1981年生まれ。大学時代に途上国開発のテーマに出合う。2006年にマザーハウスを設立。バングラディシュなど6カ国でバッグやジュエリーなどを生産。日本や香港などで38の直営店を展開。
撮影:竹井俊晴
「私、やればできるんだけどな……」
物心ついた時から、山口絵理子(38)は鬱屈した思いを抱えていた。
集団行動が苦手で、友達や先生と話そうとしても言葉が出てこない。小学校に通えない時期も長らく続いた。
成績は決して悪くなく、漢字ドリルや計算ドリルも難なく解ける。ただ、教室でクラス全員と足並みを揃えるという方法ではできなかった。
「よーい、どん!」と吹かれる笛で足が止まったマラソン大会の日、放課後になると校庭で1人で走っている。そんな子どもだった。心配した教師から推薦され、支援を受けるための施設に母親と訪ねたことも何度かあった。
「学校では誰も本当の私を見てくれない。“できない子”とレッテルを貼られている。でも、本当は、私もちゃんとできるんだ!!」
ぐちゃぐちゃの胸の内を、日記に書き続けていた。その日記に毎日、「がんばったね」「明日もがんばろうね」と返事を書いて見守る母の存在に救われた。
“モノ”を通じてなら語り合える
撮影:竹井俊晴
父親からは絵心を受け継いだ。不動産事業を営んでいた父は芸術を愛し、時間を見つけては油絵や陶芸の制作に没頭していた。その背中は、「言葉でうまく表現できなくても、手を動かして、内なる思いを表す方法はあるのだ」と教えてくれた。
いつしか山口もスケッチを描き、粘土をこねることで、心を整えるのが習慣になった。
「私がモノづくりをやめられないのは、モノづくりに救われたから。手を動かす幸せを知らなかったら、私はどうなっていたかわからない。描いた絵を『上手だね』と褒めてもらえた時、私は存在を認められた気持ちがしたし、もっとうまくなってやろうと頑張れた。
言葉で伝えられなくても、“モノ”を通じてなら語り合える。同じことを、私は今もやっているんだと思う」
山口が小学3年生の時、バブル崩壊の影響で父の事業が大きく傾いたことは、一家にとって大きな事件だった。
「豪華な家から寒くて狭い家へ」と引っ越しを余儀なくされ、生活が一変した。毎日のように取り立てが来る中、「これだけは絶対に売るものか」と父が離さなかったのは1枚の絵だった。最後に人の心の支えになるのは芸術なのかと、受け止めた。
「うちはどうして急に貧乏になっちゃったんだろう」と理不尽さを感じる山口の横で、父はひたすら明るかった。
「ワハハ。億単位の負債を抱えちゃったぞ。でもな、絵理子、借金だって財産になるんだ。見ておけ」
その後、見事に再生を果たしていく父に、「ビジネスってすごいな」と素直に思えた。
柔道で芽生えた“自力で勝負”
コミュニケーションが不得手な少女だった山口は小学校でいじめに遭い、その反動から中学校に入ると非行に走った。内側から湧き出るエネルギーの持って行き場に迷っていたのだろう。2年生になると、柔道に打ち込むようになり、誰よりも徹底して練習を積んだ。
やると決めたら、とことん妥協せず自分を追い込む。山口は埼玉県大会で優勝。柔道の名門で当時全国制覇の常連校だった埼玉栄高校からのスカウトを受けるも、「エリート環境で全国に挑戦しても面白くない」と、男子柔道部しかない大宮工業高校へ。
学校に掛け合って女子部を創設し、たったひとり、男子の練習に混ざって厳しい訓練に耐えた。
結果、山口は柔道で全国7位という成績を修めている。ここに、“自力で勝負したい”という信念の萌芽が見える。
開発援助の場で感じた現場との断絶
「この目で現地を見なければ、何もわからない」とインターネットで「最貧国」と検索してヒットした国、バングラデシュへと単身渡った。
山口さん提供
卒業後は「自分が生きづらかった世の中を変えたい」と、猛勉強の末に慶應義塾大学総合政策学部に入学。竹中平蔵氏の国際開発学の講義を受けたことをきっかけに、途上国に関心を向けるようになった。
開発援助の最先端を見ようと、大学在学中に米州開発銀行のインターンに参加。同級生が続々と内定を決める中、大学4年春から4カ月間、ワシントンで銀行業務のアシスタントとして働いた。
そこで感じたのは、“現場との断絶”。数字の議論ばかりがなされ、途上国のフィールドレポートはほとんど見られなかった。「この目で現地を見なければ、何もわからない」。インターネットで「最貧国」と検索してヒットした国 ——バングラデシュへと単身渡った。
現地では、想像を絶する現実を全身で浴びた。すぐ隣には失業やテロ、災害の悲惨な現場があった。
それでも、たくましく生きる人々の姿に胸を打たれた。そのまま現地の大学院に進むことを決め、昼間は日系商社のダッカ事務所でインターンとして働き始めた。
山口はその間、今でいうマッチングサービスのような事業を始めてみたり、NPOに話を聞きに行ったりと、「本当にこの国を豊かにする開発援助とは何か」を模索していた。
撮影:竹井俊晴
運命の出逢いをつかんだ場所は、インターンの仕事の一環で足を運んだ見本市だった。無造作に積まれたその布の名は、ジュート(黄麻)。丈夫で環境に優しく、加工がしやすい素材だと知った。何より、バングラデシュの大地と環境だからこそ育つ植物であることが、山口の心に火を付けた。
「この黄金の布をもっと輝かせたい。ここでしか生み出せない素材で付加価値の高いモノづくりをして、この国を豊かにしたい」
なけなしのバイト代をはたいて生地を買い、現地の工場に持ち込んで、見よう見まねでつくったバッグ160個。ミシンがけをしている職人に声をかけ、「これをこういうふうに縫ってみて」と頼んでみると、予想以上に出来がよかった。
「チャンスさえつくれば、ここでもっとできる」
その希望から、マザーハウスは始まったのだ。
(敬称略)
(文・宮本恵理子、写真・竹井俊晴)
宮本恵理子:1978年福岡県生まれ。筑波大学国際総合学類卒業後、日経ホーム出版社(現・日経BP社)に入社し、「日経WOMAN」などを担当。2009年末にフリーランスに。主に「働き方」「生き方」「夫婦・家族関係」のテーマで人物インタビューを中心に執筆。主な著書に『大人はどうして働くの?』『子育て経営学』など。家族のための本づくりプロジェクト「家族製本」主宰。