香港の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官。9月17日の記者会見にて。
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香港の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、9月4日に「逃亡犯条例」改正案の完全撤回を発表した。しかし、香港でのデモ活動はまったく収束の気配を見せていない。
デモを行う民衆は「5つの要求」を掲げており、条例改正案の撤回はそのひとつにすぎない。ほかに、逮捕されたデモ参加者の訴追見送りや、警察の暴力に関する独立調査など、政府のデモ対応をめぐる3つの要求に加え、(行政長官選挙での)普通選挙の実施がある。
民衆の要求はこの普通選挙の実施に焦点が移ると考えていいだろう。
香港の市民が行政長官での普通選挙を要求するのは初めてではない。学生たちを中心に大きなうねりとなった「雨傘運動」(2014年)でも、行政長官選挙で民主派候補が事実上排除されたことを受け、市民たちは普通選挙の実現を求めて立ち上がった。
ただ、結果としてこの運動は成功せず、普通選挙への道は閉ざされたままだ。
デモ隊のターゲットは中国政府に
9月15日、香港の政府庁舎に火炎ビンを投げ入れるデモ参加者。
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林鄭行政長官による条例改正案の撤回直前、ロイター通信が興味深い録音テープを流している。
「もし自分に選択肢があるなら、まずは辞任し、深く謝罪することだ」
私的な会合での発言ということだが、録音は25分間にもおよび、さすがに別人のものとは考えられない。結局リーク元は不明のまま、長官本人が自分の発言だと後日認めた。
録音テープでは「行政長官は中国政府と香港市民という2人の主人に仕える身で、政治的に解決できる余地は非常に限られている」とも語られている。これは「(長官)自身も香港市民サイドにいる。決めるのはすべて中国だ」というメッセージと解釈できる。
この林鄭行政長官の発言を受けて、デモ隊のターゲットは中国政府に一本化されるだろう。
9月17日、香港警察はデモ隊に向けて青い染料入りの水を放射した。事後、デモ参加者を特定しやすくする狙いという。
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民衆のデモは、すでに3カ月にも及んでいる。主催者側の発表ながら200万人近い参加者(香港の人口は約700万人)を集めたデモも複数あり、さらに大きなうねりへと発展する可能性もある。
国際社会にとっても、もはや無視できない局面を迎えており、ここで今後の流れを読む3つの重要ファクターを押さえておきたい。
【ファクター1】「中国」と「台湾」
中国は2019年10月1日に建国70年を迎える。習近平国家主席は国慶節(建国記念日)までには香港問題を終息させたいと望んでいるとみられる。
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中国は、10月1日に建国70周年を迎える。習近平国家主席も演説を行う予定という。
これまでも香港や台湾は、中国にとって「核心的利益」と位置づけられてきたことから、習近平国家主席が早急に香港問題を終息させ、盤石の体制をもって国慶節(建国記念日)を迎えたいと考えるのは当然だ。
林鄭行政長官が条例改正案の撤回を宣言した背後には、中国の意図があるとみていいだろう。
さらに、中国が焦らなければいけない理由はもうひとつある。台湾の次期総統選挙が2020年1月に行われることだ。
中国と距離をおく与党(民主進歩党)の蔡英文総統と、中国との関係を最重視する野党(中国国民党)の韓国瑜・高雄市長の対決となる。
台湾の蔡英文総統。独立志向の与党・民主進歩党所属。アメリカとの同盟関係の基礎である「台湾関係法」40周年を記念したイベントにて。
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台湾、対中融和路線の最大野党・国民党に所属し、現職の蔡英文総統に挑む次期総統選候補の韓国瑜・高雄市長。
REUTERS/Tyrone Siu
習近平国家主席としては、何としても中国国民党に勝ってもらわなければならない。中国はこれまで台湾に対して、香港を例に「一国二制度は可能」と主張してきただけに、香港がこうした状況になると台湾での選挙も難しくなる。
台湾の蔡英文総統は「ラジオ・フリー・アジア」のインタビューで、香港の自由化運動メンバーに対して人道的な支援をする用意があると述べ、すでに複数のメンバーが台湾に到着していると述べている。
台湾という「避難路」の存在が、香港の運動家たちを安心させているところもあるようだ。
こうした近隣国による関与は、天安門事件と香港のデモが大きく異なるポイントだ。
【ファクター2】「イギリス」と「中英共同声明」
9月4日、下院で質疑に応じるボリス・ジョンソン英首相。イギリスのEU離脱問題はまだ長引きそうだ。
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香港はアヘン戦争(1840〜42年)の結果、英領となった。
当時、イギリスは植民地だったインドでアヘン(ケシの実から採取される麻薬の一種)を生産させて中国に密輸。銀の国外流出や風紀の悪化を懸念した中国がイギリスとの交易を禁止したところ、イギリスが戦争をしかけて勝利し、香港をもぎ取った。
中国にとっては屈辱的な戦争であり、香港の返還は同国にとって悲願だった。
日本の軍政下にあった3年8カ月を含めた150年間近い植民地時代を経て、ようやく返還プロセスを定めたのが「英中共同声明」(1984年)だった。中国はこの声明のなかで、「1997年の返還後、50年間の香港の高度な自治と法治国家としての位置づけ」を約束している。
「高度な自治」が具体的にどの程度を指すのか、共同声明の文言からは判然としないが、少なくともデモ隊が要求する普通選挙の導入は「高度な自治」を逸脱するものとは思えない。
イギリスは共同声明の当事者として、その主張を述べる権利があると思えるが、同国議会は欧州連合(EU)からの離脱問題でそれどころではない。
ボリス・ジョンソン首相は「EUとの合意がなくても10月末には離脱する」と公約していたが、英議会はEUと合意できなかった場合に離脱の延期を政府に義務づける法案を可決。ジョンソン首相は総選挙を求めており、混乱は今後も続くとみられる。
ちなみに、前政権(テリーザ・メイ首相)のハント外相は、「中国は1984年の共同声明を遵守すべし」と強調していたが、中国外務省は「あの声明は過去のもので遵守する義務はない」と公言している。
1997年の香港返還時、約300万人がイギリスの在外パスポートも継続保有していたとされ、いまも相当数の香港人が保持しており、その人たちはイギリスによる救済を求めるかもしれない。
イギリスは年末までEU離脱問題で忙殺されるだろうが、それにしても早晩、香港問題は国際問題となり、イギリスとしても静観できなくなるだろう。
【ファクター3】「アメリカ」と「大統領選挙」
9月16日、米ニューメキシコ州リオランチョで大統領選に向けた支持者向け演説を行うトランプ大統領。
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米中関係は長引く貿易戦争で最悪の状況にある。
トランプ米大統領の狙いは2020年の大統領選挙に勝つことであり、中国に強硬姿勢を貫くことが選挙にプラスに働くと考えているかぎり、妥協することはないだろう。
中国に対する強硬姿勢は野党・民主党も同様で、米議会はその面では一枚岩と言っていい。香港問題については、6月に「香港人権・民主主義法案」が下院に提出され、民主党のペロシ下院議長も積極的なことから、法律として成立する可能性は十分にある。
アメリカはこれまで、香港に特別の(中国とは異なる)貿易ルールを適用し、巨額の投資を続けるなど、特別な関係を保持している。香港人権・民主主義法案が可決されれば、国家権益の保護を目的に、香港問題への介入も可能となってくる。
ここまで書いてきたように、香港問題は天安門事件とは大きく異なり、国際問題へと発展する可能性がある。
イギリス植民地時代に自由を謳歌して国際都市へと成長し、中国に返還された歴史を持つ香港だが、市民にとって「一国二制度」の概念は、決して日常的なものになったとは言えない。
林鄭行政長官が冒頭の録音テープのなかで、「行政長官は中国政府と香港市民という2人の主人に仕える身」と語っているように、「主権者は誰か」という問題はいまもくすぶり続けている。
世界中のメディアが拠点を構え、刻々と状況を伝える香港で、中国の対応、世界各国の対応が注目される。そして、おそらく21世紀後半の世界を占うできごとが、これから香港を舞台に展開されることになる——筆者はそう予想している。
土井正己(どい・まさみ):国際コンサルティング会社クレアブ代表取締役社長。山形大学特任教授。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)卒業。2013年までトヨタ自動車で、主に広報、海外宣伝、海外事業体でのトップマネジメントなど経験。グローバル・コミュニケーション室長、広報部担当部長を歴任。2014年よりクレアブで、官公庁や企業のコンサルタント業務に従事。山形大学特任教授を兼務。