10月15日、爆煙が立ちのぼるシリアの国境近くの町、アルアイン。
REUTERS/Stoyan Nenov
アメリカのエスパー国防長官は10月13日、シリア北東部に配置されていた米軍の残存部隊1000人の撤退を指示したことを明らかにした。
トランプ大統領が同6日、トルコのエルドアン大統領との電話会談後に突如、「同地域からの米軍の撤退」を発表したことに続く動きだ。
国外紛争への介入は「アメリカにとって損」を持論とするトランプ大統領は、2018年12月にも過激派組織「イスラム国(IS)」の完全制圧を宣言すると同時に、シリアからの「米軍撤退の意向」を表明したことがある。
当時は政府内や米政界から反対論が噴出し、政権の重鎮だったマティス国防長官が辞任する事態に至って、撤退をいったん取り下げた経緯があった。
今回も反対論は強かったものの、意固地になったトランプ大統領は聞く耳をもたず、ついに(撤退宣言の)撤回には至らなかった。
10月9日、ホワイトハウスで記者からの質問に答えるトランプ米大統領。
REUTERS/Jonathan Ernst
トランプ大統領が撤退を発表した後、米軍はまず国境の2拠点から特殊部隊50人を撤退。その動きを受けて、トルコ軍は同9日にさっそく本格的な侵攻作戦に着手した。シリア北東部を支配するクルド人主体の武装勢力「シリア民主軍(SDF)」は反撃したものの、両者の戦力には大きな差があり、トルコ軍が戦況を優勢に進めている。
米軍に全面撤退命令が下された13日、SDFは従来緊張関係にあったシリアのアサド政権軍を受け入れ、協力することで合意したと発表した。アサド政権軍はすかさずシリア北東部への移動を開始、翌14日には要衝の町マンビジに入った。
SDFとしては、それまで同盟関係にあった米軍に「見捨てられた」以上、トルコ軍の侵攻を食い止めるには他の勢力に頼るしかない。言ってみれば、米軍撤退がアサド政権軍の進出という結果を生んだわけだ。
実は、事情はさほど複雑ではない
10月14日、クルド人勢力が支配するシリア北部アインイッサに部隊を展開したアサド政権軍。
SANA/Handout via REUTERS
日本にとっては馴染みの薄い地域の問題ゆえ、ここで各勢力の立場・思惑を整理しておこう。
▽アメリカ
ISを撃退し、もはや同地域に米軍を展開するコストを支払う意味はないと考えるトランプ大統領は、全面撤退を決定した(ISの動向監視のためにごく少数の部隊はシリア南部に残す)。トルコのシリア侵攻には反対を表明し、経済制裁も発動したが、軍事介入の可能性は否定している。
ただし、米政府の当局者や米議会には「IS復活の恐れがある」「アサド政権やロシア、イランの勢力拡大につながる」と米軍撤退に反対の声も多い。
▽トルコ
シリア北部におけるクルド人勢力の台頭は、トルコ国内に波及する恐れがある。これまで米軍が駐留していたため攻撃できなかったが、米軍の撤退を機に軍事侵攻に踏みきった。
▽シリア民主軍(SDF)
クルド人の勢力圏を確保し、自治を獲得したい。IS掃討作戦では米軍に協力してきたが、その撤退後に侵攻してきたトルコ軍を防ぐため、アサド政権軍の部隊展開を受け入れた。
▽シリア・アサド政権
独裁政権を維持する上で、最も警戒すべき米軍が撤退するのは大歓迎。シリア全土の支配圏を回復するためにも、SDFからの要請で北東部に部隊を展開できることも大歓迎。ただし、相当の軍事力を誇るトルコとの直接の戦闘は避けたいはず。
上記のように、関係する各陣営の立場や思惑は明確であり、それほど複雑な事情というわけでもない。
「クルド人勢力」の実態
10月7日、シリア侵攻を目前に控え、記者会見に臨んだトルコのエルドアン大統領。
REUTERS/Djordje Kojadinovic
トルコの侵攻に対しては、アメリカだけでなく、欧州連合(EU)も反対の意向を示している。ISをほぼ壊滅させてようやく状況が落ちついてきたのに、再び多くの犠牲者を生みだすことになりかねないからだ。
クルド人勢力が弱体化することで、ISが息を吹き返す可能性も確かに否定できない。実際、シリア北東部の捕虜収容所からIS戦闘員が大量脱走したとの情報も出てきている。
結局、トルコの軍事行動をどう評価するかは、トルコが「テロリスト」と呼ぶシリア民主軍(SDF)をどう評価するか、という問題と切り離せない。
兵力6~10万人ほどとみられるSDFは現在、シリア北東部の旧IS勢力圏を支配している。組織としては、小さいものも含めると70以上の武装勢力の集合体である。スンニ派アラブ人、キリスト教徒、アッシリア人やトルクメン人、その他の少数民族などの武装勢力も参加しているが、主力は同地域の多数派住民であるクルド人だ。
そしてその中核は、兵力の半分以上を占めるとみられるクルド人の武装組織「人民防衛隊(YPG)」である。つまり、SDFはすべてクルド人ではないものの、クルド人が主導する武装組織であるということは言える。
このクルド系の指導部は、1980年代からトルコ政府と戦ってきた左翼系独立派組織「クルド労働者党(PKK)」の流れを汲んでいる。SDFのマズルーム・コバネ総司令官はPKK出身だし、SDFの中核を担うYPGは政治組織「クルド民主統一党(PYD)」の軍事部門で、同党の幹部の多くはもともとPKKの活動家だ。
PKKとトルコの長年の対立関係を考えると、その直系ともいえるSDFの台頭を、エルドアン政権が警戒するのも当然だ。しかし、潜在的脅威として警戒の対象とすることと、直接軍事行動に訴えることとは、次元の違う話だ。
「シリア民主軍(SDF)」はテロリストなのか
10月13日、英ロンドンでトルコのシリア侵攻に抗議する市民。女性が振っているのはクルドの旗。トルコでは掲揚が禁じられている。
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シリア北部のクルド人居住地域では、2011年のシリア全土での民衆蜂起の後、数ある政治勢力のなかでも組織力のあるPYDがいち早く主導権を握り、他のクルド系勢力を排除した。
その後、先述したPYDの軍事部門YPGが支配圏を確立。同地域で勢力を急伸させたISとの死闘を経て戦闘員を補充し、成長してきた経緯がある。
そんなYPGを中核とするSDFは、民主的な手順を踏んだ正統性こそもたないものの、多大な犠牲を払ってIS支配を打ち破った実績によって、現在はシリア北東部の実質的な自治勢力というポジションにある。
同地域にはクルド系とアラブ系の住民同士の根深い軋轢があり、SDFとその中核のYPGによるアラブ系住民への抑圧行為も実際に発生しているが、SDFもYPGも公式には少なくとも(対トルコの独立派組織である)PKKとの一体的な関係性を否定していて、トルコに対するテロ活動を行っているわけではない。
トルコ側はSDFを「PKK系の共産主義テロリスト」と呼んでいるが、SDFに集まる戦闘員たちは実際、共産主義イデオロギーとはほとんど無縁。むしろ現場では、米軍や欧米系のNGO、メディアなどとの関係が深まっていた。
シリア北部については、トルコ側・クルド側の双方によるフェイク情報が拡散されており、外部からはなかなか実態がわかりにくいことも確かだ。
それでも上記のような経緯と現状を踏まえれば、SDFをテロリストと決めつけて一方的な侵攻作戦に打って出たトルコのエルドアン大統領の判断は、国際社会から支持を得られるとは到底思えない。軍事作戦がSDFとは関係ない一般住民にまで被害を出しているとすればなおさらだ。
得をしたのはシリアのアサド政権とロシア
シリア北部の要衝マンビジで撮影されたアサド政権軍の車両。シリア国旗とロシア国旗の両方が掲げられている。シリアに対するロシアの影響力は大きい。
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トルコの「侵略行為」とそれを許した米軍の撤退で、最も得をしたのはシリアのアサド政権だろう。前述したように、アサド政権にとって最も恐れるべきは、やはり米軍の存在だからだ。米軍はアサド政権打倒を掲げてはいないが、民主体制の超大国であり、独裁体制とは相入れない。
それに加えて、アサド政権はどさくさに紛れてクルド勢力を手なづけ、北東部への進出を果たすことにも成功した。トルコとの国境地帯に進駐したアサド政権軍は、トルコ軍と今後対峙することになるが、トルコの狙いはあくまでクルド勢力の弱体化なので、アサド政権の独裁体制にとっての脅威ではない。仮にトルコ軍と衝突することがあっても、あくまで国境地域限定の小規模なものに留まるだろう。
同じように、今回の一連の動きで「漁夫の利」を得たのがロシアだ。
シリアを中東での自国勢力圏確保の橋頭保としたいロシアにとって、最大の障害は米軍の存在だったが、その撤退によって、シリアを「縄張り」として手中に収めたといえるからだ。
今回、アサド政権とSDFの協力合意を仲介したのはロシアとみられるが(ロイター通信は、両者がシリア西部ラタキアのロシア駐留軍基地で交渉したと報じている)、おそらくロシアはトルコとも水面下で接触している。
ロシアは裏で糸を引き、トルコにクルド侵攻を認める一方で、アサド政権には支配圏を拡大させることを狙ったのだろう。クルド勢力はアサド政権を引き入れる代わりに、同地域の支配圏をかなり失うことになるが、それでもトルコ軍に殺されるよりはマシということだ。
このように、トランプ大統領の米軍撤退決定はトルコに大きなチャンスを、クルド勢力と地域住民には大きな苦難をもたらした。一方で、シリアのアサド政権とロシアにきわめて大きな利益をもたらした。
米軍の駐留規模は小さなものだったが、それでも「そこにいる」だけで、トルコ、アサド政権、ロシアの行動を牽制する大きな効果を発揮していた。それが今回、一気に失われたのである。
それだけではない。前述したように、SDFは選挙によって住民に選ばれた勢力ではなく、アラブ系住民の虐待など時おり問題も起こしていたが、それも駐留米軍の存在によって(SDF内の強硬派の)動きが抑えられていた。
米軍のプレゼンスこそ、この地域の「安全装置」だったわけだが、それが失われたいま、諸勢力による暴力の応酬によって、再び多くの命が失われることになる可能性が高い。
黒井文太郎(くろい・ぶんたろう):福島県いわき市出身。横浜市立大学国際関係課程卒。『FRIDAY』編集者、フォトジャーナリスト、『軍事研究』特約記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て軍事ジャーナリスト。取材・執筆テーマは安全保障、国際紛争、情報戦、イスラム・テロ、中東情勢、北朝鮮情勢、ロシア問題、中南米問題など。NY、モスクワ、カイロを拠点に紛争地取材多数。