撮影:今村拓馬
結婚式でご挨拶される方に伝えたい
「働く旦那を奥さんがサポートせよ」というトンチンカン発言は本当にやめてほしい
多様性が叫ばれる今、家族にも色んな形があって共働きや男性が主婦の家もある
「休日、旦那の接待ゴルフを認めろ」?もうやめてくれないかな
参加者には、働くママもいる
あなたは、このTweetを見て、どんな感想を持ちますか。
私は先週、結婚披露宴を行なった。会自体は夫婦の趣味や好みを取り入れた、私たちらしい楽しい宴となった。しかし、会の最中に抱いたある出来事に対する違和感が、悲しみや怒りを包含したモヤモヤとなって心の中から消えていない。
また、参加者の中でも同じ思いを抱いた人がいると分かったことから、結婚式後、世に発信することを決めた。
それが、冒頭のTweetだ。
モヤモヤの原因は、新郎側の主賓の挨拶で、新婦だけが新郎のサポート役を求められたこと。さらに「乾杯のご発声」で「(新郎の)飲み会や休日の接待ゴルフを(新婦である)今日子さんが認めたら、乾杯しよう」という呼びかけだった。
その会では、冒頭のムービーから、私たちが共働きであることを紹介した。別のシーンで馴れ初めを伝える時にも、いわゆる“男女の役割”にとらわれず、家事も分担して送る生活を「これが私たち流」であると伝えた。
他の場面でも、私が夫と同じように働く人であると分かる場面は多々あった。あの会場で、私たちが共働きであるということは、誰しもが理解できただろう。
それでもなお、私にばかり来る要求に「なぜ私だけが」という気持ちになった。
受けて入れてもらえなかった家族の形
撮影:今村拓馬
私たちは、サポートし合いながら、生きている。披露宴では、それをしっかりとアピールしていた。
しかしながら、その場にいる全員が聞く主賓挨拶では、男女の型にはめようとしてくる発言が目立った。この晴れの日に、私たち夫婦の“家族の形”が、受け入れてもらえなかったという事実は、時間が経った今でも消えることはない。
また、結婚した女性は、その人が働いてようとも、“夫のサポート役”と言われてしまうことに、この日本で女性の地位が依然として低いと言われる社会課題の片鱗が見られた。
その思いを伝える手段として、Twitterを選んだつもりだ。
Tweetに込めた私の意図としては、これからそういった場でご挨拶される方に、現代はいろんな家族がおり、男性が働き、女性がサポートする、という前提の上で話を進めないでほしい、というものだった。
接待ゴルフに関しても、その間の子どもの面倒は女性1人で見ろと言うのだろうかと疑問に思った。夫はこの内容を知っており、発信することに対しては容認している。当然、この記事を出すことも、だ。
「Twitterでさらすのではなく直接本人に言えば」の指摘
buritora/Shutterstock
このTweetは、7400件以上のいいねがつき、2300件以上のリツイートをされたと同時に、多くの反対意見が寄せられた。
私が最も残念だったことは、その発信に対する反対意見の多くが、その内容の良し悪しとは関係がなかったことだ。期待していた女性の社会的地位の話とは無関係な方向へと展開してしまったことに、私の問題提起の仕方としては失敗だったと言わざるを得ない。
その反対意見とは「それをSNSで書くのはどうなのか」ということだった。
実際、この記事を掲載 している Business Insider Japan 編集部の中でも、新婦にばかり「内助の功」を押し付ける主賓挨拶自体は「時代錯誤 」だが、それを伝える手段としてTwitterが正しいものなのかどうか?という意見はあったという。「Twitterでさらすのではなく、直接本人に言えばいいのでは」という指摘だ。
確かに、その場にいた誰かが情報をリークすれば、誰がそういった発言をしたのかは、分かってしまう。また、リークはせずとも、この発信が発言した本人へ届いてしまうというリスクもある。発言者本人は特定していないものの、個人を責める形、「個人攻撃」になる可能性があることは否めない。
しかし、Twitter上でそういった主張をしている人の中には、私の名前や明らかに私と分かる呼び方で、私という個人を批判し、その賛同者を集め、自らもまた「個人攻撃を仕返ししている」のも事実だ。
では、個人攻撃合戦にならずに、世間に訴えていくためには、どうすべきだったのだろうか。
ひょっとすると、自分の結婚式で起きたことという新婦としての意見ではなく、あくまで第三者的に主張を展開すれば、個人を責める要素はなかったのかもしれない。しかし、新婦本人の生の声でなかったとすると、ここまで共感を得ることもまた、難しかったのではないだろうか。
休日返上で来ている人は何を言ってもいいの?
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また、 次に多い反対意見では、「休日返上で来ている人に対して失礼だ」という趣旨のものがあった。
しかし、考えてみてほしい。休日返上で来ていただいたからといって、大勢の人が耳にする挨拶で、どんな発言をしてもいいものなのだろうか。仮に、その方々が人種差別発言をしたとしても、 “来ていただいた人 ”だからと言って、容認しなければならないのだろうか。
そもそも、この主賓挨拶自体がいわゆるテンプレで、本人もそこまで意識しないまま発言したのだから、いちいち問題にするのはおかしい、という意見もあったが、これは看過できない。
いつの時代も、当たり前とされてきた文化や制度がある一方で、それに異を唱える人がいることで、見直され、改善され、より良い方向へと進んできたのではないだろうか。選挙に女性が参加できなかった時代も、「そういうものだから」と皆が受け入れてしまえばそれまでだ。
今回、当事者として声をあげた時に、多くの批判が来たことに対して、息苦しさを感じた。
Twitterは不正解だったのか?
撮影:今村拓馬
披露宴というせっかくの晴れの日だからこそ、新郎新婦本人はもちろん、参加者も、異を唱えづらいところがある。私自身、あの出来事はなかったことにして「楽しかったね!」で終わることもできた。
しかし、1990年代後半ですでに、全世帯のうち専業主婦世帯の数を共働き世帯の数が逆転し、共働き夫婦が年々増加している今。披露宴でかけられる言葉も、見直される時が来ているのではないだろうか。
それを世間に問いかける手段として、Twitterが正解だったのかどうかは、意見が別れるところではあったが、仮に正解でなかったとすれば、どんなことができただろうか。「つぶやき」にも「演説」にもなる140字を、あなたはどう見ますか。
(文・境野今日子)