1979年山口県生まれ。大阪あべの・辻調理師学校卒業後、日本の老舗フレンチレストランなどで15年間勤務。2015年フリーランスの家政婦として独立。
撮影:鈴木愛子
「予約の取れない伝説の家政婦」として引っ張りだこのタサン志麻(40)。その原点は、働きながら楽しそうに料理を作る母の姿だった。だが、フランス料理の道を極めようとするほど、「本当にこれが自分の目指した道なのか」と葛藤することになった。
料理人としての原点は、台所に立つ母親の姿だ。
働いていた母は、毎日忙しくてクタクタだったはずなのに、いつも楽しそうに料理をしていた。「今日はなに作ろっかなあ」と言いながら、料理の本を楽しそうに見ていた。
共働きの両親のもと、タサン志麻は小学1年生から包丁を持たされた。母からは「自分のものは自分で作りなさい」と言われ、料理の基本的なことは早くから教わった。
そんな環境から料理はいつも身近だった。
加えて、母方の祖母からも影響を受けた。
風流な人だった。孫のタサンにお琴や生け花、水墨画まで教え、文化を楽しむという習慣を伝えてくれた。その祖母も料理好きだった。
「ふんわりした温かさがあるというか、ほっとする味でした」
努力なら誰にでもできる
フランス留学時代。不器用を自覚していたタサンは努力でカバーした。
提供:タサン志麻
高校は地域で一番の進学校。周囲からは大学進学を勧められたが、迷わず料理の道を選んだ。山口の実家を出て、大阪あべの・辻調理師専門学校へ。ここでフランス料理と出合う。
「最初は和食を勉強しようと思ったのですが、なんていうか、講師の先生方が私には生真面目な印象で……楽しくなかったんです。一方で、フランス料理の方が楽しかった。それまでフランス料理なんて食べたことがなかったのに、こんな田舎者の私でもおいしいと思えることに感動しちゃって、どんどん面白くなった。料理だけでなく文化も奥が深く、惹かれたんです」
2年目は辻調理師専門学校グループのフランス校へ。ところが、実技では誰よりも不器用だった。例えば、鶏一羽にひもをかける作業。ほかの生徒は時間内に終わっているのに、タサンだけできなかった。
周りの仲間に比べて不器用なことがコンプレックスだった。でも、努力なら誰でもできる。
寮でシャワーに入るときには、フランス語の調理用語をカーテンに貼り付けて覚えた。フランス語の筆記試験はいつも上位。負けていた実技も努力で補った。帰国して最初に働いた店は、シェフにフライパンを持ち帰る許可をもらい、自室で振る練習をした。
食事は楽しくするものだ
タサンの下町の自宅には、よく友人などが集う。大皿に料理を盛って取り分けるスタイルで料理を振る舞う。
撮影:青木和義
シェフ修業に励むなか、のちにタサンの人生を決定づける「発見」をしてしまう。
友人に招かれたあるホームパーティー。フランスの人たちはとても楽しそうに会話をしながら食べていた。
「ああ、そうだ。食事って楽しくするものだと。改めて実感しました」
タサンによると、フランスにはこんな言葉があるそうだ。
フランス人は食べたものは憶えていないけれど、一緒に食べた相手との「会話」は憶えている —— 。
フランス料理と言えば、ピンと張り詰めた空間で、マナーにも気を使いながら食べるもの。そんな固定観念を裏切るような光景だった。にぎやかにおしゃべりをしながら食べる。食事の「時間」を楽しんでいた。
フランスのお母さんは、みんなと一緒にワインを飲みながら、前菜を食べながら、オーブンに入れたメイン料理ができあがるのを待っていた。
タサンの母親も料理は楽しんでいたが、楽しそうに食べていただろうか?記憶にあるのは、料理をできた順に出し終えたら、一番最後に食卓につく母の姿。会話もそこそこにサッと食べ終えると、洗い物を始めていた。
食べるという文化そのものが違うのだ。
独立を目標にはできない
自宅の本棚にはフランス語の本が。
撮影:鈴木愛子
日本のフレンチレストランも、「誰でも楽しめる場所」には見えなかった。
フレンチのレストランは子どもの入店禁止のところが多い。ナイフやフォークに慣れないお年寄りが箸で食べられない。大きな声や笑い声もあげられない。客の会話が盛り上がっていたら、店側は注意しなければいけない。
「食べるよりも会話を楽しむ。その楽しさを、あのときフランス人に教えてもらいました。フランスの家庭料理が好きだし、もっと広めたいと思いました」
漠然とだが、自分が本当にやりたいこと、夢といえるものが見つかった。ただ、その夢をどう形にすればいいかわからない。帰国後、フレンチの名店2つを渡り歩きながら、タサンはグラグラと揺れ続けた。
「レストランで働くということは、技術を追い求めること。調理師学校の先輩や同級生は皆、独立して店を開くのが目標でした。だから、『おまえなら大丈夫。店、持てるよ』『いつ独立するの?』としか言われない。名店で働いていただけに、なおさら。親だって期待する。今思えば、すごく孤独でした」
撮影:鈴木愛子
レストランの休みの日はフランス映画を見て、フランス料理を勉強のために食べ歩いた。同級生などから飲み会に誘われても、そこに費やす時間もお金も惜しい。周りからは「変わり者」と思われていることも感じていた。
同級生は20代後半から続々独立し始めた。ところが、それをうらやましく感じられない自分がいる。
私がやりたいことは今の仕事じゃない。頭にあるのは、あの楽しそうに会話をしながら食事をするフランス人の家庭。思いが募りすぎて、逃げるようにレストランを辞めた。
15歳下の夫との出会い
夫とは留学費用を貯めようと始めたアルバイト先で出会った。15歳年下の夫からのプロポーズ、当初は本気にしなかった。
提供:タサン志麻
悩んだ末に、もう一度フランスに渡って家庭料理を勉強しようと思い立つ。ただ、お金がなかった。長い間、勉強にお金をつぎ込んできたからだ。
お金を貯めようと、フランス人の調理人がいる焼き鳥屋でアルバイトを始めた。そこならフランス人が集まるので、文化にも触れられる、と。
そこで出会ったのが、15歳下の夫だった。当時20歳だった彼からプロポーズされた。
「本気で言ってるの?」
「年齢は関係ない。2カ月待つから。ちゃんと考えてほしい」
「日本のアニメが好きで来日した夫は、日本語学校に通いながら、生活費を稼ぐためにアルバイトをしていました。すごくしっかりしていて15歳下とは思えないほど大人でした。自分が20歳の時にそんな決断はできないなって」
尊敬の念は愛情に変わった。36歳で結婚。フランス行きの夢は中断した。
「でも、フランスの家庭料理を楽しんでもらう夢は、最終的におばあちゃんになったときに実現したいって思っていましたね。ずっと、ずっと、ずっと、心の中にありました」
心の奥に大事にしまっていた夢は、この結婚を機に実現へと向かうことになる。
(敬称略)
(文・島沢優子、写真・鈴木愛子)
島沢優子:筑波大学卒業後、英国留学を経て日刊スポーツ新聞社東京本社勤務。1998年よりフリー。『AERA』の人気連載「現代の肖像」やネットニュース等でスポーツ、教育関係を中心に執筆。『左手一本のシュート 夢あればこそ!脳出血、右半身麻痺からの復活』『部活があぶない』『世界を獲るノート アスリートのインテリジェンス』など著書多数。