年生まれ、キム・ジヨン』の中にも、ある種のミラーリングのような設定が用いられている。小説にはキム・ジヨンの夫、父、職場の同僚、担当医など数多くの男性が登場するが、主人公の夫以外の男性には名前がない。
ベクデルテストをクリアしていない映画作品は興行収入10億ドル(約1000億円)の壁を超えることができないというデータが出ている(クリエイティヴ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)調べ)(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
当初は男性にもみな名前をつけていたが、推敲の過程でフィクション作品のジェンダーバイアスを測定する「ベクデルテスト」の存在を知り、考えを変えた。
「『名前を持つ女性が少なくとも2人は登場』し、『男性以外の話題で会話をする』などがテストの基準だったのですが、今もその条件を満たしていない作品は多いと言われます。だったら男女逆転させて条件を満たしていない小説を書くことで、現状がいかに不自然か気づいてもらおうと。過去の作品で女性たちの存在が消されてきたように」(チョ・ナムジュさん)
政治家やK-POPアイドルも言及
韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領。2019年1月10日撮影。
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小説が100万部を超えるベストセラーになるまで、大きな注目を集めるいくつかのターニングポイントがあったという。
ある政治家は3月8日の国際女性デーに300冊を購入してプレゼントしたとSNSに書き込み、またある政治家は文在寅(ムン・ジェイン)大統領の就任記念に「キム・ジヨンを抱きしめてください」という言葉を添えて文大統領に本を送った。
韓国で検察庁内部のセクハラについて声を上げ、#MeTooを牽引した検察官の徐志賢(ソ・ジヒョン)さんも告発時にこの本について触れたという。
グラミー賞授賞式に参加したBTSメンバー(2019年)。中央がRM。動画配信アプリ「Vライブ」で本の感想を述べた。
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K-POPアイドルたちの存在も大きい。
「読んだ後、何でもないと思っていたことが思い浮かんだ。女性という理由で受けてきた不平等なことが思い出され、急襲を受けた気分だった」(少女時代・スヨンさん)
「示唆するところが格別で、印象深かった」(BTS・RMさん)
などとコメントしている。
一方で、拒否反応も多かった。
女性グループRed Velvetのアイリーンさんが本を読んだと発言するや「フェミニスト宣言をした」と一部の男性ファンが反発し、写真やグッズを破損させる様子を動画サイトに投稿した。映画化が決まった際も、キム・ジヨンを演じる女優は激しいバッシングにさらされたという。
「トイレットペーパーにもならない本」
韓国では男女ともに「共感した」という声を聞くことが多かったそうだが、一部男性からは「誇張している」と拒絶反応もあったという(写真はイメージです)。
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日本のアマゾンでカスタマーレビューが星5つ76%、星1つ17%と二極化しているのも興味深い(2019年2月20日時点)。韓国人と思われる人物の「日本人皆さんに韓国人として謝罪します」「こんなトイレペーパーにもならない本を日本に販売されるなんて、、」(原文ママ)というものもあった。
著者のチョ・ナムジュさんもネット上で誹謗中傷されることもあるそうだが、「気にしていない」と笑う。
「でも私以外の誰かが攻撃されるのを見るのは、とても心が痛みます。読んだという事実は同じでも、若い女性と年配の男性では社会の反応が全く異なっていました。この非対称な状況こそ、私が小説を通じて訴えたかったことです」(チョ・ナムジュさん)
「あなたの妻や娘」論法の矛盾
キム・ジヨンが自身の声を取り戻すには、やはり社会が変わる必要があるとチョさんは言う(写真はイメージです)。
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小説は、キム・ジヨンの気持ちを理解しようと努めていた担当医の、暗澹たる気持ちにさせられるような、ある意味示唆的な言葉で締めくくられる。
「どうせこれからも社会は変わらないというような悲観的な考えでラストシーンを書いたわけではありません。あの医師は自分の妻やジヨンには親身になっているように見えたけれど、一方で自分だけの基準や状況でものごとを判断します。よく女性差別や性犯罪で『あなたの妻や娘がその立場になったらどう思う?』と男性に問うことで想像を促そうとする人がいますが、結局、そんな個人的なことではダメなんです。
大切なのは、制度や慣習など社会全体を変えることです」(チョ・ナムジュさん)
出版した2016年には、繁華街のビルのトイレで「女性が女性であること」を理由に殺害されるという江南駅通り魔事件が起き、女性たちは「女性へのヘイトクライムだ」とデモや集会で抗議して連帯した(写真はイメージです)。
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韓国では2015年以来のフェミニズムの盛り上がりが今も続いているという。メディアや広告のジェンダーバイアスに抗議したり、女性への暴力に対抗するデモも定期的に行われている。性犯罪の裁判の判決には多くの国民が注目し、判決当日は連帯の意志を示すために裁判所に行き、「被害者を支持する」という趣旨の宣言をする女性たちも増えているそうだ。
男性がフェミニズムの本を執筆したり、男性が男性のジェンダーバイアスを指摘する本も出版されるようになっているという。
「成し遂げない」主人公と「アクション起こす」読者
作者のナムジュさんは放送作家として働いてきた(写真はイメージです)。
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チョ・ナムジュさんは大学在学時に放送作家としてデビューし、卒業後もフリーランスとして数多くの社会派番組を手がけてきた。
仕事は多忙を極めた。平日は深夜まで。休日もテレビ局に行かなければならないことが多かったという。
小説を書き始めたのは、娘を出産して仕事を続けることが困難になったからだ。
「家の中にいても続けられる仕事はないだろうかともがく中で、小説を書くようになりました。
小説を書くことは自分を振り返る作業です。私にも成し遂げられなかった目標や夢があり、これまではすべて自分の責任だと思っていました。でも執筆を通して過去を考える中で、実はそもそも選択肢が少なかったのではないか、原因は社会の側にもあるのではないかと考えるようにもなって。
そうしたらもっと自分に寛容になれたんです」(チョ・ナムジュさん)
今の成功も過去は救えない
撮影:今村拓馬
主人公のキム・ジヨンは「何かを成し遂げるわけでも、行動を起こすわけでもない」とチョさんは言う。しかし「最善を尽くした女性だ」とも。
小説の感想をSNSなどに投稿する際、自分の人生を語り、何かと決別したり、これから変化を起こすと宣言する人がたくさんいたそうだ。チョさんが「読者の皆さんの感想で完成させてもらった」と語る『82年生まれ、キム・ジヨン』は、韓国で100万部を超えるベストセラーになり、映画化も決定。日本でもアジア文学としては異例の8万部を発行したほか、台湾、タイでも出版されており、台湾ではベストセラーになっている。今後はアメリカ、イギリス、フランスなど17カ国で翻訳されるそうだ。
最後に、「成し遂げられなかった目標や夢」とは何なのかたずねた。
「放送作家を続けたかった。仕事に誇りを持っていたし、何よりとても好きだった。もっとやりたいことがありました」
(文・竹下郁子)