大坂なおみ選手国籍問題。日本人じゃなきゃ応援しないの?その違和感の正体

吉野さん

ノーベル化学賞を受賞した吉野彰氏。ノーベル賞を日本人が受賞した際に必ず言われる「日本で○人」。

Reuters/Issei Kato

今年のノーベル化学賞受賞者に、リチウムイオン電池を開発した、旭化成名誉フェローの吉野彰氏が選ばれた。

一連の報道を見ていて、ノーベル賞を受賞した日本人の数について、いろいろな数え方があることに気がついた。

「日本人のノーベル賞受賞は、アメリカ国籍を取得した人を含めて27人目」(NHK

というものもあれば、

「吉野氏は科学分野で日本人としては24人目の受賞。ノーベル賞全体で28人。うち日本国籍者は25人」(朝鮮日報

というものもあった。

なぜ27人だったり28人だったりするのか?「日本人」と「日本国籍者」は違うのだろうか。

「日本の受賞者」とは誰か

中村さん

ノーベル物理学賞を受賞した中村修二氏。中村氏と南部氏は米国籍だ。

Reuters/TT News Agency

報道を見る限り、日本の受賞者は吉野氏を入れて28人、27人、25人という3つの考え方がありそうだ。

  • 28人:「日本の受賞者は28人」と数える人たちは、「日本出身者」「日本が輩出したノーベル賞受賞者」という括り方だ。米国籍の南部陽一郎氏と中村修二氏、英国籍のカズオ・イシグロ氏も含まれる。現在の国籍も母国語も関係なく、日本出身で、民族的に日本人であれば「日本の受賞者」としてカウントするという考え方だ。
  • 27人:「27人」は、幼少時に両親とともに長崎からイギリスに移り、その後一貫してイギリス人として仕事をしてきたカズオ・イシグロ氏を上記28人から除いた場合の数字だ。
  • 25人:「25人」という人たちもいる。それは、「受賞時に米国籍だった南部氏と中村氏はアメリカ人であり、(英国籍のイシグロ氏同様)カウントされない」という考え方だ。

どの理屈にも一理はあるが、仮に「国籍法上の日本国籍者=日本人」という定義をとるのであれば、日本人受賞者は25人になるだろう。アメリカやイギリスは重国籍が認められているが、日本は認められていない。よって、「ノーベル賞全体で27人(ただし、アメリカ国籍の日本人2人を含む)」という表現の但し書きにある「アメリカ国籍の日本人」というのは、論理的には微妙な表現だと思う。

「国籍単一の原則」をとる日本は、「外国の国籍を取得したときは、日本国籍を失う」としている(国籍法第11条)。日本人の定義を「日本国籍を有するもの」とするなら、イシグロ氏、南部氏、中村氏は、「外国籍取得の結果、日本国籍を失った元日本人」だ。

この国籍問題は、中村氏がノーベル賞受賞時にも話題になっている。当時の報道によると、中村氏は日本国籍を喪失したという認識がなく、日本国籍喪失届も提出していなかったので、ノーベル賞受賞時には、事実上の「重国籍」状態にあったという。後述するが、そのような状態にある日本人はかなりの数いると言われている。

「ノーベル賞は外国人に」

村上春樹

毎年ノーベル賞を期待される村上春樹氏。

REUTERS/Petr Jose

一方、ノーベル文学賞は2018年がポーランドのオルガ・トカルチュク氏に、2019年はオーストリア出身のペーター・ハントケ氏に授与された(2018年分は不祥事で延期されていた)。

このニュースを受け、共同通信が配信した速報が議論を呼んだ。見出しは、「ノーベル賞は外国人に」

「スウェーデン・アカデミーが10日発表した2018年、19年のノーベル文学賞受賞者は、いずれも日本人ではなかった」

https://twitter.com/kyodo_official/status/1182250557584498689?s=21

この見出しと記事に対し、SNS上では、「日本人が取らなきゃどうでもいいってことか」「いつからノーベル賞は日本のものになったんだ」「雑すぎ。せめて誰が受賞したかくらい書け」などという多くの批判的なコメントが飛び交った。

日本では、毎年この時期になると、村上春樹氏がノーベル文学賞を取るかが話題になる。今年はドイツ在住の作家・多和田葉子氏も候補の一人と言われていた。だから、これを書いた共同通信の記者は、「村上氏・多和田氏のどちらも受賞しなかった」ということで頭がいっぱいだったのだろうが、このまとめ方、タイトルの付け方はあまりにも大雑把で、かつ日本中心の狭い世界観を露呈してしまった感があり、読んでいるこちらが恥ずかしくなった。

「乗客に日本人はいませんでした」

エア・カナダ

飛行機事故など海外での大事故、大災害のたびに「日本人の犠牲者」の数が強調される。

REUTERS/Andrew Vaughan

これらの報道を見ていて私が感じた根本的な疑問は、「そもそも、受賞者が日本人だったかどうか、過去の日本人受賞者が何人かというようなことが、そんなに大事なことなのか?話のポイントはそこなのか?」ということだ。

これは、飛行機事故など大事故を伝えるニュースで「乗客に日本人はいませんでした」という言葉を聞くたびに感じる違和感と似ている。もちろん外務省はじめ政府関係者、報道関係者にとっては、邦人を保護し、国民に情報を提供するという責務上、「日本人の有無」に焦点を当てるのは理解できる。大使館に問い合わせが殺到するのも防げる。

ただ、「乗客に日本人はいませんでした。以上」という感じでニュースを伝えられると、私はいつも「日本人さえ乗っていなければ、あとは何がどうなっても他人事ということなのか?」と感じてしまう。

そう感じているのが自分だけではないのだとわかったのが、The Yellow Monkeyの「Jam」を聴いた時だ。彼らはこの中で「乗客に日本人はいませんでした」と「ニュースキャスターが嬉しそうに」言うのを聞いた時の違和感を歌っている。

東日本大震災直後、街頭インタビューに応えているボランティアの人が、「同じ日本人がこんなに大変なんだから、僕も何かしたい」と言っているのを聞いた時にも、似たようなことを感じた。言いたいことはわかる。

でも、大変な思いをしている人が「同じ日本人」でなかったら?どうしてこの文脈で「日本人」という言葉が出てこないといけないのだろうか?と思った。このような時に私が感じるのは、我々の誰もがおそらく無意識に持っている、刷り込まれた民族(あるいは国民)意識に対する疑問だ。

「同じ日本人として、誇りに思う」

安倍晋三氏

安倍首相は日本人の功績に対して、「同じ日本人として誇りに思う」としばしば発言する。

REUTERS/Jonathan Ernst

今回の吉野さんのノーベル賞受賞を受け、安倍首相は「本当に日本人として、私も誇りに思う」とコメントしたという。安倍首相は、今回に限らずこれまでにも度々「同じ日本人として誇りに思う」という言葉を使ってきた。

例えば、親が外国籍を持つ卓球の張本智和選手や、テニスの大坂なおみ選手の活躍に対する感想を問われた際に、「同じ日本人として誇りに思う」と答えている。リトアニアで杉原千畝記念館を訪れた時にも、記者団に「世界中で杉原さんの勇気ある人道的行動は高く評価されている。同じ日本人として誇りに思う」と述べている

この「同じ日本人として誇りに思う」という言葉は、オリンピックはじめ国際スポーツイベントなどの場でもよく耳にするし、私たちも日常的に使っている。

アメリカ人もスポーツ観戦の時にはひたすら「USA!USA!」だ。

愛国心・連帯感の表現や、国単位でメダルの数を競い合う国際スポーツイベントが悪い訳ではないが、誰かの功績を讃えるときには、どの国籍であれ、その人の業績そのものを讃えればいいのではないかとも思うのだ。そこにいちいち「国」というラベルを介入させる必要が果たしてあるのだろうか?と。

ノーベル賞の創設の元になったアルフレッド・ノーベルの遺言には、「自身の遺産を人類のために最大たる貢献をした人々に分配する」とある。「受賞者がどこの国の出身か」「うちの国は何人の受賞者を出した」ということにこだわっていること自体が、賞の本来の理念と根本的に相容れないと思えてくる言葉だ。ノーベルが求めていたのは、国益、功名心、エゴイズム、民族意識などといった概念に囚われない世界だっただろうと思うからだ。

「日本を選んでくれてありがとう!」

大坂なおみ選手

10月に22歳の誕生日を迎える直前に、大坂選手は日本国籍を選ぶ手続きに入ったと報じられた。

Reuters:Jason Lee

時期を同じくして、日米両国の国籍を持つ大坂なおみ選手が日本国籍を選択する手続きを開始したと報道された。日本では、日本人の親のもとアメリカで誕生した人、もしくは(大坂選手のように)日本生まれだが20歳に達する以前に重国籍となった人は、22歳までに1つの国籍を選択しなければならない。大坂選手は10月に22歳になる。

SNSには「日本人として純粋に嬉しい」「日本を選んでくれてありがとう!」「ますます応援したくなる!」といった好意的なものが並んだが、また私は「乗客に日本人はいませんでした」に似たものを感じた。ファンだというのなら、彼女がどこの国籍を選ぼうが、応援し続けるものではないのか。

重国籍を許さない日本の国籍法

日本国旗

「日本人」「日本」であることとは。

Shutterstock/ShutterOK

大坂選手が「日本国籍を選ぶ手続きを始めた」という報道を受けて、「アメリカ国籍を自動的に失うのか?」「黙っていれば両国籍を維持できるのか?」などネット上でもさまざまな見解が飛び交っている。

前述の通り、日本は「国籍単一の原則」から重国籍を禁じている。大坂選手のように、片方の親が外国籍であるために複数の国籍をもつ場合には、22歳までにいずれかの国籍を選択しなくてはならない。日本国籍を選ぶ場合、「外国の国籍を離脱」、または「日本の国籍を選択、かつ外国の国籍を放棄する旨の宣言」が必要となる(国籍法第14条2)。さらに「外国の国籍の離脱に努めなければならない」(国籍法第16条)という。

この「離脱に努めなければならない」という文言が、理解の混乱を招く部分だと思う。「日本国籍の選択を宣言しさえすれば、もう一つの国籍は離脱せず、『離脱する努力をしています』と言い続けて、二つの国籍をこっそりキープし続ければいい」という解釈を生んでいるためだ。ちなみに、隠れ二重国籍日本人は(正確な数字は把握が難しいが)推定89万人とも言われている

確かに国籍法には「いつまでに離脱」という定めは存在しないし、重国籍への罰則規定もない。記憶にあるのが、22歳で日本国籍を取得した際に台湾籍を抜くのを忘れていた蓮舫参議院議員の「二重国籍問題」だろう。あの時も「台湾籍」を抜く手続きを怠っていた「ミス」を社会から咎められたが、特に罰則はなかった。

アメリカでは国籍を離脱する場合、Expatriation Tax(国籍離脱税)という特別な税金を納めなくてはならない。これは全財産の約20%を税金としてアメリカに納めるというものだが、大坂選手の場合は、この税金の対象者になるという指摘もある。これは日本が重国籍を認めていれば、必要なかった出費だ。

一つの国籍しか持つべきではないのか

二重国籍を認める国

重国籍を認める国が増える中、日本は今でも単一国籍しか認めていない。

出展/World Population Review

日本は、今や先進国の中では少数派となった、重国籍を認めない国の一つである。World Population Review によると、2019年時点で、重国籍を認めている国は約60カ国にのぼる。上記の地図のオレンジの部分だ。

欧州、北米、南米が多いが、アジアではフィリピンなどは認めているし、1990年代以降、重国籍を容認する国が増える傾向にある。欧米で重国籍を昔から認めている理由の一つは、国が強制力を持って国籍を捨てさせるのは人権侵害であるという考え方が強いためだ。

日本でも2018年に、「日本人に生まれても、外国籍を取得すれば日本国籍を失うとする日本の国籍法の規定は憲法違反」として、海外に住む日本人らが日本政府を相手取って訴えを起こしている

その中の1人はスイス国籍を選び、日本国籍を喪失した際に、「生まれた時には日本のパスポートがあり、両親が日本人で、今もまだ日本と固い絆で結ばれているというのに、私は自分の国と切り離されてしまった」「一番つらかったのは、公式な手続きのために、自身の名前の漢字表記がアルファベットに変わってしまったことだった」と話している。原告らは、国籍法の規定は時代遅れだとして、日本国籍保持の確認や制度の改正を求めている。

確かに、「人は一つの国籍しか持つべきではない」という考え方は、国境を超えた人の移動がこれだけ日常的になったグローバリゼーションの現状とはズレている。ニューヨークで働く私の周囲を見回してみても、欧州(EU内でビザが要らないことは言うまでもなく)、北米、南米出身の友人たちの多くは2つ以上のパスポートを持っている。彼らは生まれた国ではない場所で教育を受けたり、キャリアを築いたりし、人生のそれぞれの段階で住む国を変え、国境を自由にまたぎながら生きている。

グローバル人材獲得競争におけるメリット

多様性

グローバル人材が求められる時代、重国籍を認めることは企業にもさまざまなメリットがある。

Shutterstock/mentatdgt

重国籍になった時点でやむを得ず日本国籍を離脱した日本人は、推計100万人に上るとも言われるが、それは、ただでさえ人口が減少し、少子高齢化が深刻化している日本にとってプラスなことなのだろうか?

近年、重国籍を認める国が増えてきている理由の一つは、グローバルな人材獲得競争の激化だろう。重国籍を容認することで、企業にとってはさまざまなメリットがある。

例えば

  • 重国籍者には、複数の国の文化・言語を理解する人が多い。そのような国際的な人材自体に価値がある。
  • 重国籍を許せば、海外で活躍する優秀な自国の人材も戻ってくる可能性がある。つまり、才能の海外流出が防げる。
  • 重国籍を認め、外国出身者にも日本国籍を与えやすくすれば、日本と世界をつないでくれる外国人を日本に引きつけることができる。

世界のどこでも働けるような能力のある人材がどこで働くかを検討する際に、元の国籍を手放すことを強要せずに国籍を与えてくれる国と、二者択一を迫る国とのどちらを選ぶかは、考えるまでもない。

もっと現実的な問題として、誰かを雇いたいと思った時のビザ手続きの費用と手間は、企業にとって大きなコストだ。複数のパスポートを持つ人が増えれば増えるほど、そのコストが抑えられる。

閉鎖的で排他的な国籍法

八村塁

スポーツの世界ではさまざまな国にルーツのある選手が活躍している。バスケットボールの八村塁選手もその一人。

Reuters/Noah K

上記の諸ポイントについて、近藤敦・名城大教授は、「外国出身の人たちが安定して生活できるよう、二重国籍を認めるべきだ。日本は他国からやってきて帰化する人が少ないが、複数国籍を認めないことも背景としてあるだろう。国内の生産年齢人口が減る中で、帰化率を上げ、国籍取得者を増やすのは大事な政策だ。閉鎖的で排他的な国籍法を改めるのがポイントとなる」と指摘している

重国籍を認めることは、前述の通り、海外へのこれ以上の人材流出を防ぐ政策としても、同時に「さまざまなバックグラウンドと価値観を持つ人々と共存し、ともに社会を築く」という意味でも、日本にとってプラスになるはずだ。

日本にとって、世界のどこでも戦えるグローバルな人材をより多く輩出することが必要なのは言うまでもないが、同時に、「日本国内のグローバリゼーション」を進める必要がある。実際、すでにそれは始まっているとも思う。

例えば最近のスポーツ界には、大坂選手のみならず、八村塁、ケンブリッジ飛鳥、松島幸太朗など、複数のルーツを持つ(それらの一つが日本である)選手が増えてきている。研究者にも、南部氏や中村氏のように、外国籍をとり、日本人としてのアイデンティティも失うことなく海外で活躍している人々もいる(研究者の場合、助成金など現実的な問題で、アメリカ国籍を選ばざるを得ない場合も少なくない)。

多様なアイデンティティをもつ人材を「日本人でもあるし、~~人でもある。それで良し」という姿勢で、おおらかに、積極的に受け入れていくことは、日本社会をさまざまな意味で分厚く、豊かにするものだと思う。

逆に、すでに始まっている変化を受け入れず、「日本で育ち、日本語をしゃべり、日本国籍だけを持ち、いわゆる日本人の顔をし、日本の文化を完璧に理解する人しか日本人とは呼ばない」という姿勢をとるのであれば、グローバルな人材獲得競争の面でも、社会としての生存という意味でも、日本の未来は寂しいものになってしまうのではないだろうか。


渡邊裕子:ニューヨーク在住。ハーバード大学ケネディ・スクール大学院修了。ニューヨークのジャパン・ソサエティーで各種シンポジウム、人物交流などを企画運営。地政学リスク分析の米コンサルティング会社ユーラシア・グループで日本担当ディレクターを務める。2017年7月退社、11月までアドバイザー。約1年間の自主休業(サバティカル)を経て、2019年、中東北アフリカ諸国の政治情勢がビジネスに与える影響の分析を専門とするコンサルティング会社、HSWジャパン を設立。複数の企業の日本戦略アドバイザー、執筆活動も行う。Twitterは YukoWatanabe @ywny

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