1979年山口県生まれ。大阪あべの・辻調理師学校卒業後、日本の老舗フレンチレストランなどで15年間勤務。2015年フリーランスの家政婦として独立。
撮影:鈴木愛子
人気料理家となった今でもタサン志麻(40)はあえて「家政婦」を名乗っている。フレンチの名店から一般家庭へ。そこで見つけたものとは。
結婚したとはいえ、働いて生活費を稼がなくてはいけない。
そこでタサン志麻は、家事代行のマッチングサービスに登録した。家政婦ならば料理の仕事も含まれるから、自分のシェフとしての経験が活かせる。ずっと作りたかった気取らない家庭料理が作れるかもしれないという期待があった。
ところが、最初待っていたのは掃除の依頼だった。
「半分くらいが掃除の依頼でしたね。あとは洗濯、ペットのお世話もありました。お客さんがついてほしいので、一生懸命やりました。ただ便器を磨きながら、私、何をしているんだろうって。ああ、この先どうなっちゃうんだろうと不安を感じたこともありました」
15年間、糊のきいた真っ白な調理服を着て、コック帽をかぶり、フレンチの名店で働いた。その自分が、今は他人の家を掃除している。
最初は誰にも話せなかった。親にさえも。「今、何してるの?」と同級生に聞かれると、「料理を作る仕事を始めた」と当たり障りのないことしか言えなかった。そのうち会うのを避けるようにもなった。
「私のやりたかったことは、これ」
出かける家庭によって、ある材料も道具も違う。ボール1つ、菜箸1膳でも10品以上の献立を作り上げる。
撮影:鈴木愛子
そのうち、依頼された掃除などを早めに済ませて時間が余ると「じゃあ、お料理も」となった。依頼者たちは、目の前の家政婦がフレンチの名店で修業を積んだ元シェフとは知らない。テーブルに並んだ数々の料理に感嘆の声を上げた。
「フレンチなんてレストランで食べるものだと思っていたのに、家で食べられるなんて!」
「子どもと一緒においしくいただきました」
「うちの冷蔵庫に入ってたものが、こんなことになっちゃった」
サイトのレビューに並ぶ感想を見て、涙がこみ上げた。
「このとき、『そうそう、これなんだよ!私のやりたかったことは!』って気づいたんです。フランスの家庭料理をこうやって食べてもらうことなんだって。
レストランでは緊張していて笑顔がなくて。そういうのが嫌でした。特に日本人はフランス料理といえば、かしこまってしまう。それが寂しかった。もっと気軽に食べてほしいし、作ってほしい。『おばあちゃんと箸で食べました』『子どもが全部たいらげました』と聞いて、心から嬉しかった」
家政婦で知った母親たちの大変さ
夫と子ども2人と住んでいるのは下町の古い一軒家。道具も家も古いものに愛着がわく、という。
撮影:鈴木愛子
同時に、日本のワーキングマザーの現実も知った。
多くの家庭では夫の帰りは遅く、家事も育児もすべて妻によるワンオペの確率が高かった。「くらしHOW研究所」が自サイトで公開している「ワーキングマザー実態・意識調査」では、夫婦の家事・育児の分担が夫22%、妻78%だから、タサンの感覚通りと言える。
依頼者の中には保育園がなかなか見つからず、自宅から保育園まで片道50分かかる人もいた。そんな過酷な状況に置かれた母親は、夕食を自分で作りたくても作れない。自分と同年代の女性たちが「助けて」と悲鳴を上げていた。
「家政婦になるまで、日本人のお母さんがこんなに忙しく、食事作りに苦労しているなんて知らなかった。私はフランス料理のレストランですごく手の込んだ料理をしていたけれど、手のかかるものでなくていいんだと思いました。とにかく、お母さんたちを楽にしてあげたい。家族と一緒に食べる楽しさを伝えていきたいと思いました」
撮影:鈴木愛子
もうひとつ、気づいたことがある。
行った家によって、材料も道具も違うから臨機応変に対応しなくてはいけない。
レストランは真逆の環境だ。材料は厳選され、必要な調理道具はそろっている。切り方はこう、焼き方はこう、使う道具はこれ、すべて決まっていた。
「でも、家政婦は『こうでなくては』では何も作れません。頭がガッチガチだったのが、ふわーっと心が溶けていくような気がしました。『ああ、これか!』って、気づいたんです」
当時登録していた家事代行マッチングサービスでは、1回の依頼は3時間まで、と決められていた。最初は3時間をオーバーしたり、自分が思ったほどの品数を作れなかったり。焦って料理を焦がしたこともあった。材料を残して帰るわけにもいかないので、制限時間を超えた部分は無料でサービスした。
タサンの自宅のキッチンもシンプル。夫や友人たちでDIYで作り上げた。
撮影:鈴木愛子
だが、繰り返すうちに、自分の中にワインの澱のように沈殿していた「こうでなければ」を捨てた。
料理に大切なものは道具でも、レシピでもないことに気づいた。
マッシュポテトを作るとき、ジャガイモを濾すこし器がなくてもザルで濾せばいい。ピーマンがあるからチンジャオロースをつくろうと思ったが、タケノコがなければ、シャキシャキした触感のジャガイモやモヤシで代用できる。サッと炒める工夫さえすればいいのだ。
「大事なのは、みんながテーブルを囲んでワイワイ言いながら食べる。フランスで教わったことが、初めて報われた気がしました。ジグザグ、ジグザグしながら、やっと辿り着いた。悩んでいるときはつらかったし、孤独だったけれど、自分に嘘をついて独立して店を出したりしなくてよかった。自分の好きなことを追い求めてきてよかった」
目指すのは、家族一緒に楽しく食べられる温かい食事。
それは、閉塞感漂う現代に生きる料理人の新たな役割なのかもしれない。
(敬称略)
(文・島沢優子、写真・鈴木愛子)
島沢優子:筑波大学卒業後、英国留学を経て日刊スポーツ新聞社東京本社勤務。1998年よりフリー。『AERA』の人気連載「現代の肖像」やネットニュース等でスポーツ、教育関係を中心に執筆。『左手一本のシュート 夢あればこそ!脳出血、右半身麻痺からの復活』『部活があぶない』『世界を獲るノート アスリートのインテリジェンス』など著書多数。