撮影:鈴木愛子
心理学者アルフレッド・アドラーの名を日本でも一躍有名にしたベストセラー、『嫌われる勇気』。2016年には続編となる『幸せになる勇気』(2019年11月現在、発行部数59万部)が刊行された。
『幸せになる勇気』は、前作で語られたアドラー思想の「実践編」と位置づけられており、「教育」が物語を貫く大テーマとなっている。実は、共著者のひとりである岸見一郎氏がアドラー心理学と運命的な出逢いを果たしたのも、きっかけは自身の「子育ての悩み」にあったという。
制作過程ではぶつかったことも
——もともと2冊目をお書きになる予定はなかったそうですが、最終的に執筆を決意されたのはなぜでしょうか。
発行部数200万部超えのヒット作『嫌われる勇気』(左)と、続編『幸せになる勇気』(右)。特徴的なのは、アドラー思想を知り尽くす「哲人」と、その教えに強く反発しながらも徐々に理解を深めていく「青年」による物語形式という仕立て。プラトン哲学の古典的な形式である「対話篇」を参照点にしている。
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古賀史健氏(以下、古賀):本というのは本来、1冊で完結すべきものだと思うんです。2冊目を出すということは、1冊目の中で語りきれないことがあった、不完全な本だったと認めることになる。僕は『嫌われる勇気』をそういう不完全な本だとは思っていませんが、それでも読者や出版社から続編を望む声も強くありました。
それで考えてみると、『嫌われる勇気』で語っていることは、僕が岸見先生から聞いた話や自分で調べた話を、半分伝聞のようにして書いているだけで、まだ自分の考えとまでは言えないなと思ったんです。
もし僕自身にマイクを向けられたら、「アドラーはこう言っています」「岸見先生はこう言っています」とは言えるけれど、「私はこう思います」とは言えなかった。
1冊目を書き終えてしばらくして、「もしかしたら『私はこう思います』と言ってもいいのかな」という気持ちが出てきたんです。それが、2冊目に踏み出せたいちばん大きな理由かもしれません。ですから2冊目のほうが、本当の意味での共著になったと思います。
共著者の古賀史健氏は「2冊目にしてようやく、本当の意味での共著になった気がする」と振り返る。
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岸見一郎氏(以下、岸見):『嫌われる勇気』の原稿を初めて読んだとき、古賀さんは本当にすごいなと思いました。なぜなら、私が語っていないことを、多々書いておられるからです。でもそれを私が読んだとき、「僕は絶対にこんなことを言わない」と思った箇所は1箇所もありませんでした。
私が伝えたいことを、私に代わってではなく、私を超えてよりよく伝えてくださった。そういう意味では、一心同体でした。だからこそ面白い本になったのだと思います。
古賀さんはさきほど“新しいメガネ”という比喩を使われましたが、2冊目はレンズの精度が高まっていると思います。『幸せになる勇気』のほうが、古賀さんがご自分の言葉でより語っておられる。だから制作過程でもよりぶつかるようなことが多かったですね。
——まさか物語の「青年」と「哲人」が繰り広げる議論の応酬のように、2冊目の制作過程でお2人がぶつかったとか?
古賀:いえ、もちろん静かに話し合いました(笑)。2冊目は「教育」が大きなテーマだったのですが、僕は子どもがいないので想像や理屈で考えるしかない。それに対して、先生は子育てを実践されているし、奥様も小学校の先生をされている。だから僕が理屈でぶつかっていき、それに対して実践の言葉で返される、ということが多かったように思います。
続編『幸せになる勇気』の制作過程では、数十時間にわたる議論を重ねたという。
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保育園の送迎に苦闘する日々が「アドラー」で変わった
——続編となる『幸せになる勇気』は、「教育」が大きなテーマになっています。岸見先生は『嫌われる勇気』のあとがきで、「30代に入って子どもが生まれた頃にアドラー心理学と会った」と書かれていますね。当時はどのような悩みを抱えていたのでしょうか。
岸見:私の妻は小学校の教師をしていたのですが、息子が1歳になった時点で育児休業が終わり、職場に復帰しました。そこで私が昼間子どもを見ることにしたのですが、これが甘かった(笑)。
自転車で保育園へ送ろうとしても、いやがって自転車に乗ろうとしない。仕方なく保育園まで子どもを抱きかかえて行ったこともあります。そういう経験から、親が子どもの意思に逆らって何かをさせることは、不可能だということに思い当たったのです。
そんなふうに悪戦苦闘しているとき、友人に勧められて初めて読んだのが英語で書かれたアドラーの『子どもの教育』という本でした。
それを読んだときに受けた衝撃は、おそらく『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を読んだ方が受けた衝撃と同じようなものだと思います。
その本には子育てのテクニックのようなことはまったく書かれていない。人間の行動をどうとらえるかを哲学的に考察する本だったのです。それを読んで「なぜ」子どもが、例えば自転車に乗ることを嫌がるのかがわかりました。アドラーが問う「なぜ」は原因ではなく、「目的」であることを知った時は衝撃を覚えました。
これがきっかけとなり、「これしかない」と思ってアドラー心理学を学び始めたのです。すると、明らかに子どもとの関係が変わりました。
岸見氏のアドラーとの出逢いは、英語で書かれた『子どもの教育』。現在は岸見氏による翻訳版で読むことができる。
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のちに娘が生まれたときは、すでにアドラー心理学を学んでいたので、子育てはずいぶん楽でした。娘が保育園に行くことを嫌がったのは最初の1日だけ。初日に送っていったときは別れる時に泣き出しましたが、保育士さんに「必ず30秒で泣きやみます」と言って保育園を後にしました。
保育士さんは最初、私の言葉を信じられなかったようです。でも夜迎えに行ったら、こう言われました。「お父さんが園を出ていかれた後、時計を見て時間を測っていたんです。そうしたら15秒で泣きやみました」。
もし保育士さんが泣いている娘に関わっていたら、娘はきっと泣き続けたと思います。でも保育士さんは時計を見ていたので、娘は「泣いても無駄だ、注目してもらえない」ということを知り、泣きやんだ。そうしたら保育士さんに関わってもらえた。それからというもの、娘が保育園に行くのを嫌がったことは一度もありませんでした。
このように私は最初は、研究者でも専門家でもなく、一人の親としてアドラー心理学に関わりました。
ですから『嫌われる勇気』にも『幸せになる勇気』にも、私自身が子どもとの関係の中で実践できたことしか書いていません。極論に聞こえるかもしれませんが、「勇気の二部作」を読んだその日から、対人関係は変わります。アドラーの教えは、それくらいパワフルな心理学なのです。
1人の親として子育てに悪戦苦闘していた岸見氏だったが、アドラー心理学を知ったことで、子どもとの関係は一変したという。
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アドラーは「心理学」と言えるのか
——素朴な疑問なのですが、『嫌われる勇気』で紹介されているアドラーの教えは、「心理学」と呼んでよいのでしょうか。心理学は、人の心の動きについてある程度科学的に検証でき、普遍化できる領域を扱う学問ですが、それとは少し違いますね。
岸見:そういう意味では、今日使われているような狭い意味での心理学とは、ずいぶん違うという印象を持たれる方は多いでしょう。
アドラー自身は自分の心理学を「個人心理学」と称しており、「個人心理学は科学だ」と言う一方で、「形而上学だ」とも言っています。
ただし、彼の言う「科学」は、いまわれわれが使う意味での「科学」とは違います。また、個人心理学の「個人」という言葉には意味が2つあって、1つは「これ以上分割できない」という意味です。
アドラーは、心と身体、理性と感情、意識と無意識というように人間を二元論的に捉えるのではなく、「全体としての人間」を考察します。わかっているけれどできないとか、ついカッとするというようなことはなく、全体としての人間がどこに向かおうとしているかを見ていくということです。
「個人」のもう1つの意味は、「ほかの誰にも置き換えることができないユニークな」という意味です。独自な個人を扱う心理学ですから、一般的な人間を考察しません。人間は1人ひとり個性があって、違いがある。そういう独自性を見ていくのがアドラー心理学なので、その意味では人間を一般的に考察する科学的な心理学ではありません。
アドラー心理学はものの見方でもあり、生き方でもあり、幸福のあり方を追求する学問でもあります。ですから「哲学」といったほうが、アドラーの考えは伝わるでしょうね。
幸福のあり方を追求した「勇気の二部作」は、心理学というより「アドラー哲学」と呼ぶにふさわしい(写真はイメージです)。
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「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」に続く、第3の勇気とは
——では最後にお聞きします。「勇気の二部作」はこれで完結し、さらなる続編はないとのことですが、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」と来て、もし次に私たちに必要となる勇気があるとしたら、それは何でしょうか?
岸見:3冊目の本のタイトルなどとは関係なしに聞いてもらえるとしたら、「生きる勇気」ですね。これは『嫌われる勇気』の中にも出てくるメッセージでもありますが、人間は生きることに価値がある。そのことを、こんなに生きづらくなった時代に、いよいよわれわれは知らなければならないと思います。
古賀:『幸せになる勇気』の最終章は「愛」がテーマですが、愛するって怖いことだと思うんです。
自分自身は安全地帯にいて、そこから炎上している人を攻撃したり、文句を言ったりするのは楽ですよね。けれど、もし自分の友達がみんなから責められているとき、「おれはお前の味方だよ」と言ったり、「こいつはそんなやつじゃないよ」とかばったりして、自分の愛を表明するのはかなり勇気がいることです。
でもいま本当に必要なのは、そういう誰かを「愛する勇気」かもしれない。これは岸見先生のおっしゃる「生きる勇気」と通じる部分があるのではないでしょうか。
(完)
(敬称略、構成・長山清子、取材/編集・常盤亜由子)