静脈から抜いた血液にオゾンガスを混合し、体にもどす「血液クレンジング」。
ネット上では、血液クレンジングを勧める医療従事者はもちろん、SNSで宣伝・拡散に加担してしまったインフルエンサーたちに対して、その医学的効果を疑問視する声が相次いでいる。
血液クレンジングでは、患者から100~200ccの血液を取り出し、オゾンガスを混ぜてから体内に戻すという(写真は血液クレンジングのイメージ)
ESB Professional/Shutterstock.com
実は、科学的な検証が十分になされていない民間療法などの治療を、医師の責任によって自由診療で患者に提供すること自体は違法ではない。医師には、医療行為を行う際に一定の裁量が認められているからだ。
厚生労働省医政局・医療安全推進室の担当者は、治療効果の検証が十分とはいえない医療行為について「医師と患者の間での同意があれば自由に行われているのが現状」と話す。
特に美容医療業界では、自由診療における身体被害を含むトラブルの増加から、厚生労働省から適切なインフォームド・コンセントの強化を促す通知が出されている。それでも、根拠が不十分な治療行為に思わず手を伸ばしてしまう人は多い。
専門知識のない患者が医師から説明された内容に疑問を持つことは難しい。効果があると言われれば、信じてしまう。
血液クレンジングについてSNSで拡散したインフルエンサーたちは、情報の拡散を手伝ってしまった加害者であると同時に、根拠やリスクについての検証が不十分とされる医療行為を受けた被害者とも言える。
このリスクは、インフルエンサーに限らず私たち自身にもつねにつきまとう。
どうすれば、不確かな医療情報に踊らされずに済むのだろうか。
医療情報を見極める10か条
美容医療に限らず、根拠が曖昧な医療行為は無数に存在する。
厚生労働省の「『統合医療』情報発信サイト(eJIM)」では、医療情報の見極め方として、次の10か条をあげている。
統合医療:近代西洋医学と相補(補完)・代替療法や伝統医学等とを組み合わせて行う療法であり、多種多様なものが存在します。(「統合医療」に係る情報発信等推進事業『統合医療』情報発信サイトより引用)」
医療情報を見極める基本となる考え方。専門的な医療情報を正確に判断することは難しい。少しでも疑問をもったら、一度冷静に考え直したり、セカンドオピニオンを求めたりした方が良いだろう。
出典:「統合医療」に係る情報発信等推進事業のホームページ、『統合医療』情報発信サイトをもとに編集部が作成。
「絶対に治る方法を求めたい患者」と「医療の現実」の間には、大きなギャップがある。
医学の世界では、「根拠に基づく医療」(Evidence-Based Medicine)が重視される。ここでいう根拠には、人に対する臨床試験が行われていることや、治療効果が統計的に示されているといった研究レベルの根拠に加えて、患者の価値観や希望に則しているかという点も含まれる。
現代医療のうち保険適用している治療法は、無数の検証に耐えてきた治療法だ。
言い換えると、現段階で最も効果的だと考えられる最善の治療法である。しかし、その治療効果を正確に表現すると「100人の患者のうち70%の人に対して効果がみられる」などと曖昧で歯切れが悪くなってしまう。
一方で、根拠が不十分であるにも関わらず、「この治療法だと絶対治ります」と言い切ったり、「私はこれを飲んで治りました」という個別事例を謳い文句に勧められる医療行為も一定数存在する。
「絶対治る」という言葉は、患者からすると最も医師に言って欲しい言葉だ。しかし、医学的に絶対治るという言葉を使える状況は非常に限られる。
強い言葉で効果が示されていたり、根拠や効果の範囲に少しでも疑問を感じたりしたときには、一度冷静に考え直し、セカンドオピニオンを求めるなどの対応をした方が良いだろう。
ビタミンの過剰摂取でも体調不良
New Africa/Shutterstock.com
「妊活にはザクロジュース」「緑茶でインフルエンザ予防」「風邪をひいた時にはビタミンC」などのように、食品の健康効果に関する情報も私たちを惑わせがちだ。
テレビ番組で特定の成分が豊富な食品が紹介された翌日にスーパーで品切れが続出するのは、最早恒例行事だ。こういった健康情報も、果たしてどこまで確かなのか。
そもそも、食べ物は薬ではない。仮に何らかの効果があったとしても限定的だ。
むしろ、1日に必要な量がある程度決まっている以上、特定の成分を過剰に摂取することは逆に体に悪影響を与えることにつながる。
ビタミンの過剰摂取による体調不良の事例。普通の食生活の中で食べ過ぎる程度は問題ないが、特定の成分が濃縮されたサプリメントなどで大量に摂取すると、体調不良になるケースがみられるという。日本人に必要な摂取量は、厚生労働省が発表している「日本人の食事摂取基準2015」で確認できる。
提供:千葉剛博士
科学的根拠に基づいた食品の安全性・有効性情報
国立開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所が運営する「『健康食品』の安全性・有効性情報」には、さまざまな食品の有効性や安全性をまとめたデータベース(素材情報データベース)がある。同研究所の千葉剛博士は次のように話す。
「食品の有効性や安全性について気になることがあったら、ぜひこのサイトを見て下さい。すべての食品を網羅しているわけではありませんが、話題になった食品や成分の情報はある程度更新されています。
サイト上では、まずは各食品の概要に必要最低限の情報が記載されています。その上で、総合評価の部分を見ていただければその食品に対する評価の目安を知ることができます」
もちろん、ここで示されているのは、あくまでも現時点での研究結果だ。
この先の研究次第で、現時点で有効性が確認されていない食品に何らかの有効性が認められたり、逆に、これまで有効性があるとされてきた食品でも、実は有効性がないことが明らかになったりすることもありうる。
それを前提に、いくつかの例を見てみよう。
妊活への有効性は無さそう。大量摂取や果実以外の部位には危険も
妊活への有効性は確認されず。果実以外の部位には危険性も示唆。
素材情報データベースの情報を元に、編集部が作成。
カフェインの影響には注意も、さまざまな有効性がある可能性が
多量の摂取にはある程度の危険性が伴うものの、有効性に関するさまざまな研究結果がみられている。
素材情報データベースの情報を元に、編集部が作成。
議論の多いコーヒーの健康効果。
健康に対する有効性が話題になりやすいコーヒー。現時点ではいくつかのがんに対して有効な可能性が示唆されている。今後の研究によって、情報が追加されていきそうだ。茶同様、カフェインの取り過ぎには十分な注意が必要。
素材情報データベースの情報を元に、編集部が作成。
緑茶のインフルエンザへの効果は?
サイトではこのほかにも、一般の方、妊婦・授乳婦、子どもに対する危険度の違いや、特定の疾患をもった人が摂取したときの有効性や危険性の有無について、個別の研究事例(論文)が記載されている。
千葉博士は「こういった情報は基本的には専門家の判断のために記載しています」と話す。非専門家である一般の方々が細かい情報を確認する際には、注意が必要だ。
というのも、論文を発表しただけでは、その食品の有効性が認められた訳ではないからだ。
例えば、「インフルエンザの予防効果がある」と言われることの多い緑茶。
データベースで詳細を見ると、緑茶カプセル(詳細は不明)を使ったインフルエンザに対する予防効果を検証した論文が示されていた。しかし、総合評価では、インフルエンザに対する予防効果についての言及はない。
「論文の数や質を総合的に判断して、データとして十分ではないものは総合評価には記載されていません。同じような結果を示す論文が増えてくれば、総合的にも有効性があると判断されることになるでしょう。現時点で総合評価に記載されている有効性は、ここに書かれていないデータも含めて、かなりの情報が積み重ねられているものです。」(千葉博士)
人種の違いや、男女差、実験の規模による統計的なばらつきなど、ちょっとした実験手法の違いによって、食品の有効性に関する結果は変わってしまう可能性がある。たった1本の論文では、その食品の本当の有効性を知ることはできない。
また、特定の病気の人に対する臨床試験の結果から、健康な人が摂取したときに病気の予防効果があると考えてしまうことも多いので注意が必要だ。病気の人に有効でも、健康な人にさらなる健康効果があるとは言えない。この間には、大きな壁があるのだ。
食べるだけで健康になれる食材はない
千葉博士は、食品の健康効果に関する情報について次のように語る。
「『これだけ食べれば健康になれる』『絶対に痩せる』というような言い切りや有効性を極端に表現しているものは、怪しいと思った方がいいかもしれません。食品だけではそれほど劇的に変わることはありません。食品の健康効果を誠実に表現するなら、まどろっこしい表現やごく当たり前の表現が多くなってしまいますから。」
情報の見極め方は、医療情報とほとんど同じだ。
私たちの体の健康は、さまざまな要素が複雑に絡み合って決まっている。だからこそ、医療行為や食事による有効性の検証は非常に難しく、研究の積み重ねが必要だ。
「これだけ食べれば健康になれる」というように、私たちはできるだけ楽に、健康な体を手に入れたいと思いがちだ。しかし残念ながら、現実にそんな甘い方法は存在しない。健康な体を維持するには、結局のところバランスの良い食事をとって、適度に運動するといった、ごく当たり前なことをするしかない。
それを自覚しておくだけでも、根拠の薄い情報に振り回されて一喜一憂することは少なくなるはずだ。
(文・三ツ村崇志)