大阪に本社を置く「マックス」は、創業114年、約100人の従業員を抱える老舗石けんメーカーだ。36歳で5代目社長に就任した大野範子さん(45)は就任半年後の2009年9月、職場で突然出血し、子宮頸がんと診断された。手術で子宮を摘出し職場に復帰したものの、再発・転移を繰り返し翌年にはステージ4と判定された。
4年にわたる闘病を経て、社業に復帰した大野さんは、放射線や抗がん剤による治療で肌が荒れ、自社の石けんも受け付けなくなった経験から、「肌が弱い人が、普通の生活を送れるように」と、肌トラブルを抱える人向けの商品開発に力を入れるようになった。
社長就任半年、職場で突然の出血
30代でがんにかかり、ステージ4と判定された大野範子社長。4年の闘病を経て、社業に復帰。6年が経過した。
撮影:品川雅司
マックスは1905年、大野さんの曽祖父が創業。祖父、おじ、父へと事業が継承された。大野さんも大学を卒業後、別のメーカー勤務を経てマックスで働くようになったが、2007年に当時の社長だった父から“予想外”に次期社長に指名された。
「おじの息子、つまり私にとっての従弟も社内にいて、てっきり彼が継ぐものだと思っていたので。気楽だった立場が一変しました」
何をしていいか分からず、通勤電車の広告で目にしたビジネススクールに入学し、経営学を学び始めた。2009年3月、社長就任。9月にビジネススクールも修了し一息ついた直後、職場で突然、下半身から大量出血した。
大野さんは3年弱で5回、がんが見つかった。
「自分だけではなく、周囲の社員も動転しましたよ。バスタオルを巻いて病院に運ばれて。検査をする前に、医師から『がんでしょうね』と言われました」
健康への意識は、低くなかった。がん検診も毎年受けてきたが、直近の1年は「夫が兵庫県に転勤となり、私もぎりぎり通勤できる距離だったので一緒に転居してそこから遠距離通勤していました。ビジネススクールの論文執筆も大詰めで、さらに社長就任。とにかく忙しくて、その1年は健康診断を受けていなかったのです。忙しくて疲れているのも当然という状態で、体調不良も深刻にとらえていませんでした」。
子宮頸がんと診断され、2週間後に手術で子宮を全摘出した。その時でさえも、頭は仕事のことでいっぱいで、11月の退院後すぐに職場復帰した。ところが3カ月後、2010年2月の術後検査で、子宮摘出跡に広い範囲でがんが再発していることが判明した。ここからが、大野さんの闘病の実質的な始まりだった。
抗がん剤と放射線治療でがんを消したが、1年後の2011年2月、今度は肺への転移が確認され、ステージ4との判定を受けた。肺がんを手術で切除するも、同年4月には首の骨に転移。医師は家族に「覚悟しといてください」と余命半年を告げ、緩和療法を提案した。大野さんと夫は「絶対に治す」と転院を決め、IMRT(強度変調放射線治療)と抗がん剤による治療を選択した。
2012年2月にはまたも肺にがんが見つかり、このときは放射線と抗がん剤による治療を行った。
自分が納得するため、病院を変えた
職場復帰翌年の2014年、製品に配合する成分の一部を有機農法で栽培するために、自社農園を開設した。
提供:マックス
2009年9月の子宮頸がんを皮切りに、3年で5回がんが見つかり、余命宣告も受けた大野さん。だが2013年9月に治療を終了し、社長業に復帰。以後今までがんが再発することはなく、「普通に近い」生活を送っている。
大野さんは、がんが見つかる度に病院を変えた。それは夫と話し合った結果だ。
「私は闘病中、気分が滅入るからと患者ブログなども見ませんでした。とは言え、やることがなくて暇な分、悪いことばかり考えて鬱々としていました。その間、夫はずっと情報を集めていました。この病院はこのがんに対して、こういう治療をしていて、その効果はこれくらい、そんな情報を一覧できるよう表にしてくれました。医療機関によってがんのアプローチは違います。だったら自分たちが納得できる治療法を選択しよう、それでだめなら諦めもつくからって」
がんを再発する自身の体質改善にも取り組み、食生活も見直した。減農薬・無農薬の野菜を摂取し、塩分も取らない。入院した病院で、医師から「好きなものを食べて」と言われても、病室にジューサーを持ち込み、野菜をすりつぶして飲んだ。
「病気を治療するのは医師や医療技術ですが、病気になりにくい体をつくるのは自分自身だと考えるようになりました。食生活は闘病中から変えていません」
闘病経て社長復帰も、創業以来初の赤字危機
マックスの石けんは、学校の手洗い場などでよく使われていたが、最近は石けん市場そのものが、代替商品の登場などで縮小している。
提供:マックス
4年間の闘病を終え、ようやく会社に戻った。だが大野さんが復帰した2013年、マックスは、創業100年強の歴史で初めての赤字の危機を迎えていた。
マックスは石けんメーカーとして、経済が成長する中で社会の衛生を支えてきた。30~40年前、小学校の手洗い場の蛇口にネットで吊るされていた石けんが、長らく同社の主力商品だった。
「私が子どものころ、祖父と父が『石けんは必需品だから、大きくもうからなくても真面目にやっていれば、潰れることはない』と話していました。でも社会の変化で石けんの市場はどんどん小さくなっていったんです」
家庭の浴室や洗面所には、石けんの代わりにボディシャンプーが置かれるようになっていった。さらに、中元・歳暮の習慣の衰退で、バブル崩壊後は贈答需要も右肩下がり。リーマン・ショックで経済全体が沈む中、「石けん洗顔ブーム」の立役者だったあるメーカーが、大規模な健康被害事件を起こし、石けん離れに追い打ちをかけた。
悩みを解決する商品は必要とされる
今年2月には、奈良県や近畿大学との産学官連携開発による新商品「やまとcosmetic」を発表した。
撮影:品川雅司
大野さんは復職後すぐ、会社の立て直しのためにコスト削減に着手した。不採算商品、部門を縮小し、業務に関わっていない創業一家の報酬を廃止、社員の人件費も削った。
だが、コスト削減の効果が表れるには時間がかかり、長期的な対策とも言えない。
大野さんは、がんの闘病と同じように、経営再建でも「治療と体質改善」に並行して取り組もうと考えた。治療にあたるのがコスト削減で、体質改善に相当するのが商品構造の見直しだった。
「泡立ちやすく、すすぎやすい」という大野さん自身のニーズをもとに、2015年に発売されたボディウォッシュ。
マックス提供
抗がん剤での治療中、生活上さまざまな制約を受けた大野さんにとって、思いのほかつらかったのが入浴の時間だったという。
「抗がん剤を使っているためか体臭が気になって……。毎日シャワーを浴びたいけど、抗がん剤の副作用で肌が荒れて石けんもお湯もヒリヒリするんです。自社で作っていた無添加石けんでもしみるので、『無添加だけじゃだめじゃん』と泣きました。病気治ったら、もっと肌に優しい石けんを作ろうって何度も思いました」
復帰後、開発部門に「泡立ちがよくて、短時間ですすげる石けんを作ってほしい」と投げかけた。2年後の2015年に、敏感肌用ボディウォッシュ「素あわ」として商品化され、口コミで売れるようになった。
加齢臭や体臭に悩む人向けに、柿渋石鹸・ボディソープも発売。
「ただの石けんを作っていたら先細りだけど、肌の悩みを解決して、普段の生活に近づける商品を作れれば、会社としても必要とされるはず」
商品の軸を「必需品の石けん製造」から、「肌の悩みを解決する」に転換し、マックスの現在の売り上げの7割は、10年前には存在しなかった商品によってもたらされている。
一人では何もできない自分を受け入れる
闘病を経て、目指す社長像も変わった。
撮影:品川雅司
5回のがんと闘病を経験し、大野さんは「決断が早くなったし、どうしたら自分が納得するのかを考えるようになった。それが経営にも生かせるようになった」と話す。
闘病中、悩んでいるときは悪いことばかり考え、心が弱くなった。その間にも病気は進行し、体力は落ちていく。「治す」と決めて治療方法を選択したら、多少は気分が軽くなり、家族一丸となって治療に取り組めた。
がんにかかる前とは、思い描く社長像も変わった。
「社長は何でもできなくてはいけない、と思っていて、それがコンプレックスにもなっていました。例えば私は文系学部の出身ですが、中小メーカーの経営者は理系が多くて、そこに劣等感を感じてしまい、結婚相手は絶対理系!と決めて今の夫と結婚したくらいですから……」
「だけど自分が病気になったら何もできなくなった。夫が支えてくれて、病気についても調べてくれて、『先生とちゃんと話しなさい。治療法を決めるのはあなただから』とはっぱもかけられました。だから今がある。会社でも、社員ができることは社員に甘えればいいんだと思うようになりました」
闘病中、がんを治療したと思ったら数か月後に新たながんが見つかる、ということを繰り返し、「毎回毎回、ほんとにがっくり来た」という。
「でも、私以上に家族ががっくり来ている姿を見て、そっちがつらかった。何としても治さないとと思いました」
「最近は同じ病気の人から悩みを聞く機会も増えましたが、元気な人たちには、私のように忙しさを理由に健診を後回しにしないでと言いたいです。闘病中は本当に大変で、会社に戻るときに、治療を思い出すものは全部処分しました。だけど、自分がつらかったときの経験は忘れず、社業に反映させていきたいです」
(文・浦上早苗)