近年、グローバル企業が「エンプロイー・エクスペリエンス」へと投資し始めています。その代表例として挙げられるのが、「働きがいのある企業ランキング」で上位にランクインし続けているセールスフォース・ドットコム(以下、Salesforce)です。「いまからエンプロイー・エクスペリエンスに投資しなければ、10年20年先はもっと深刻な人材不足に陥り、投資しない企業は淘汰される」と指摘するのは、Salesforceで常務執行役員人事本部長を務める鈴木雅則さん。そもそもエンプロイー・エクスペリエンスとはどういった概念で、企業にどんな影響をもたらすのか——。実際にSalesforceで行われている施策をもとに、その方法やマネジャーの取るべきアクションについて伺います。
鈴木雅則:株式会社セールスフォース・ドットコム常務執行役員人事本部長
米・コーネル大学大学院 人材マネジメント・組織行動学修士。GEとグーグルで採用やリーダーシップ開発業務などに携わる。グーグルでは、日本における新卒採用の立ち上げ及びアジア太平洋地域のリーダーシッププログラムの企画・実施を担当する。2011年、人事コンサルタントとして独立し、主に日本企業に対してリーダーシップ研修や人事コンサルティングを実施。2012年『リーダーは弱みを見せろ―GE、グーグル 最強のリーダーシップ』執筆。その後、QVCジャパン、ビー・エム・ダブリューを経て、2019年より現職。
入社前から退職後まで、社員の成功体験をデザイン
——ここ2、3年で「エンプロイー・エクスペリエンス」という言葉をよく聞くようになってきました。そもそも、エンプロイー・エクスペリエンスとはどういった概念なのでしょうか。
これまで、それに類する言葉として「エンプロイー・エンゲージメント」が使われてきたと思います。福利厚生を充実させたり、社内イベントを開催したりするなどして、エンプロイー・エンゲージメントを高める施策が行われてきました。社内で飲み会や運動会を開いたり、チームビルディングを行ったり、社食を充実させたりといったようなことです。もちろんこれはこれで、決してネガティブなわけではありません。ただ、持続可能性を考えると、ある意味、一過性のエンゲージメントになってしまうのではないか、といった懸念もありました。
一方、「エンプロイー・エクスペリエンス(従業員体験。以下、EX)」は、「ユーザー・エクスペリエンス(UX)」と言われるように、マーケティングの概念から派生してきたもの。例えば「カスタマー・ジャーニー」は、顧客になる前からどんな人かをターゲティングして、その人にプロダクトやブランドのファンになってもらい、どういった体験をしてもらうかを考えることが重要です。それと同様に、「エンプロイー・ジャーニー」を描き、入社前からオンボーディングをして、どういった体制でサポートして、どんなテクノロジーを活用して、どんな社員体験をしてもらうか、そして、「エンプロイー・サクセス」を目指すのが、EXにおける基本的な考え方です。当社の人事部の名前も「エンプロイー・サクセス」と呼ばれています。
——なぜいま、EXが注目されているのでしょうか。
いまやOpenWork(旧・Vorkers)やGlassdoorといった企業口コミサイトで、企業で働く社員がどんな仕事をしてどんな環境で働いているか、何が起こっているのか、外部にも分かるようになっています。当社は「働きがいのある企業ランキング」で去年は第1位、今年は第2位というすばらしいご評価をいただきましたが、人事施策が機能しているかどうか、実際に口コミなどをチェックすることで常に意識しています。そうやって透明化が進んでいくのが必然的な流れとなっています。
やはり働きがいを感じられるかどうかは、職務設計や社内の人間関係が重要ですし、究極的には、自分自身が「やりたい」と思った仕事を、ある程度の自由を担保されながら進めていくことが、結果的に自分自身の成長となり、自己効力感にもつながる。
逆にいえば、どんなに楽しく仕事をしても成果につながらなければ、エンプロイー・サクセスとはならないし、それは会社にとっても望むことではありません。ですから、会社のカルチャーに合った人が入社して、適切な仕事をして成長していけるような環境整備と、それに報いるような報酬といった衛生要因を満たしていく。そのために重要なのがEXなのです。
——先ほど「エンプロイー・ジャーニー」という言葉がありましたが、具体的にどのようなことでしょうか。
エンプロイー・ジャーニーとは、社員が働いていく中で直面するイベントや経験、昇進・異動などを踏まえて、段階的にステージを切り分け、それぞれのステージでどんな体験が必要で、どんな感情を社員に持ってほしいかを事前に考えておくことです。そして、その体験がEXにあたります。
セールスフォースが描く「エンプロイー・ジャーニー」
エンプロイー・ジャーニーは入社前から始まります。当社の採用面接を受ける人がどんなイメージを抱いているかはブランディングの領域でもありますが、採用プロセスで得た気づきや体験が良いものとなり、入社が決まった人にとっては、なるべく実際に働く体験とイメージに乖離がないように、残念ながら入社が決まらなかった人でも、また他のポストがあれば受けてみよう、プロダクトを使ってみようと思えるような体験となるのがEXとしては理想的です。
そして入社してから90日間行うオンボーディングを始め、日常やそれぞれのステージで、「自分の意思決定(入社したこと)は間違いではなかった」と実感できるような体験を提供していきます。例えば、入社3年目、5年目など節目の機会に、会社からアニバーサリーメッセージが届くような仕組みがあります。
そして残念ながら、仮に退職したとしても、「また機会があれば戻ってきたい」と思ってもらえることが私たちの目標でもあります。
——EXを高めることで何か定量的な効果は出ていますか。
先ほどご紹介した通り「働きがいのある会社ランキング」へのランクインもそうですし、エンゲージメント指標としては、サーベイで「仕事を成し遂げるためには求められる以上の努力をする」と回答した社員は96%に上ります。「Salesforceを知り合いにもすすめたい」と回答した社員は87%ですし、現社員の紹介を通じて入社した新入社員は50%にも上るのです。自分自身が本当に働きたいと思える職場でなければ、知人を紹介しようとは思わないのではないでしょうか。
カルチャー&テクノロジーでエンプロイー・エクスペリエンスを向上
——オンボーディングでは具体的にどういったことを行うのですか。オンボーディングでは、カルチャーやコアバリューの理解にかなりの時間を割きます。もちろん私もオンボーディングを受けたのですが、導入研修の最後には必ず、「Becoming Salesforce」というボランティア活動が組み込まれています。また先日、グローバル人事リーダーが世界中からサンフランシスコ本社に集まる会議があった際にも、その会議が始まる前、会議参加者全員で恵まれない家庭に食品を届けるボランティアに参加しました。
参加してみると分かりますが、このような活動に参加すると社会貢献につながるだけでなく、チームビルディングにもなりますし、なにより幸せな気持ちになります。確かに、社会貢献ほど人を幸せにするものはないのかもしれません。
当社には創業当初から「1-1-1モデル」といって、社員のボランティア活動、NPOへの製品寄贈や割引、助成金の3つの形で社会貢献を行うという理念があるのです。
それから、どんな職種でも自社製品をみっちり1週間学ぶ機会があることも当社のオンボーディングの特徴です。私もさまざまな企業で人事のプロとして働いてきましたが、これほどしっかり自社製品について学んだことはこれまでありませんでした。
その際、テクノロジー、データも大いに活用します。「トレイルヘッド(TRAILHEAD)」というeラーニングプラットフォームを活用し、個別やチーム別に必要なトレーニングを行います。どうしても新入社員研修というと、「座学で2時間かけて知識を詰め込む」みたいな感じでしたが、トレイルヘッドを活用すれば、スマホやPCでいつでもどこでも学習したいときに学習できます。しかもゲーム感覚で一つひとつの単元を完了するとバッジがもらえ、ポイントが増えていくんです。また、いくつかのトレーニングを組み合わせることも可能ですし、自分の興味のある分野を自由に学習することも可能です。
「トレイルヘッド」
——顧客向けに提供されている学習支援ツールをそのまま自社でも活用しているんですね。
トレイルヘッドは当社がお客さまに提供している学習支援ツールですが、自社でも活用しています。また、先ほどのアニバーサリーメールも当社の製品である「Salesforce Marketing Cloud」を活用したものです。ジャーニーメールといって、採用から1年半までの間に適切なタイミングで適切な情報を送る仕組みもあります。開封率は90%を超えていて、それまで何かと人事担当へさまざまな問い合わせが来ていたのが、社員が自主的に理解できてるようになって、実際に問い合わせが減っています。
それに、ボランティア活動用に「ボランティアフォース」という社内向けアプリがあって、今後のボランティア活動予定をチェックしたり、これまで何時間ボランティア活動を行ってきたか進捗確認したりできます。年間の目標値に対して、「学生に対するキャリア相談を2時間行い、合計25時間ボランティア活動に参加しました」といったふうに記録されるようになっています。
「ボランティアフォース」
——ボランティア活動もしっかり人事考課に反映されるんですね。
根底にある考え方はハワイ語の「Ohana=家族」というカルチャーです。お客さまも社員もパートナーもコミュニティの人たちもみんな家族であるという考えです。
シリコンバレーにあるIT企業の多くが、とても立派なカフェテリアを社内に整備していることが多いですが、実は当社にはそれがありません。社食が充実していると、オフィスの外へ出る必要がありません。それより当社では、昼休みにお弁当を買いに行ったりレストランに行ったりして、地域に還元することでコミュニティが発展していくことを望んでいるのです。
また、本社タワーの最上階には「Ohanaフロア」といって、空いている時間は地元のNPO団体が自由に使うことができます。自分たちのファシリティを地域にも解放して、そこでまた交流が生まれる。1年のうち7日間はボランティア休暇を取ることもできますし、ある意味社員には全人格的な成長が求められていると言えるかもしれません。それによってエンプロイー・エンゲージメントも上がるのです。
ボランティアの様子
——EXの質を高めるには、カルチャーとテクノロジー、データの活用が重要だとおっしゃっていましたが、特にテクノロジーやデータをうまく活用している印象を受けます。
やはり当社はテクノロジー企業なので、データやソフトウェアを最大限に活用することがベースとなっています。
信頼関係を構築するためには、あらゆる情報を可視化することが重要です。例えば、定期的に行うエンプロイー・サーベイについては、全世界の拠点にいる5人以上の部下を持ったマネジャーに関するデータがすべて公開されていて、誰がマネジャーとして良い結果を残しているのか、分かるようになっています。
そして、毎年2月頭に行われるキックオフミーティングでは会社の方向性や目標値が発表され、それがオンライン中継され、録画でいつでも観られるようになっています。すると、何のためにこの目標を目指すのか、今年何をすべきなのか、納得したうえで仕事に取り組むことができる。全世界の社員がきちんとその背景を理解し、個人の目標設定と照らし合わせることができるため、「やらされ感」が起こりにくいのです。これもEXを高めるためには重要なことです。
——テクノロジーによって徹底的に情報を可視化しているんですね。
それと、社内向けに「コンシェルジュ」というアプリがあって、経費精算の方法とかモバイルの設定の仕方とか、検索すると質問に対応する記事が出てくるようになっています。新入社員がつまずきそうなことは、たいていの場合、過去に誰かが質問しています。そして、記事が役立ったかどうか、フィードバックすることができるので、どんどん検索の精度も上がっていきます。
——社内向けのFAQがあれば、初歩的な質問はほとんどフォローすることができるでしょうし、人事担当者の業務も軽減されそうですね。
結果的に新入社員だけでなく既存社員のEXも良くなるんですよね。「誰に聞いたら良いか分からない」とか「質問をたらい回しされてしまった」といったこともなくなりますし、人事はもっと本質的な業務に専念することができる。
私自身、本当に感心しているのですが、まさにマーケターの発想です。伝統的な人事の考え方では、なかなかこういったアイデアは出てきません。ユーザー・エクスペリエンスをいかに高めて、カスタマーサクセスを導くか。それと同じように、社員に対してもEXを提供する、ということなのです。
顧客と同じ質の体験を社員にも提供できているか?
——こうして話を伺っていると、そもそもこれまで社内で蓄積されてきた膨大なデータがあること、そしてカスタマーサクセスやeラーニングなど、自社製品の設計開発や考え方をそのまま社員にも適用できるからこそ、ハイレベルなEXを実現できている気がします。なかなか他の企業が一朝一夕にできることではないのかも、と思えてしまうのですが、どんなことから始めればいいのでしょうか…?
確かに、テクノロジーの部分ではなかなかすぐにできることではないかもしれませんが、カルチャーの部分ではできることもあると思います。お客さまのため、カスタマーサクセスのため、と熱心に投資し、施策を行っている企業は多いですが、果たしてそのレベルに匹敵するくらい、社員に投資している企業があるかどうかと考えると、なかなか厳しいものがあると思います。
ある意味、発想の転換が必要なのかもしれませんが、お客さまを大切にしている一方、社員に対してどれだけの体験を提供できているのかという事実を客観的に直視する、ということ。そのためのツールは、OpenWorkやGlassdoorなどすでに存在しています。そこでマイナスなことが書かれるようでは、やはり問題があるということになります。いまや人手不足で、どの企業も採用に苦労していますが、10年20年先はもっと深刻なものとなると考えています。
——そのなかでマネジャーが何かできることがあれば、どういったことでしょうか。
社員の転職理由として、さまざまなものが挙げられますが、本音では「上司と合わないから」というのが多いのではないでしょうか。そういう意味では、やはり透明性を高めるのがもっとも重要なことだと思います。エンプロイー・サーベイや目標管理などあらゆる情報をオープンにして、企業と社員、マネジャーとメンバーとの関係性をフェアにして、いかにより良くしていこうかとともに考える。そうでなければこれからの時代、企業は淘汰されていってしまうでしょう。ソーシャルではどんどんオープンになっているのに、社内がブラックボックス化してしまうのは、明らかに時代と逆行するということになります。
そもそもSalesforceの製品自体、顧客を大切にして、顧客の成功体験をサポートするという思想で生まれているものです。ビジネスモデル的にも売り切り型ではなく、サブスクリプション型のSaaSで使い続けていただくものですから、顧客と関係性を継続していくことが前提にあります。ですから、パートナーに対してもコミュニティに対しても社員に対しても、同じような考え方で関係性を築いているのです。
企業はある種、社会を変えるプラットフォームでもあります。ですから、私たちSalesforceだけが成功し、Salesforceの社員だけが幸せになっても意味がありません。社会を変えるには、やはり、顧客も成功できるようにサポートし、そのためにEXの質を上げていくことが必要なのです。
(取材・文、大矢幸世、企画・編集、岡徳之、撮影・伊藤圭 )
"未来を変える"プロジェクトから転載(2019年8月1日公開の記事)