それでも円高にならないのはなぜか?「売った円が戻ってこなくなった」理由

日本円、米ドル…。

アメリカの年内の利下げを織り込む見方も出ているのに、円高が進まない。何が起きているのか?

Bloomberg Creative Photos /Getty Images

米連邦準備制度理事会(FRB)が従前の「正常化路線」を急旋回させ、年内の利下げを織り込む向きまで出始めているにもかかわらず、ドル/円相場の水準が切り下がってこない。

その理由は1つではないだろうが、有力な仮説としては、過去10年弱における対外直接投資(外国法人への資本参加や現地法人の設立など)の流れが影響している疑いは強い。

相次ぐ海外企業の買収

武田薬品工業のクリストフ・ウェバー社長。

2018年5月9日、アイルランド製薬大手シャイアーの買収について、記者会見で説明する武田薬品工業のクリストフ・ウェバー社長。買収額は日本企業として過去最大の6兆円規模。このところ日本勢による海外企業の買収が活発だ。

REUTERS/Kim Kyung-Hoon

日本の対外純資産(日本の政府や企業、個人が海外に保有する資産から、海外に対する日本の債務を差し引いたもの)は2017年まで27年連続で世界最大だが、その構成比を見ると44.5%が対外直接投資残高となっている。日本企業による旺盛な海外企業買収の結果である。

一方、米国債を主軸とする証券投資残高は26.1%だ。両者の比率は2000年にはそれぞれ19.7%と36.5%だったので、完全に逆転している。

リスクオフ(リスク回避)ムードに見舞われた際、日本円を外貨に換えて買った株式や債券といった有価証券ならば円に戻す流れも出やすいだろうが、買収した海外企業を手放す企業はないだろう。

対外純資産の豊富さは不変でも、「売った円が戻ってこない」状況が定着している疑いがある。

「円の買い切り」減らした構造変化とは

【図表1】

【図表1】

対外純資産は毎年の経常収支が積み上がった「結果」である。ゆえに、「原因」となる経常収支の構造も変化している。

対外直接投資が本格的に増え始めたのは2011年前後だが、経常収支【図表1】は、その頃から財収支(いわゆる貿易収支)の黒字が消滅し、直接投資や証券投資による収益などを示す「第1次所得収支」の黒字が主体となっている。

経済学者のクローサーがかつて提唱した国際収支発展段階説に基づけば【図表2】、本格的に「未成熟の債権国」から「成熟した債権国」への階段を昇り始めたと言えるだろう。

【図表2】

【図表2】

【図表1】から分かるように、金融危機前の10年間(1999~2008年)とその後の10年間(2009~2018年)で経常黒字の水準に大きな変化はない。

10年平均で見ると、危機前は約16.7兆円、危機後は約13.5兆円である。この間、財貿易の黒字額は約10.9兆円から約1840億円へ激減している。

片や、第1次所得収支の黒字は約11.2兆円から約17.3兆円へはっきり増加している。

訪日外国人(インバウンド)の隆盛などに伴ってサービス収支赤字が約4.4兆円から約2.4兆円へ半減したことも経常黒字の押し上げ要因だが、基本的には「貿易で黒字を出せなくなった分、過去の投資の『あがり』としての第1次所得収支黒字が増えた」というのが、近年の変化の要諦である。

外貨で得た収益を日本円に変える「円の買い切り」が確実に見込まれる貿易収支の黒字が減り、必ずしもそうとは限らない第1次所得収支の黒字が増えた、という事実関係になる。

貿易黒字よりも直接投資収益が重要に

米財務省。

米財務省が発行する米国債は、日本の対外純資産の中で重要な位置を占め続けている。

Thisisdavid88/Getty Images

第1次所得収支は、基本的には投資収益がそのほとんどだ。そして投資収益は証券投資収益と直接投資収益に分かれる。

両者の構成比について見たものが【図表3】である。2000年には証券投資収益が66.5%、直接投資収益が23.3%だったものが、2018年はそれぞれ47.3%と48.2%と概ね対等になっている(両者の構成比は2018年に初めて逆転している)。

【図表3】

【図表3】

人口動態や企業収益の状況、法人税や電気料金などのコスト環境、硬直的な雇用規制などを踏まえれば、近い将来に日本企業による対外直接投資(≒海外企業買収)の意欲が衰える道理はなく、直接投資の構成比が証券投資のそれを引き離しにいく展開を想定したい。

ここまでをまとめれば、日本の経常収支の構造は「貿易黒字から第1次所得収支黒字へ。その中でも証券投資収益から直接投資収益へ」と変化している、という話になる。

外貨のまま海外で積み上がる資産

輸出される日本製の自動車。

輸出企業は稼いだ外貨を円に換える必要があるため、貿易黒字は円買い・外貨売り圧力に直結する。

REUTERS/Toru Hanai

こうした構造変化は円相場にどのような影響を持ち得るのか。

貿易黒字であれば輸出企業は稼いだ外貨を円に換える必要があるため、円買い・外貨売り圧力に直結する。

こうした取引はアウトライト(買い切り、売り切り)取引と呼ばれ、そのボリュームもさることながら、これに追随しようとする投資家・投機家の存在から、為替相場の方向感を形成しやすいと考えられている。

しかし、第1次所得収支黒字の場合、為替需給に与える経路は貿易黒字ほど単純ではない。

例えば証券投資収益は配当金と債券利子に分かれるが、実態としては約80~90%が債券利子である。このような取引は、黒字が記帳された段階ではまだ外貨であるという点が重要だ。

例えば、日本人投資家Aが保有している米国債から利子収入を受け取る場合、海外口座に入金された段階で第1次所得収支上の「黒字」が記帳される。受け取った利子はそのまま再投資されるとすれば(一部投資家の例を除けば、そうしたケースは通常多いと推測される)、円買い・外貨売り取引はほぼ期待できない。

一方、直接投資収益の中身は配当金・配分済支店収益(海外支店の収益のうち日本の本社に送金されたもの)、再投資収益、利子所得に分かれる。2018年は配当金・配分済支店収益が45.4%、再投資収益が53.2%と分け合う格好である。

この両者の大小関係は過去からそれほど変わっているわけではないが、配当金・配分済支店収益は実際に本国へ送金されたものであるの対し、再投資収益は送金されずに海外の現地法人の内部留保などとして積み立てられたものである。

つまり、直接投資収益の約半分についても円買い・外貨売り取引は期待できない。

「円は安全資産ではない」という新説?

為替ディーラー。

日本の経常収支の構造が変わり、黒字がかさんでも円高につながりにくくなっている。

REUTERS/Issei Kato

以上の議論をまとめると、第1次所得収支黒字のうち、証券投資収益の債券利子部分に相当する約80%、直接投資収益の再投資収益に相当する約50%については性質上、円買い・外貨売りの取引が発生しない可能性がある。

実際の金額で見てみよう。2018年の第1次所得収支の黒字は約20.8兆円だが、再投資収益を除くと約15.5兆円、再投資収益と債券利子を除くと約6.5兆円まで減少する【図表4】。

【図表4】

【図表4】

債券利子の全てが再投資されることはないだろうから、実際の黒字額はもっと多いのかもしれない。しかし、例えば2007年の経常黒字は過去最大の約24.9兆円であったが、このうち貿易黒字は約14.2兆円もあった。仮に、当時の第1次所得収支黒字(約16.5兆円)の3分の1程度しか円買い・外貨売りの取引が生じなかったとしても、経常黒字からは20兆円程度の円買い・外貨売りフローが見込める計算になる。これは十分に大きな額だ。

しかし、現状では貿易黒字がほぼ消滅し、経常黒字と第1次所得収支黒字がほぼ等価である。今の日本の経常収支は、やはり「実需なき黒字」の色彩が濃くなっているように思われる。

歴史的に、円相場に関しては「投機の円安、実需の円高」と評されることが多かった。円安が根付く局面というのは、日米金利差が拡大し、日本人(機関投資家)の円売りや海外勢のキャリー取引(金利の低い円で資金調達し、金利の高い外貨に換えて運用して利ザヤを稼ぐ手法)が盛り上がる時だとされてきた。

その裏側で、不況に転じると機関投資家や海外勢もリスク許容度が低くなり(円売り外貨買いの)ポジションを巻き戻すので、円高に振れやすいことも指摘されてきた。だが、もはや実需の次元でも円高を見込みにくい構造になりつつあるのだとすれば、そうした通説も再考すべきなのかもしれない。

近年、「もうリスクオフの円高はない」、「円は安全資産ではない」などの新説が指摘される背景にはこうした事情があろう。

円売り・ドル買いの「巻き戻し」リスクは消えない

FRBのパウエル議長。

パウエル議長(右)率いるFRBが実際に利下げに踏み込めば、これまでの「円売り・ドル買い」は相応に巻き戻される余地があるはずだ。

REUTERS/Carlos Barria

しかしながら、アメリカ経済が本格的なリセッション(景気後退局面)に入ったわけでもなく、FRBが緩和路線に逆戻りしたわけでもない現段階で、そのような新説をうたうのは尚早だと筆者は考える。

FRBが利下げに踏み込んだ場合、金利差拡大を当て込んで増えてきた日本の機関投資家の円売り・ドル買いは、相応に巻き戻される余地があるはずだ。

それは海外勢においても同じだろう。例えばIMM通貨先物取引を見ると、FRBが正常化プロセスに着手した2013年以降、投機筋の円持ち高は基本的に売り超過が続いている。

しかし、新興国を中心とする世界経済の減速やイギリスの欧州連合(EU)離脱方針決定などが重なった2016年上半期はそうしたポジションの解消が進み、円買い超過へ振れた。

この間、ドル/円相場は120円から99円まで急落したことはまだ為替市場参加者の記憶に新しい。悲観ムードに支配された時、為替市場では円高が盛り上がるという性質が垣間見られた局面であったと考えられる。

今後もそのような展開はやはり否定できまい。経常黒字の「稼ぎ方」が変わったとはいえ、「世界最大の対外純資産国」という事実が変わったわけではない。その事実自体は安全資産としての円への需要を保証するはずだ。

経常収支の構造的な変化を背景に、「実需の円買い」が発生しづらくなっていることは重要な事実である。だが、それは「円高になりにくい理由」にはなっても「円安を主導する理由」ではない。

「新説」に少しずつ思索を巡らせる過渡期に我々は差し掛かっている可能性は高いが、既存の通説を捨て去るほどの円高を招来するような悲観局面はまだ訪れてない、という認識は持っておきたい。

※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。


唐鎌大輔:慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)国際為替部でチーフマーケット・エコノミストを務める。

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