マサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学者アビジット・バナジーとエステル・デュフロは、ハーバード大学のマイケル・クレマーとともに、2019年のノーベル経済学賞を受賞。
Hollis Johnson/Business Insider
- アビジット・バナジーと エステル・デュフロは2019年のノーベル経済学賞を受賞。開発経済学における功績が認められた。
- 二人はBusiness Insiderの取材に応じ、移民から気候変動まで今日最も差し迫った問題について、エビデンスに基づく経済学の視点から語った。
マサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学者、アビジット・バナジーとエステル・デュフロは、貧困問題への対応策を見直そうと取り組んできた。医療分野で使われている「ランダム化比較試験(RTC)」を用いた彼らのアプローチは一見シンプルに見えるものの、きわめて革新的な手法で、結果としてノーベル経済学賞を受賞した。
二人は現在、貧困に苦しむ何百万人もの生活を向上させたそのアプローチを用いて、今日の世界における最大の政治的課題に取り組んでいる。新著『Good Economics for Hard Times(厳しい時代のための良き経済学)』は、米中貿易戦争や移民問題について検討し、膨大な調査から結論を導き出している。
夫婦であるバナジーとデュフロと新著について話していると、2人がお互いを自然に引き立て合っているのがよくわかった。長いこと共同作業を続けてきたので、いまでは新しい課題に取り組む際に、お互いの速記が読めるまでになったそうだ(バナジーは「彼女は暗号みたいな私のメモを誰よりもよく理解できるんですよ」と話してくれた)。
なぜ開発経済学に研究分野を定めたのか。なぜランダム化比較試験というアプローチを用いることにしたのか。そして「良き経済学(good economics)」とは何なのか、二人に聞いた。
「良き経済学」という視点
エステール・デュフロ(以下、デュフロ):『厳しい時代のための良き経済学』を書こうと思ったのは、政策に関する議論が二極化していると感じたからです。事実とは異なる議論が行われるとか、議論がまったく行われないとか、極端なケースがやたらと目につきます。
それを痛感させられたのは、イギリス国民投票でEU離脱が決まり、ドナルド・トランプが大統領に選出された時期(トランプ大統領の立候補宣言は2015年6月、EU離脱を決めた国民投票は2016年6月)です。トランプ大統領の就任前から、この本を書こうと決めていました。愚かしい言論が政治的議論の場を占めるようになるという危機感があったからです。
その時期、非常にショックを受けたことの1つは、経済学者の言葉には世の中の誰一人として関心をもっていないように感じられたこと。私たちの本では、調査会社YouGovがイギリスで行った世論調査(2017年)を紹介していますが、そこでは「経済学者は政治家以外で最も信用ならない人々」という調査結果が出ています。
2018年にアメリカでも同じ質問をしてみたところ、結果は同じでした。
Business Insider(以下、BI):開発経済学におけるお二人の研究成果は、専門領域以外にも応用できるプロセスを生み出したのではないでしょうか。
アビジット・バナジー(以下、バナジー):前作『Poor Economics(貧乏人の経済学)』で言いたかったのは、「実際にはこんな事実があるのに、それに目を向けなくても、けっこううまくやれてしまっている」ということでした。当時は話題にものぼりませんでしたが。
しかし、アメリカにとって最重要の課題に取り組む最も優秀な人たちを含む多くの人たちが、いまこの本に目を向けはじめています。
この四半世紀ほどの間に、経済学はよりエビデンスに基づいた研究領域へと変わってきました。それによって、人々が主張することはしばしば事実と異なるということが、ある程度はっきりしてきたと思います。
デュフロ:『貧乏人の経済学』を含めたこれまでの私たちの研究成果から、直感的な思いつきはたいてい誤りであることがわかっています。何十年も疑問を感じなかったようなことは特にそうですね。直感を事実と突き合わせてみると、驚くことが多々あります。
いま私たちはそうしたアプローチを、移民問題や貿易戦争、二極化など世界が抱える課題に応用しようとしています。
アビジット・バナジー。
Hollis Johnson/Business Insider
経済学者も驚く新たな事実の発見
BI:そうした方法で課題一つひとつに対処していくと、お二人でも驚くような発見があったりするのでしょうか?
デュフロ:スキルの低い移民労働者が流入しても、地元にいるスキルの低い労働者の賃金には変化がない、という研究成果がその一例ですね。多くの人が何となくわかっていたのに、見て見ぬふりをしてきたわけです。私たちは同僚の研究者たちからくり返し聞かされてきたので、特段驚きませんでしたが、世間の多くの人たちにとっては驚くようなニュースだと思います。
ほかに、それまであまり自覚していなくて驚かされたのは、人間は地理的にあまり動かないという事実です。『厳しい時代のための良き経済学』を書くまでは認識がなかったのですが、アメリカでは、1年間のうちに郡境を越えて引っ越す人はもはや3%ほどしかいません(1950年代は7%)。
多くの人にとって驚きの発見だと思うのですが、私たちがこの話をしようとすると、そんなことに興味はない、聞きたくないという人ばかりなので逆にびっくりさせられます。
「紛れもない事実」だけに目を向ける
BI:お二人は、世界的に右派ポピュリズムや排外主義が台頭していることについても分析されていますね。その逆の動き、とりわけアメリカやイギリスでの左派の復活をどうご覧になっていますか?
アメリカに目を向ければ、現代は「金ぴか時代」あるいは「金メッキ時代」(=資本主義が急速に発展を遂げた、1865年の南北戦争終結から1893年恐慌までの28年間を指す)の再来で、だから当時と同じような進歩主義や排外主義な動きが出てきているのだ、という見方もあります。
バナジー:自分はそう考えていませんでしたが、当時と現在を結びつけて考えるのは非常に良いことだと思います。金メッキ時代のように、メディアが非常に重要な役割を果たし、神話と現実の間にあるギャップをさらけ出すのが重要視されている状況は、現在と共通しています。
結局、アメリカは(何もないところに突如誕生したわけではなく)土台の上に築かれてきたのです。自由と平等の原則によってのみ統治される唯一無二の国アメリカという理想と、当時現実に起きていたことはまったく食い違っていました。
ここに来て再びそうした事態が起きていると思います。いま起きていることを否定しようと思えば、いくらでもできます。逆に何らかの方法で現状を維持することもできます。でも、つじつまが合うことは決してないのです。
私たちの目に見えるのは、紛れもない事実だけなのです。例えば、薬物やアルコールへの依存症と自殺の増加によって、白人の死亡率が上昇していること、これは間違いのない事実です。
金メッキ時代にも同じように、「くだらない話はやめろ。この先結局どうなるのかなんて、私たちには想像できないんだから」といった、事実だけを見ようとする意識がありました。
低所得層への対応に悩む右派と左派
デュフロ:本のタイトルにある「厳しい時代」という言葉は、アメリカだけでなく、イギリスの現状にも当てはまります。
イギリスでも同じようなことが起きました。幾度もの分裂や混乱を経て、たくさんの人たちの苦しみの上に多くの富が築かれたのです。にもかかわらず、ここ数十年の間にゆっくりと、ゆっくりと、右派も保守本流も、所得分布の下位50%にいる人々の存在に関心を示さなくなってきました。
右派は、もとからそうした問題にはまったく関心がない。まあ、右派政党というのは一般的に低所得層の権益を代表する存在ではないので、当然かもしれません。
左派は、より教養ある人たちの政党に変化してきていて、アイデンティティやインクルーシブネス、リベラル(=個人の自由を尊重する立場)に関することなど、教養ある人たちが大事にする価値のために戦うようになっている。もちろんそれは悪いことではありません。ただ、階級に基づいた社会のあり方に反抗することは、すっかり諦めてしまっている。
このような社会のあり方はもう長くはもたないので、所得分布の下位50%の低所得層に何かを提供しなくてはマズいことになる。右派と左派の両方ともそのことにようやく気づいた、というのが足もとの状況です。
右派はいま、アイデンティティに訴える左派の戦略に学び、こう主張しています。「我々は低所得者たちのアイデンティティを取り戻す。お金は持っていなくても、社会的地位を再び与えることはできる。低所得者たちは社会から完全に見捨てられたと感じている。彼ら彼女らは経済戦争の犠牲者なのだ」と。
一方の左派は、より伝統的な経済ポピュリズム(迎合主義)に回帰できるのか、つじつまの合う論理づくりに取り組んでいます。言ってみれば、左派を富の再分配を行う政党として位置づけ直すような感じです。
エステル・デュフロ。
Hollis Johnson/Business Insider
「メディケア・フォー・オール」だけでは足りない
バナジー:最近よく「富裕税」について耳にします。でも、実際に政府が何をするのかというと話は全然聞こえてきませんね。「メディケア・フォー・オール」(米連邦政府が運営する国民皆保険。医療保険制度の改革案として民主党が提案)も同じで、その言葉だけが聞こえてきて、中身が何なのか全然わかりません。
デュフロ:確かにメディケア・フォー・オールは大きな話題になっていますね。
BI:お二人はネガティブに見ているようですね。
デュフロ:そうですね。
バナジー:そのとおりです。
BI:なぜでしょうか?
デュフロ:言いたいことはたくさんあります。(上院議員の)ウォーレン候補とサンダース候補はメディケア・フォー・オールを提唱し、(実業家の)ヤン候補は「ユニバーサル・ベーシック・インカム」を主張している。けれども、富の分配について議論すべきことはほかにもたくさんあるんです。
バナジー:メディケア・フォー・オールの核心は、いかなる文明社会においても、すべての構成員が一定程度の医療を受けられるようにすべき、ということだと理解しています。
メディケア・フォー・オール自体は別に悪いものではありません。しかしそれとは別に、本当にはっきりとした危機が存在するところにまとまった数の人々がいて、30年間以上も衰退を続けているのに、その人たちを救いだす試みがまったくなされていない現実があるのです。
「あまりにひどい仕打ちを受けてきた人たちの存在に、きちんと目を向けよう。その人たちをいまいるひどい場所から救いだす方法を考えよう」という声が挙がらないのが驚きです。
それと、メディケア・フォー・オールの実体がよく見えないのは、政治的な失策ではないかとの認識が世間にあるように思います。いずれにしても、何も知らずに経済(政策の)変化の犠牲になった人たちに対し、現実的かつ具体的な対策を取っていく態度だけは明確にすべきでしょう。具体性を欠くと、厄介なことになると思います。
デュフロ:メディケア・フォー・オールの財源として、最大6%の富裕税を正当化するのは無駄に思えますね。政府の正当性は危機にさらされています。私たちも『厳しい時代のための良き経済学』の中で、富裕税を導入するのなら、そのお金を使って(国民皆保険より)人々の生活にとってより優先度の高い何かをすべきだと書きました。
BI:具体的には何が優先されるべきなのでしょう?
デュフロ:アビジッド(・バナジー)が先ほど話したことです。真正面からダメージを受けた人たち、つまりは職を失った人たちを救うこと。30才前後で身体の動く健康な人に対しては、違う支援の仕方も考えられるでしょう。本に書いた例だと、復員軍人援護法(GI Bill)のようなプログラム。雇用保険から高品位の大学教育まで、就職への移行期を段階的かつ広く支えるものです。
他の方法として、住宅や育児への支援も考えられます。政府の予算が十分に確保できるなら、環境に優しい仕事や、幼稚園や保育園、高齢者介護など、社会のためになる仕事を新たにつくり出すのも一つの方法です。
身体を動かせない人たちへの対応も不可欠です。人としての尊厳を失う前に、そうした人々を探し出し、平穏な日々を送れるよう助成金などで支える必要があります。
私たちは別にこうしたことが世界一素晴らしいアイデアだと言っているのではありません。でも、誰かがこうしたアイデアを採用して実行する必要があるのです。こうしたことが真っ先に議論されないことに驚きを覚えるくらいです。
BI:環境に優しい仕事といえば、お二人は気候変動についても研究されています。アメリカ政府は2019年11月、パリ協定からの離脱を国連に正式通告しています。環境問題については何の進歩もないと極端な意見を言う人もいます。何かが達成される見込みはあるのでしょうか?
バナジー:難しい質問ですね。気候変動はいま、アメリカの外で話される政治的な話題になっていて、国内では大した議論が行われていません。どうしたら再び議論を始められるでしょうか。
まずは政府への信頼を回復するための投資が大事です。本当に助けが必要な人たちはみな、「そんなものは全部詐欺だ」と考えているように思います。そうした深く根づいた政府への懐疑心こそが、問題の核心なのではないでしょうか。どんな政策が提案されても、人々はエリートによる詐欺の一種だと考える。そうしたリアクションのあり方を変えねばなりません。
とはいえ、民主党の(大統領選)候補者たちがこの問題に踏み込まないのは正解だと思います。票を稼げるとは思えませんし。それより、苦しんでいる人々のためにすぐにできる何かを始めなくてはなりません。何かを約束して、実行する。それで自信がつけば、人々はもっと優しくなりますから。
資本主義をもう一度考え直す
BI:ここまでお聞きしたような低所得層への配慮や富の再配分への関心は、現在のネオリベラル(=国家による福祉・公共サービスの縮小と規制緩和、市場原理主義を重視する考え方)な世界秩序に対するリアクションと考えていますか?また、それは一時的な盛り上がりなのか、あるいは現実的な方法で資本主義を再考する世界的な動きなのか、どちらなのでしょう?
バナジー:資本主義を考え直しているのだと思います。再考することで何か得られるのかは、また別の問題ですが。
BI:実際の変化へとつながっていく兆しはありますか?
デュフロ:政治的には、絶対的指導者を選出して、民主主義を諦めるという動きがすでに出てきています。そうなると本当に劇的な変化が生まれるでしょう。経済システムをはじめとする私たちの生き方すべてを変えてしまう可能性がある。
何とかそのような展開を回避できたとしても、経済政策についての誇張された議論はこれからも続くでしょうね。例えば、増税に賛成するのは、共産主義に賛同するのと同じことだと言われたり。
私たちは、かなりの増税が行われても、悪いことは何も起きないと考えています。なぜなら、人は自分たちがどのくらい働くかを決める際に、税率をそれほど意識していないからです。最初、経済は何とか回っていって、そのうち政府にお金ができて、被害を受けた人々を助けたり、雇用を増やしたり、教育や、新しいエネルギーに移行するための投資もできるようになるのです。
気候変動も同じで、世界の終末を迎えるか原始時代に戻るかの二択ではありません。結局は私たちの消費の仕方なんです。人間は消費の仕方に執着していないので、低コストで変えることができる。私たちは習慣の生き物で、ゆっくりと違う習慣へと移行させられても、その違いには意外に気づかないものです。
感情的な議論を抑え、課題について実利的に話し、一緒に解決しようとすれば、私たちが言っているよりもっと簡単に状況は変えられるし、社会的混乱も大きくならずに済むと信じています。
(翻訳・編集:Miwako Ozawa)