1982年生まれ。一橋大学卒業後、青年海外協力隊員としてシリアで活動。マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、2011年クロスフィールズ設立。社会人を新興国に派遣する「留職」開始。
撮影:今村拓馬
2005年、一橋大を卒業した小沼大地(37)は青年海外協力隊に参加し、赴任地であるシリアへと飛んだ。
小沼は自分を「あまのじゃく」と評する。高校時代は軟式野球部主将を務め、大学はラクロス部で21歳以下の日本代表に選ばれた。「ニッチな場所」での成功体験から、就職の際も同級生が商社や金融機関に入るのを横目に見つつ、協力隊に応募した。教師を志していたので、人間の幅を広げたいとの思いもあったという。
しかしシリアに行くと、小沼に課せられたミッションは数年前に打ち切られていた。派遣先のNPO職員には、会うなり「日本人が来るなんて聞いてない。何しに来たの」と言われる始末だった。
任地は人口2600人の田舎の村で、方言がきつすぎて日本で学んだアラビア語は全く通じない。
村に着いた初日、珍しいアジア人を見ようと何十人もの子どもが家に入ってこようとした。日本語で「うるさい!」と怒鳴って彼らを追い返し、小沼は1人、家の中で頭を抱えた。
「すごいところに来てしまった……」
小沼が「人生で最も苦しかった期間の一つ」と振り返るのが、この時期だ。
「何といっても、やるべき仕事を自分で見つけなければいけないのがつらかった」
部活も就職も、達成すべき目標とやるべきことははっきりしており、それに向かって走ればよかった。しかし自分は、いったいシリアで何をすればいいのか……。
小沼は少しずつ、住民に聞き取り調査を始めた。自宅を訪ね、ふるまってくれる「とてつもなく苦い」コーヒーを飲みながら、ジェスチャーを交えてお金の使い方などを聞く。配属されたNPOのマイクロファイナンス事業に生かすためだ。数カ月で方言にも慣れ、仕事も楽しくなっていった。
「シリアの方が幸せ」目を輝かせる友がまぶしい
青年海外協力隊時代、赴任先の村でNPO職員らと。少しでも村を良くしようと働く現地職員や、コンサルティング会社から派遣されてきたドイツ人らに多くの刺激を受けた。
小沼さん提供
協力隊の活動は、「貧しい国の、持たざる人々」を、先進国から来た隊員たちが救う、といったイメージを持たれがちだ。しかし小沼は村で暮らすうちに、「この人たちは日本人より、絶対幸せだ」と思うようになる。
村は、決して裕福ではなかった。人々はやせた土地で野菜を作ったり家畜を飼ったりして、質素な家に暮らしていた。しかし住民の1人は小沼に「この村には何でもあるだろう」と、自慢したという。
金を借りて買い入れた牛が死んでしまったと話すが、悲壮な顔をするでもない。男たちは近所の人たちとコーヒーを飲み、たわいない話に興じていた。彼らが家族や友達と一緒に過ごす時間、そして笑っている時間は、日本人よりはるかに長いように感じられた。
小沼は後年、貧困の実態を知るため、アフリカのスーダンやエチオピアも訪れた。
「でも『貧困』地域が見つからないんですよ。みんな笑っている。社会の豊かさというのは、結局のところ身近な人とつながって、自分らしく暮らせることなんだと実感しました」
シリアでは、尊敬する友人もできた。小沼と同じNPOで働く彼は目を輝かせて、「私が働けば働くほど、この村は、この国は良くなっていくんだ」と語った。その姿が、小沼にはまぶしく映った。
日本には学歴や一流企業というブランドにとらわれた人たちがいる。彼らはシリアの友人のように「社会の役に立っている」という実感を持てたことがあるだろうか。自分がこの国で目の当たりにした価値観を、日本人にも知ってもらいたい……。
ただこの時は小沼もシリアの友人たちも、この国に数年後、何が起こるかなど想像もできなかった。
ビジネスの力でNPOを「カイゼン」
協力隊時代、シリアの小学校にて。当時はいずれ教師になりたいという希望もあった。
小沼さん提供
協力隊の活動を通じて「ビジネスの力」を痛感する出来事もあった。
赴任先のNPOには、コンサルティング会社からドイツ人が2人派遣されていた。小沼の上司に当たる彼らは、それまで漠然としか把握されていなかった活動の成果を数値化するなど、作業のプロセスを「カイゼン」していった。首都から離れた村にいる小沼も、みるみるうちに作業が効率化され、それによって住民の生活が向上していくことを肌で感じた。
同時に、ドイツ人たちにも変化があった。住民が喜んでいる様子を直接目にしたり、「ありがとう」の言葉をもらったりすることで、仕事への熱意を高めていったのだ。
この体験がやがて、「ビジネスと社会貢献をつなぐ」という小沼の決心につながっていく。ただこの時小沼は、ビジネスを経験したことがなかった。NPOのドイツ人上司に相談すると「ビジネススキルを学ぶなら、私たちのようにコンサルティング会社に勤めてはどうか」と勧められた。
2年の派遣期間を終え、ただでさえ「熱い男」である小沼は、さらに希望に燃えて、日本への帰途に就いた。
同級生に言われた「大人になれ」に衝撃
撮影:今村拓馬
だが母国で目にしたのは、疲弊する人々の姿だった。
「電車に乗ったら、おじさんたちが吊革につかまってぐったりしている。あまりにもシリアの人たちと対照的で、ここにこそ『貧しさ』があると思いました」
社会人となった同級生にも、同じ姿を見てしまう。
大学時代の友人たちが開いてくれた帰国祝い。小沼は居酒屋に集まった20人ほどの参加者に自作の資料を配り、経験を熱く語り始めた。
「一気に引かれてしまい、ショックでした」
小沼が資料を持ち出したのには、それなりの理由がある。2年前は友人たちも、同じように熱かったからだ。商社の仕事を通じて途上国の人たちに貢献したい、銀行員になって、中小企業やベンチャーを元気にしたい……そんな夢を語っていた。だが座が白ける中、1人が諭すように言った。
「小沼、大人になれよ。そんなんじゃ社会で通用しないぞ」
「2年前は輝いていた彼らが、『週末が来るのが楽しみ』なんて言っている。がっかりしたし、スケールが小さく見えた」
と、小沼は語る。
再会の時期も悪かった。大企業の社会人2、3年目と言えば大抵、使い回される上に、仕事の意味が完全には理解できていない年次だ。
「実際今会うと、彼らの多くは大きな仕事を任されて楽しそうに仕事をしているし、『一緒に何かやろう』と声を掛けてくれる人もいます」
ただ、だからといって若手が理想を失っていいはずがない。小沼は言う。
「社員は大組織の中で仕事に追われるうちに、社会に価値を生み出しているという手ごたえを感じられなくなってしまう。それは彼らと社会との接点が非常に小さいからです。IT化とグローバル化が、若者をますますリアルな社会から遠ざけ、目を曇らせてしまう」
こんな日本を、どうするか。
後の留職につながる構想が、漠然とながら少しずつ、小沼の中で形を取り始めていた。
(文・有馬知子、写真・今村拓馬)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。