結局、アベノミクスのおかげで私たちの賃金は上がったのか、それとも下がったのか?
撮影:今村拓馬
連日報じられる毎月勤労統計調査の不適切調査問題。賃金に関する代表的な政府統計の信頼性が揺らぐなか、「アベノミクスの成果」として政権が強調してきた「雇用情勢の改善」が本当かウソかが問われている。実際のところはどうなのか?
「時短正社員」が営業担当、採用難どこ吹く風
育児や介護といったさまざまな事情を抱える人が働きやすいように、「時短正社員」といった新制度を導入する企業が増えている。
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東京都内の人材サービスベンチャーで働く正社員の女性(34)は、外回りの営業や、自社サービスへの満足度を調べる顧客インタビューといった中核業務を担当している。
勤務は午前10時から午後5時まで、残業は一切なしの「時短正社員」。このベンチャーは2016年から、時短スタッフに中核業務を任せるようになり、採用第1号がこの女性だった。採用難に悩む中小企業が多いなか、正社員の勤務時間や勤務日数の選択肢を広げた結果、女性のような優秀な人材を十分確保できているという。
女性は大学卒業後、同業の中堅企業に入社し、4年ほど営業を担当。深夜の残業も珍しくなかった。共働きの夫の地方転勤を機に退職し、出産。夫が東京勤務に戻ったのを機に仕事を探し始め、前職の経験を活かせる「時短勤務の営業」の職を見つけた。
保育園へのお迎えの時に2人の息子たちがまだ友だちと遊んでいたら、ゆっくり待ってからスーパーで買い物をして帰る余裕もある。
「仕事を通じて社会の役に立っているという充実感があります。子どもと接する時間も十分にほしいので、この働き方を続けたいと考えています」
深刻な人手不足、団塊世代の引退が引き金
深刻な人手不足のなか、シニアや女性の働き手が増えている。
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「雇用・所得環境が着実に改善しているとの判断に変更はない」
毎勤統計問題を巡り、野党から国会で「アベノミクス偽装だ」と攻め立てられている安倍晋三首相は、そう反論する。
データで検証してみよう。
求職者1人あたりに何件の求人があるかを示す有効求人倍率。2018年は、今の安倍政権が年末に発足した2012年から0.81ポイント上昇して1.61倍となり、高度経済成長の末期だった1973年以来の高水準だった。完全失業率も2018年は2012年より1.9ポイント下がり2.4%に。こちらもバブル景気の余韻が残る1992年以来の低さだ。
数字から言えるのは、今は深刻な人手不足で、「仕事を選ばなければ確実に職に就ける状況」ということだ。「雇用環境が着実に改善」したのは間違いない。
とはいえ、第2次安倍政権発足後の2013~18年の実質国内総生産(GDP)の伸び率は年平均で1%ほど。5%を超えていた1986~91年のバブル景気などに比べるとかなり低く、「アベノミクスによって景気が大きく盛り上がり、企業が事業をどんどん拡大して人手不足になった」と言うには無理がある。
人手不足の本当の理由は何か。少子化で若い世代が減るなかで、800万人ほどいた戦後ベビーブーム世代(団塊世代)が2012年以降に65歳を迎え、引退する人が一気に増えたことが大きい。誰が政権を担っていても、程度に差はあるにせよ、人手不足の傾向は強まっていたはずだ。
意外にも働き手は減っていない
それでは働き手はどのくらい減ったのか?多くの人の直観に反して、実は働き手の数は増えている。
総務省の雇用統計によると、2018年の就業者数は6664万人。2012年から384万人増え、データが比較できる1953年以降で最も多い。男性よりも女性、年齢別ではシニアの伸び率が高い。2012~18年の「役員を除く雇用者」の増加分のうち、非正社員が7割を占めた。
ただ、主婦や高齢者は家庭の事情などで長時間の勤務を望まないケースが多い。企業側はパートやアルバイトといった非正社員に任せる業務を広げたり、冒頭の女性のような「時短勤務の正社員」といった勤務体系を導入するなどして、必死で人手の確保に動いている。
長時間労働が当たり前という男性正社員が多かった団塊世代の引退後、企業はこれまで働いていなかった主婦や高齢者を労働時間の短い非正社員などとして積極的に採用。1人当たりの労働時間が短いぶん、頭数を増やして人手不足を補おうとしている——。そんな構図だ。
パート・バイト時給はうなぎ上り、でも正社員は……
パートやアルバイトの時給は上がり続けている。ただ、もともとの賃金水準が正社員に比べて低いため、正社員も含めた全体の賃金水準を押し上げるには力不足だ。
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人手不足なら賃金は上がるはずだ。
不適切調査の発覚後に修正された毎勤統計を見ると、賃金の額面の推移を示す「名目賃金指数」は2012年の99.7からおおむね上昇傾向が続き、2018年は102.5だった。
ところが、物価が上昇または下落した分を考えに入れ、「どれほどのモノやサービスが買える賃金を受け取れたか」を示す「実質賃金指数」の動きはかなり異なる。
2012年には104.5だったが、2018年は100.8と低迷。2013年以降、前年比でプラスとなったのは2回だけで、2018年も前年より0.2%増えただけだった。
毎勤統計問題を「アベノミクス偽装だ」と追及する野党は、「2018年に調査対象企業を入れ替えた影響を取り除くため、前年にも調査対象となった企業のデータだけを比べれば、実質賃金指数の伸び率は2018年もマイナスだった」と独自試算をもとに主張している。
それが事実かどうかとは関係なく、上記のデータを見れば、「人手不足なのに賃金は伸び悩んでいる」という傾向は全く変わらないことは明らかだ。
毎勤統計の賃金は一人当たりの平均だ。労働時間が短い働き手や、正社員に比べ賃金の水準が低い非正社員の比率が高まっている現状では、それだけで平均値は下がりやすい。
それでは、正社員と非正社員の賃金の実態をそれぞれ見てみるとどうか。
パートやアルバイトの時給はうなぎ上りだ。リクルートジョブズの調査では、三大都市圏のアルバイト・パートの募集時の平均時給は2012年12月に956円だったが、2018年12月は1058円に。しかし、もともとの賃金水準が正社員に比べて低いため、正社員も含めた全体の賃金水準を押し上げるには力不足だ。
一方、労働組合の中央組織・連合が、正社員中心の加盟労組員について集計した賃上げ率は2014年以降、2%前後で推移している。それ以前の低迷期に比べれば伸び率は高いが、年齢が上がると自動的に昇給する分(定期昇給)を含む数字であるうえ、このところ企業の業績が絶好調だった割にはかなり控え目だ。
「好条件の転職」の難しさが賃上げのネックに
今は転職ブームだが、高給取りの大企業の正社員にとっては、好条件での転職はまだまだハードルが高い。
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正社員の賃金が伸び悩む最大の要因の一つと言われるのが、大企業を中心に根強く残る、長期雇用、年功制、新卒一括採用を柱とする「日本型雇用」だ。
正社員をクビにするのが簡単ではない一方、テクノロジーの急速な進歩によって事業環境の変化が激しくなり、日本経済の右肩上がりの成長も望めなくなった。経営者は賃上げには慎重だ。
転職が簡単なら、企業間で競争原理が働き賃金水準は上がりやすい。パートやアルバイトの時給がどんどん上がっているのはそのためだ。
今は転職ブームとはいえ、高給取りの大企業の正社員にとっては、好条件での転職はまだまだハードルが高い。だから労組も経営側との交渉では賃上げより雇用維持を優先しがちだ。正社員の賃金が伸び悩む背景には、そんな事情がある。
賃金を巡っては、安倍首相は「総雇用者所得は名目も実質もプラスだ」と強調している。総雇用者所得とは1人当たり賃金と雇用者数を掛け合わせたもので、2018年は実質値でもすべての月で前年同月を上回った。
実際に「専業主婦が働き始めて世帯収入が増えた」といったケースが目立つのも確かで、総雇用者所得の増加は景気にはプラスだ。とはいえ世帯の形は「共働き」だけではなく、低賃金の働き手ばかりが増えても消費は大きくは盛り上がらない。実質GDP成長率の低迷もその証拠だ。一人ひとりの働き手の賃金をきちんと増やしていくことも重要だ。
雇用は企業でなく社会全体で保証すべきだ
大企業を中心に根強く残る、長期雇用、年功制、新卒一括採用を柱とする日本型雇用。変化の激しい今の時代に合わなくなったのは明らかだ。
撮影:今村拓馬
主に個々の企業が「正社員の雇用安定」の責任を負う日本型雇用システムは、「長時間の残業も転勤も配置転換も当たり前の正社員」と、「低賃金で雇用が不安定な非正社員」の分断を生んだだけでなく、企業が赤字事業の思い切った整理をためらい、競争力を失いがちな理由にもなっている。変化の激しい今の時代に合わなくなったのは明らかだ。
例えばスウェーデンでは、職業訓練や再就職支援の仕組みといったセーフティーネットを政労使が協力して充実させる一方、労組は赤字事業の整理に伴う人員削減を受け入れている。個々の企業に浮き沈みがあるのは当たり前。雇用の安定は社会全体で保証しよう——。そんな考え方に基づく。
働き手と企業に絶えず「変化」を迫るやり方は、誰にとっても楽ではない。
それでも、企業の枠を超えた働き手のスムーズな移動を後押しして失業問題の深刻化を防ぐとともに、もうからない企業が退場して高成長企業が増えていけば、1人あたりの賃金はしっかり上がり、日本経済全体の競争力も強まる。
その道筋をつけるための政策が、アベノミクスには欠けている。
(文・庄司将晃、写真はすべてイメージです)