十勝清水コスモスファームの牛舎にて。牛を優しい眼差しで見つめる同ファーム代表取締役の安藤智孝氏(右)と、リコーインダストリアルソリューションズ 産業スマートシステム事業部 フィールドデータ事業室長 星謙太郎氏(左)。牛の首についているカウベルのようなものが、リコーが開発した首輪型センサー「RICOH CowTalk」。
IoT技術が生産農家を「幸福」にする「RICOH CowTalk」にかける熱い想い
生産者の高齢化、後継者不足、安全・安心ニーズの高まり、食料自給率の維持向上……。日本の農畜産業はさまざまな課題を抱えており、それらは消費者の食生活に直結している。こうした課題にセンシングやコンピューティングの高い技術力をもって、リコーのフィールドデータ事業が開発を進めるのが「RICOH CowTalk」だ。
現在実証実験中の「RICOH CowTalk」開発にあたって、リコーはまだまだIT化が浸透していない日本の畜産業を「ただ見える化する」だけでは足りないと考えている。つまり、リコーの持つ先端技術を活かして、生産農家に徹底的に寄り添うということ。コストを抑え、農場の経営にも、牛のカラダにも負担のないシステムを開発しよう、という果敢な挑戦とも言える。
リコーインダストリアルソリューションズ 産業スマートシステム事業部 フィールドデータ事業室長 星謙太郎氏と、実験に協力している北海道の十勝清水コスモスファーム(以下コスモスファーム)代表取締役の安藤智孝氏に話を聞いた。
「RICOH CowTalk」を実証実験中のコスモスファームに潜入
コスモスファームで飼育されている牛。目に生き生きとした輝きが宿っており、見るからに元気そうだ。
とかち帯広空港から車で約45分。周囲は牧場ばかりという北海道上川郡。清水町の一角に、コスモスファームはある。案内されて牛舎に入ると、牛たちがつぶらな瞳をこちらに向けた。つややかな毛並み、人懐っこい表情、なんとも“めんこい”。
「農場によって牛舎のつくりや飼い方、従業員教育も違う。牛の顔を見たら、その農場が牛にどう接しているか分かるようになりました」と、道内を車で東奔西走し、農場や大学、研究施設、メーカーなど、さまざまな人たちの話を丁寧に聞いて回っているリコーの星氏は語る。
リコーインダストリアルソリューションズ 産業スマートシステム事業部 フィールドデータ事業室長の星謙太郎氏。
コスモスファームは、8haの広大な敷地に20棟もの牛舎を有し、常時約2400頭の牛を飼育している大規模農場だ。微生物を活用した肥料による独自の飼育法を導入しており、初めてここを訪れた人は牛舎独特のにおいがないことに、まず驚かされる。クリーンな牛舎は従業員の働きやすさだけでなく、牛のストレスを軽減させる「カウコンフォート」にもつながるという。
「めんこい」と「おいしい」の狭間で揺れる心を変えたTPPの衝撃
8haもの土地に20棟の牛舎を展開するコスモスファーム。十勝地方の肉牛農家として初めて農場HACCP認証を取得した革新的な農場だ。
経営者の安藤氏は現在39歳。農場の経営者としては、実は異色の経歴の持ち主だ。
父親が始めた畜産業を「継ぎたくない」と東京の大学、大学院へと進学し、アメリカへ留学。その後、留学中に出会った女性と結婚した。
帰国後も財団法人かながわ国際交流財団 湘南国際村学術研究センターに3年間勤務した後、子どもが生まれるタイミングで北海道に戻り、帯広市役所に転職。北海道に戻ってきても、家業を継ぐ気はなかったという。それは「罪悪感があったから」と明かす。
十勝清水コスモスファーム代表取締役の安藤智孝氏。
「畜産業は、言ってみれば動物の命を奪うために計画的に飼育すること。それは自分にはできないと子どものころから思っていました。でも、そのお金で僕は進学させてもらった。その矛盾を自分なりに消化することができなかったのです。
母や同世代のスタッフは『この子、めんこいでしょ、おいしいのよ』と、動物としてのかわいさと商品としてのおいしさのブリッジが短いのですが、僕はそうではなかった。畜産という仕事に“納得感”がどうしても持てなかった」(安藤氏)
しかし、継ぐ決心をした。2014年のことだ。
「TPP(環太平洋パートナーシップ協定)の影響で、このまま黙っていたら農場が潰れると思ったからです。グローバル化が進むなかで、生産農家も無風ではいられない。何もしなければ従業員みんなが職を失ってしまう。元々、この農場は1987年に親父が立ち上げました。実はその2年後の89年に親父は交通事故で亡くなりました。以来、僕の母や社員が30年間守り続けてきた大切な農場です。その農場に対して、僕は何もしないでいいのか。コスモスファームをずっと続けるためには、僕も全力を尽くすしかない。そうハラをくくったら、僕の罪悪感を“納得感”が上回った。だから農場を継ごうと思ったのです」(安藤氏)
■「RICOH CowTalk」の詳細はこちらから
ホルスタインから和牛へ。異色の後継者が攻めの農場経営を展開
安藤氏がコスモスファームの経営者になってから開発した商品の数々。オンラインストアでも購入できる。http://fusha.shop-pro.jp/
「RICOH CowTalk」は、牛の首に取り付けたセンサーで、基礎行動(反芻・活動・静止)を24時間測定することで、個体や作業の情報をアプリで管理し、経営者や従業員はどこにいても情報を確認、共有できるシステムだ。
農業の世界の「外」から農場に戻る ── そんな異色の経歴を持つ安藤氏との奇跡的な出会いが、リコーの「RICOH CowTalk」開発には大きな影響を与えている。
「当初は、リコーが得意とするステレオカメラの技術を起点とした3Dデータビジネスを模索していました。 3Dデータの価値について検討を重ねるなかで、計測対象として“大きくて日々変化するもの”にスコープし、その1つとして“牛”にたどり着きました。しかし、マーケティングを進めるなかで、自分達が牛や農場についてあまりに無知で、試される立場なのだと痛感しました。ゆえに、製品開発に長期間を要するカメラではなく、一刻も早く提供開始できるセンサーシステムを選択し、“牛を知りながら根を張ってやる”という意志表示がしたかった」と星氏。
フィールドワークとして生産農家の方々にヒアリングを進めていくと、「生産農業に関わる方たちの高齢化、後継者不足などの問題も肌身に感じました。経営の効率化と牛の健康、そして従業員の働きやすさをIT技術でサポートしたい。どんどん農家の方たちと、この事業に対する想いが強くなっていったときに、コスモスファームの安藤さんと出会ったんです」(星氏)
「RICOH CowTalk」の仕組み(イメージ)。牛の首につけられたセンサーから得た情報が中継機を介して、アプリに配信。農場の経営者、飼育に携わる従業員がそれぞれ牛の生育状態を把握できる。
提供:リコー
安藤氏は元々、センサーによる牛群管理システムの導入を、星氏と出会う前から検討していた。すべては、効率的な農場経営のためだ。ただ、既存のシステムはBluetoothなどの通信距離が伸びにくい無線方式を使っているものが多く、牛舎全体をカバーするには多数の中継器を立てるために、多額の設置工事をしなければならない。だが、いずれは放牧も行いたい……となればより多くの中継器が必要になるため、導入コストが高すぎると感じていた。
牛舎内に設置された「RICOH CowTalk」の中継器。作業車のバックミラー(写真左)と比べても、かなり小型であることが分かる。
星氏が持ち込んだ「RICOH CowTalk」は、安藤氏の課題の1つである「中継器」問題を元からクリアしているものだった。センサー内部でデータ処理を行い、容量に制限のある広域省電力無線の採用を可能にすることで、多額の設置工事をすることなく農場の全域をカバーし、飼養牛たちのデータを24時間、取得することができる。取得したデータは、24時間クラウドに記録され、分析が行われる仕組みだ。
■「RICOH CowTalk」の詳細はこちらから
日本の農業に必要なのは生産性にこだわること
コスモスファームの従業員と「RICOH CowTalk」のアプリ画面を見ながら、牛の生育状態について話す星氏。
「海外の肉牛生産にあって日本に足りないものは、生産性に対するこだわりだと思うんです。従業員1人あたり高品質の肉をどれだけの量をつくれるか、その点を意識し、経営も、従業員の生活も安定させたい。
牛の状態は、人間の目で見ることが基本です。それを補完するものが、こうしたIoTデバイス。発情が確実にわかれば、1年に1回、定期的に子を生ませることができる。あるいは柵に首が挟まって動けなくなったときに通知が届けば、すぐに助けに行ける。1頭の命を守り、健やかに育て、生み出すこと。それが“生産性”につながる。テクノロジーを使うことで、牛たちにはここを卒業するまで健康で幸せに生きてほしい」(安藤氏)
「RICOH CowTalk」導入にあたって、現場からの反発は「一切なかった」と安藤氏は言う。堅実で、保守的傾向が強い生産農業の世界に、新規事業が懐に飛び込み、根を張っていくことは難しいにも関わらずだ。
技術と人が寄り添うことで推進力を増す農業イノベーション
最初は農業イベントで知り合い、星氏が半ば押しかけるようにして始まった安藤氏との関係。何度も膝を突き合わせて文字通り徹底的に話し込み、今はこの距離で話せる間柄になった。この関係性が業界に広がれば、農業イノベーションは夢ではなくなる。
リコーの星氏はその理由をこう考えている。
「リコーがこだわっているのは、機能や精度だけではなく、生産者さんの作業にしっかり寄り添うこと。そのためには、現場にまめに足を運ぶことが大切。カッチリとした事務所を構えている農場もあれば、自宅兼事務所で経営している農場もあり、抱えている課題はさまざまです。お茶の間のちゃぶ台を挟んでじっくり5時間、お話を聞くこともあります。もちろん経営者の方だけでなく、ベテラン、新規就農者問わず従業員の方にも『RICOH CowTalk』の感想を伺います。『ここの操作で、いつも迷って手が止まる』といったご意見をいただけば、ユーザーの立場になって細かい調整を加えて検討し、『寄り添いたい』という思いをアプリの使い勝手のよさや便利な機能に落とし込むようにしています。現場に寄り添わず、メーカーとして売りっぱなしということだけはしたくない」(星氏)
そのかたわらで安藤氏は「経営者として現場のスピード感に寄り添うことを心がけています。便利だからというだけで経営者が一方的に革新を進めて、現場が疲弊しては意味がない」という。
星氏からも安藤氏からも、奇しくも「寄り添う」という言葉が出た。それを指摘すると、「なんだかんだ言ってお互い『おもしろそうだ』と思ったから手を組んだんだよね」と笑い合う。こんな信頼関係があってこそ、この新規事業は前進している。
広大な敷地に立ち並ぶコスモスファームの牛舎。
「RICOH CowTalk」が本格的に普及すれば、日本の畜産業は変わるだろうか。
「まず、牛に目が届かないことで起こる事故や疾病が減るでしょう。長年従事してきた方が高齢になるなどして、『1日何度も牛舎の見回りをするのはきつい』という場合にも役に立つはずです。また、新規就農するハードルは大きく下がると思います」と星氏は先を読む。
安藤氏も「発情の見逃しが少なくなるということは、和牛生産量が上がるということ。そうなれば海外に対しての競争力も強まる。将来的には、就職どうしようか、都会で働く代わりに牛を飼おうかという具合に、“働き方、生き方の選択肢のひとつ”として、畜産業が他の企業と同列で選ばれるようになってほしい」と期待を口にする。
「牛たちがここにいる限り、健やかで幸せであるように育てる」と安藤氏の信念は固い。
農家に生まれ、農家に育ったが、食べるために牛を生み育てることの「葛藤」は、安藤氏にとってはそう簡単に消え去るものではない。複雑な気持ちは、今も変わらない。だからこそ、牛たちを心の底からかわいがり、世の中に出て行くその日まで、できる限りストレスなく、のびのびと育ってほしいという気持ちは人一倍強い。
「RICOH CowTalk」は、間違いなく、少子高齢化が加速する「これからの日本の畜産業」に必要なテクノロジーだ。多くの農家と、その“めんこい”牛たちに「24時間見守られて、健やかに育つ環境」を提供していく、その実用化を一刻も早くなしとげることが星氏をはじめとするリコーのフィールドデータ事業に関わるスタッフの決意だ。