デジタルマーケティングと顧客体験をテーマとしたアドビの年次カンファレンス「Adobe Summit 2019」が、 3月26日(現地時間)に米ラスベガスで開幕。企業のデジタルトランスフォーメーションを支える最新のプロダクトと、パートナー企業を交えた取り組みを披露した。
アドビはPhotoshopなどクリエイター向けの高機能ソフトウェアとクラウドサービスで知られるが、事業として大きく分けて3つのクラウドサービスを持っている。前出のPhotoshopなどはクリエイター向けの「Creative Cloud」、Acrobatなどで書類を扱う「Document Cloud」、そしてデジタルマーケティング領域の「Experience Cloud」だ。
Adobe Summitは、この3つめのクラウド事業に関するイベントになる。同イベントは、2018年実績で全世界からおそよ1万3000人が参加した、非常に規模の大きいイベントの1つ。今年はさらに参加人数が増加しているという。
初日の基調講演に合わせ、シャンタヌ・ナラヤン会長、社長兼CEOは、マイクロソフト傘下のLinkedInとの連携強化など多くの発表や導入企業の事例を披露した。その中でもアドビにとって大きな意味を持つのは、同社のデジタルマーケティング事業を支えるクラウドプラットフォーム「Adobe Experience Platform」の一般提供を開始したことだ。
アドビのシャンタヌ・ナラヤン会長、社長兼CEO。
従来からアドビは、「Adobe Experience Cloud」という名のもとでデジタルマーケティングのさまざまなサービス(ソリューション)を提供してきたが、各サービスが保持しているデータは(連携はできるものの)いわば独立して存在していた。
今回、一般提供を開始する同Experience Platformは、概念としては同Experience Cloudの「下地」を支えるもので、今後は各サービスが保持する情報(データ)は完全に統合化され、顧客体験に必要となるバックオフィスデータなども統合し、ほぼシームレスに情報の共有と連携が可能になる。
この「データの統合化」のカテゴリーには、2018年に大型買収したばかりの2社、Marketo(マルケト、47億5000万ドル=約5240億円)や、Magento Commerce(マジェントコマース、16億8000万ドル=約1852億円)のサービスも含まれる。
Experience Cloudの概念図。大きく4カテゴリーのサービスがあり左から「アドバタイジング・クラウド」「アナリティクスクラウド」「マーケティングクラウド」「コマースクラウド」になっている。全サービスに通底して、アドビのAI「Sensei」が横断するほか、その下にExperience Platformが動き、データとして統合されている。
家電小売り大手ベストバイを復活させたデジタル変革
基調講演に登場したゲストは、いずれもデジタルトランスフォーメーションを推進する企業ばかりだ。そのなかで、日本の市場にも起こり得ることとして印象深かったのは、アメリカの家電小売り大手、BESTBUY(ベストバイ)のヒューバート・ジョリーCEOが語った「ベストバイの再生」だった。
左がBESTBUYのヒューバート・ジョリーCEO。アドビのナラヤンCEOとは11年来の関係だという。
ジョリーCEOが着任したのは2012年9月。当時を振り返り、ジョリーCEOは「7年前、私たちはもう少しで死ぬところでした」と、当時の深刻な状況に触れた。
当時、ジョリーCEOの着任直前の四半期決算で、ベストバイは店舗閉鎖などの悪要因で純利益が90%減少するという窮地にあった。「死ぬところだった」というのは大げさではない。
それから7年が経ったいま、ベストバイはまさに死の淵からよみがえった。株価は当時の18ドル前後から70ドル前後(3月22日時点)になり、米経済紙バロンズなどが選ぶ2018年の「持続可能性が最も高い米企業100社」において、ベストバイは首位に選ばれている。
その事業の立て直しと、成長のドライバーの柱の1つが、データに向き合い、データドリブンで組織を動かすデジタルトランスフォーメーションだ。「データとデジタル化が、私たちのトランスフォーメーションにとって初日から重要なものでした」とジョリーCEO。
7年前、ベストバイの売り上げの70%は店舗などの「アナログ売り上げ」だったが、いまベストバイは90%を「デジタル」(ECなど何らかのデジタル手段)で売り上げる。こうした状況で、販売機会を最大化して購買体験を豊かなものにするために、デジタルマーケティングの技術が活用されている。
例えば、いま、サイト内の検索にAIや機械学習(マシンラーニング)を取り入れ、ユーザーごとに表示を出し分けるパーソナライゼーションも当然使っている。ベストバイが取り入れているデジタルマーケティングの仕組みでは、ユーザーを判別する1万2000の属性があり、ユーザーに関するすべてのデータを1つのIDに集約しているという。
立て直し策の一環としてベストバイはレビューに力を入れてきた。このApple Watch Series 3はレビューが1万件に迫る。
これによって精度の高いターゲットマーケティング、メールマーケティングなどを可能にしている。例えば、顧客向けに出し分けるメールの内容は「4000万種類」あり、誰にどのくらいの頻度で送るのかも、すべてデータ分析により決定する。
データと向き合って、顧客体験を再定義することで、事業は店舗とECの「販売」のみならず、訪問型のライフスタイル提案「ホームアドバイザー」や、年間200ドルで家庭内のデジタルトラブルをサポートする「テックサポート」、グレートコール社の買収によって、高齢者宅の状況をAIで見守るヘルスケア領域にも進出している。
なお、アドビによると、ベストバイはソニー・インタラクティブエンタテインメントやホームデポ、米通信大手ベライゾンなどと並び、Adobe Experience Platformのベータ版をいち早く採用した企業であるという。
データが統合されるとデジタル体験の何が変わるのか
アドビのパートナーである、米シューズアパレル大手Foot Locker。スニーカー販売のデジタルトランスフォーメーションの例として、デモに協力した。
Adobe Experience Platformで「顧客データが統合化されることのインパクト」は、実現されるサービスを見ないと伝わりづらいかもしれない。基調講演で行われたスニーカー販売のAR体験デモは、Adobe Experience Platform上で展開されるExperience Cloudのメリットをうまく表現したものになっていた。
Foot Lockerのデモでは、まず、スマホをスニーカーの展示台に向けてかざす。すると、過去の購買情報などからユーザーの属性を認識し、続いて展示されたたくさんのスニーカーから、あらかじめ「お気に入り」に登録しておいたシューズの「実物」を認識して、知らせてくれる。自分で探す必要はない。
さらに、気に入ったら「この在庫ありますか?」と店員に聞くのが普通だが、このシステムではそれも不要だ。店舗の在庫管理データベースと紐づくことで、「どのカラーで、どのサイズのスニーカーの在庫が、リアルタイムでいくつ残っているのか」まで、ARアプリに映った実物のスニーカーの上に表示されるからだ。
Adobe Summit 2019の基調講演アーカイブ動画より。男性が手にしたスマホに映っているのが左の画面。シューズを認識して、指定サイズの在庫があるものだけを強調表示する。
このシームレスな体験の裏には複数のAdobe Experience Cloudのサービスが連動している。
- Foot LockerのARアプリが「ユーザーの顧客情報」を認識して呼び出していること
- 認識した顧客情報をもとに、SenseiのAIがユーザーの属性認識を行うこと
- コマースクラウドと連動して、店舗の在庫情報をリアルタイムに抽出すること
といった具合だ。
それぞれ、別々のサービスの情報や機能が、Experience Platform上で統合されていることで実現される体験、ということになる。
これまでも同様の体験はつくろうと思えば可能だが、データが統合されることで、実現が容易になったり、AIを使った分析や発見、そして学習のレベルがより「深く」なる。企業にとっては、よりよいユーザー体験のためのコンテンツ配信をさらにスピーディーに提供できるようになる、ともいえる。
「デジタル変革は簡単ではないが、報いはある」
基調講演の最後、シャンタヌ・ナラヤン会長は「デジタルトランスフォーメーションは簡単ではないが、報いはある」と語った。ITの歴史を知っている人なら、この発言に一定の重みを感じるはずだ。ほかならぬアドビ自身が、ボックス売りのソフトウェアビジネスから脱し、サブスクリプション型のクラウドビジネスへと大幅な転換を決断して、見事に成功させた数少ない企業の1社だからだ。
Adobe Summit 2019の2日目の基調講演には、マイクロソフトのサティア・ナデラCEOらが登壇する。26日~28日の会期を通じて、さまざまな新しい発表や技術の展示が行われる予定だ。
(文、写真・伊藤有)