見た目は、単なる空っぽのペットボトルとポップな絵柄のレジャーシート。これが世界初の「CPR(心肺蘇生)訓練キット」として人命救助の現場で威力を発揮するという。
企業、学校、スポーツチームなどの研修で使われているCPR(心肺蘇生)訓練キット。
撮影:今村拓馬
開発した一般社団法人ファストエイド(東京都文京区)が目指すのは、キットによる日常的な訓練の普及により、市民の誰もが気軽に「たすける手」となれる社会。4月11日からは、ReadyforでCPRトレーニングボトルの普及に向けたクラウドファンディングを開始した。
ペットボトルのゴミが人命救助に
年間7万5000件も発生し、誰にでも起きる可能性のある突然の心停止。この社会課題を前に、ファストエイド代表理事の玄正慎(げんしょう・まこと)さん(38)が力を注ぐのがこのペットボトルとシートという訓練キットの普及だ。
開発でこだわったのは、ゴミになる手前の空容器で「もうワンアクション」という手軽さだ。
日本は、世界有数のAED(自動体外式除細動器)普及国でありながら、突然の心停止で亡くなる人が毎日200人いる。
倒れている人を見かけてから119番通報するまでに平均約3分、救急車到着までに約8.5分かかっている。心停止は何もしなければ、1分経過するごとに7~10%ずつ救命率が落ちていく。倒れた人を見つけたら、胸を強く一定のリズム押すCPR(心臓マッサージ、胸骨圧迫)をするだけで救命率が2.5倍になる。
「だからこそ、救急隊員が到着するまでの10分間を“つなぐ人”が重要なんです。一つは情報をつなぐこと。119番通報と同時にAEDを持ってきてもらう、救命の有資格者を呼んでくるという方法もある。これは、僕がCoaidoという会社でアプリ「Coaido119」をつくって実現しています。
もう一つは実際に心臓マッサージを行って救急隊員に引き継ぐこと。心臓マッサージはちょっと覚えればできる。誰もが“つなぐ人”になれば、いざというときものすごく助かるなと」(玄正さん)
米シアトル市では60%超の救命率があり、救命講習を受講した市民が救急活動に協力しているという。
救命救急に最も必要な行動指針に「チェーン・オブ・サバイバル(救命の連鎖)」がある。
救急隊、病院での処置へとつなげる4つの輪(アクション)で救命率を高める。真ん中の「早期認識と通報」「早い心肺蘇生とAED」という2つの輪の担い手は、居合わせた市民だ。
2つの輪を大きくするには、情報をつなぎ、行動につなげるための予備知識と日常的な訓練が欠かせない。
日本で心停止後の救命率が低迷しているボトルネックは、「CPR訓練の機会が限られていること」だと、玄正さんは指摘する。
従来使われている訓練用の人形は、数万円もするものが多い。だったら、と2017年にペットボトルを生かしたキットを考案。改良を重ね、救命の有資格者とともにキットを使った講習活動を展開してきた。企業、学校、スポーツチームなどで実施された講座の受講者は、1000人を超えている。
AEDも知らない素人だから気づけた
ファストエイド代表理事でCoaido CEOの玄正慎さん。
撮影:今村拓馬
玄正さんがユニークなのは、医療の枠組みにとらわれない自由な発想力だ。
もともとはアプリのプランナー。2013年にハッカソンに参加したときは、痴漢撃退のアプリを作ろうと思っていた。ハッカソンの初日に偶然、帰りの電車で人が倒れたのを見て救急救命アプリの開発に転向。それが「Coaido119」のアプリにつながり、今回の簡易版CPR訓練の普及事業に乗り出す発端にもなった。
医療はど素人で、「AEDって何?からスタートしました」(玄正さん)。素人思考の真骨頂が、ペットボトルを使うというアイデア。
ファストエイド、Coaidoともに右腕として携わる小澤貴裕さん(45)は、消防隊・救急隊として10年活動した救急救命士だが、当初、玄正さんから、プロジェクトの構想を打ち明けられたとき、そのアイデアの奇抜さにぶっ飛んだという。
「ペットボトルでもCPR訓練はできると真顔で言われたとき、『いや、さすがにないでしょ』と思いました。通常、訓練用の人形は安くても5000円ほどする。高度で専門的なものなら10万円近いコストがかかる。それをゴミになるペットボトルで代用なんて、できっこないと。
でも、いざ実験で本気で容器をいろいろ押して試してみたら、一部の容器は感触が救急現場で生身の人にCPRしたときとあまりに似ていて、ドキッとしたくらいです。『え? こんなちっぽけな容器なのに、50〜60キロの負荷がちゃんとかけられる。これならいける!』と確信した瞬間です」(小澤さん)
検査データの見える化が信頼に
CPR時に胸を圧迫し、減圧するのに、最適な変形特性があったのは、サントリーの天然水のボトル。
撮影:今村拓馬
従来の訓練用の人形と同じようにペットボトルが使えるのか。人命がかかっているだけに、長野県にある精密測定会社と共同で精密な比較計測を行った。小澤さんによれば、体重をかけて胸を圧迫した後、押しやった血流が戻ってくるための「戻す動き(素早く体重を抜く)」が重要なのだという。
何十種類もの容器で実験したところ、「サントリーの天然水」の容器が訓練用に最適だとわかった。極薄でちゃんと凹むのに、リブが入っていて強度があるため、「戻り」もいいからだ。この計測により、地面からペットボトルのキャップを2つ合わせた高さ(4.2センチ、荷重60kgf)まで荷重をかけるのが訓練に最適だと割り出せた。
ペットボトルの強度と形状(同じ銘柄なら同一)、押し込む深さが特定できてしまえば、全国一律どこででも同じ条件で訓練ができる。
検査データの「見える化」により訓練の信頼性が増し、救命救急を行う医療現場からも訓練キットに関する問い合わせが舞い込むようになった。
訓練に使えそうな容器の対象は、今後徐々に他の飲料メーカーのものにも広げていく予定だ。
数字の裏側まで読むすごみ
ファストエイド代表理事、Coaido COOの小澤貴裕さん(45)は、玄正さんの右腕として携わる。
撮影:今村拓馬
小澤さんは言う。
「僕が玄正さんと組もうと思ったのは、消防職員よりも救急のデータを知っていたから。消防庁の統計と県別のAEDの設置数を組み合わせて分析していて、『それ、どこに出ていたの?』と聞いたら、自分で計算して割り出したと。数字の裏側まで読んでいるところにすごみを感じて、いっしょにやりたいと思ったんです」
ペットボトルとシートという、講習を受けた後にも持ち帰りができるキットを構想したのは、冷静にデータを俯瞰して既存にないものを考え出す、玄正さんならではの発想だった。
玄正さんが「誰でも、いつでもできる訓練」にこだわるのは、心停止で倒れる場所のほとんどが家だというデータがあるからだ。7割の人が家で倒れ、その場合の救命率は3%と極端に低い。
「路上と違って家には家族しかいないし、叫んでもなかなか人は来てくれない。家族が対応できなかったら助からない確率が高い。家族全員が緊急時の対応のことを知っていないと安心できないですよね」
市民の担い手を増やし、オリンピックレガシーを残す
ペットボトルを用いた心肺蘇生の様子。
撮影:今村拓馬
日本が救命救急の課題にぶつかるのが2020年の東京オリンピック・パラリンピックだと玄正さんは指摘する。期間中、東京とその周辺に国内外から人が集中するからだ。
もともと、東京は119番通報から救急車が到着するまでに10.7分と全国平均よりも時間がかかる。オリ・パラ時期は真夏で救急搬送される人が増えることが予測される。救急医療体制のパンクにより、本来なら助かるべき人が助からない状態は避けたいという。
玄正さんは、オリ・パラでボランティアで関わる人にも緊急時の対応を覚えてもらう手立ての一つとして、キットの普及を目指している。そのためのクラウドファンディングも立ち上げた(5月31日まで)。5月18日11時からは、豊島区の・池袋のグリーン大通りでDJが繰り出す音楽に合わせて訓練する市民イベントも予定している。
東京五輪に向けて、市民の共助の輪の広がりを目指す。
撮影:今村拓馬
「救命救急が破綻しかねないという問題は、会場にいない一般の都民や、他の地域にも波及する可能性がある。それまでにたくさんの市民が心肺蘇生にまつわる知識を持ち、救急対応ができる体制を作っておきたい。
世界中の人、政府関係者が来訪するオリ・パラで、日本の市民がこういった活動を熱心にやっていると知られたら、それこそがオリンピックレガシーになる。素早く共助の輪がつながる社会が実現できれば、その後ずっと使える公共財にもなると思っています」
(文・古川雅子、写真・今村拓馬)