1982年生まれ。一橋大学卒業後、青年海外協力隊員としてシリアで活動。マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、2011年クロスフィールズ設立。社会人を新興国に派遣する「留職」開始。
撮影:今村拓馬
2011年3月、小沼は品川駅前を全力疾走していた。
相棒の松島由佳(34)に電話して「起業できるぞー!」と絶叫した。とたんに、向こうも何事かを叫び始めた。クロスフィールズと留職が、実現に向かい始めた瞬間だった。
「3年で辞めます」言い放ってマッキンゼーに
協力隊から帰国した小沼は、シリア時代の上司のアドバイスに従ってマッキンゼーを受け、採用された。起業を念頭に置き、面接で「3年で辞めるつもりです」と言い放っての入社だ。
「完全な『伸びしろ』採用」で、入社直後は資料一つまともに作れなかったというが、そのうち「課題解決マシーン」として鍛えられていく。
社会を変えるという情熱を保ち続けるため、友人たちと「コンパスポイント」と名付けた勉強会も立ち上げた。同じような志を持つ若者を集め、社会起業家を招いて話を聴く。参加者の1人が、共同創業者となる松島だった。
松島もソーシャルセクターとの縁が深い。父親は出版社に勤めながら、カンボジアに病院を設立した。医療関係者でもない彼が、ゼロから事業を立ち上げる姿に感銘を受け、同じ社会貢献の道を志すようになる。東大在学中に、途上国の児童買春の問題に取り組むNPO「かものはしプロジェクト」の活動に参加し、その後は小沼同様、コンサル会社に勤めていた。
退職メールを送る瞬間に起きた東日本大震災
松島由佳とクロスフィールズを創業。最初の留職者が決まるまでは「企業の導入実績がない」ことなどを理由に、断られどおしだった。
撮影:今村拓馬
小沼と松島が共有していたのは「NPOとビジネスを、もっとつなげたい」という思いだ。2人は「留職」の原型となるプログラムを作り始めた。しかし当時は、企業社員の派遣先を国内のNPOに設定するなど、現在の形とはかなり違う、粗削りな内容だった。
小沼は参加企業を集めるために人事担当者らを回ったが、反応は冷たかった。
「言っていることが理解できない」「企業側にメリットがない」「帰ってくれ」
断られつつも、企業側の意見を取り入れ、海外派遣のプログラムへとブラッシュアップさせていく。そして2011年3月のこの日、大手企業の担当者から待ちに待った「導入を検討したい」という言葉が飛び出したのだ。
しかし、小沼がNPO設立のためマッキンゼーを退職したのが、くしくも2011年3月11日。
退職挨拶メールの送信ボタンを押そうとした時、東日本大震災の揺れが襲った。被災地支援に没頭し、2カ月があっという間に過ぎた。
5月、クロスフィールズ創業。企業への営業活動も一から出直しだった。ただ翌年、パナソニック社員が第1号としてベトナムに留職したことがメディアに取り上げられ、企業の関心が格段に高まった。
自分の意思で進める責任の重さ痛感
撮影:今村拓馬
「職業にとどまらず人生において、素晴らしい体験でした」
2019年5~8月、電通国際情報サービスからフィリピンへ留職した藤崎友梨(32)は力を込める。ウェブアプリなどのデザイナーである彼女は、貧しさなどから学校に行けない子どもたちへの学習支援を行っている団体に派遣され、eラーニングアプリの開発を統括した。
いざ仕事に就いてみると、職員約20人と聞いていた団体が実質的には5人程度で運営されており、開発が始まっているはずのアプリも「構想しかない」状態。藤崎はこうした想定外の出来事にもめげず「これまで日本で培ったスキルを、すべてアプリの開発に捧げた」という。
フィリピン人の職員たちは、アイデアマンで人が良い半面、スケジュールをあまり気にしない。彼らの働き方を「人生を大事にしている」と好ましく思う一方、「帰国するまでにここまでは進めたい」と、藤崎から意思を伝え、必要な作業をするよう求める場面もあった。日本では調整役に回ることが多かったが、「自分の意思で物事を進める責任の重さに気付きました」
団体のトップは「ユリが来てくれたから、開発が前に進んだ」と喜んでくれた。「お互いによい財産を築けたと思う」と、藤崎も振り返る。
社会課題解決が利益になれば
安川は留職で出会ったインドの人々から、「会社の中で夢を追い続ける」ことの大事さを学んだという。
安川さん提供
留職の経験を、その後のキャリアに活かし続けている人もいる。
NECの安川展之(36)は2013年7月から半年間、インドの企業へ留職。農村地域にある小規模店の受発注システム構築で目覚ましい成果を上げた。
5年後の今、インド人に多い糖尿病患者を減らそうと、訪問健診の仕組みを事業化しようとしている。貧しい農村地域の女性を教育して健診のスキルを身につけてもらい、出張訪問型の健診を低料金、または無料で実施する。集めたデータを分析して価値ある情報に変え、インドの保険会社や政府から利益を得ようというのだ。
「社会課題の解決が利益につながると証明すれば、他の部署でも同じような取り組みが加速し、NECが変わるきっかけになるかもしれない」
留職中の感激や熱意は、時間とともに薄れてしまうこともある。安川は帰国してからも、次の社会課題の解決へと転換することで、情熱の火を燃やし続けている。
2人の例を見ても分かるように、留職は日本企業の社員が現地の企業やNPOへスキルを提供し、プロジェクトを成功させる、という一方向のプログラムではない。言葉も文化も違う人たちと働くことを通じて、突破力や柔軟な考え方が身に付くなど、日本人側のメリットも非常に大きいのだ。現地で受益者とじかに接することで、社会の役に立ったという実感を得られ、就職当時の情熱を取り戻すこともある。
「マッキンゼー・プライス」を落とさずに
撮影:今村拓馬
アメリカでは2000年代後半から、IBMやアクセンチュアなどのグローバル企業を中心に、社員を開発途上国などへ派遣するICV(International Corporate Volunteering=国際ボランティア)が広がっている。社会貢献という文脈だけでなく、組織の活性化や、将来の市場である開発途上国の実態を把握できるといった企業側のメリットも期待できるためだ。
ただ、クロスフィールズが留職プログラムを始めた2011年当時、日本国内ではこうした制度はほとんど知られていなかった。大企業を中心に「グローバル人材の育成」が盛んに叫ばれ、海外での研修に対する企業側のニーズが高まっていたことも追い風になった。
クロスフィールズは創業翌年から黒字経営を続けている。グローバル人材の必要性の高まりによって参加企業が増えたことに加えて、「安売りしなかった」のも一因だと、小沼は分析する。
小沼はマッキンゼーを退職する時、日本支社長から「この会社で働き続けるよりも大きなインパクトを、社会に生み出しなさい」という言葉を贈られた。
このため小沼はNPOでも「マッキンゼー・プライス」を落とさず、それ以上の価値を提供しようとした。NPOは自分たちが提供できる価値の大きさを低く見積もりがちだ。小沼たちは企業に対して、最初からコンサル時代の単価を念頭に置いた報酬を提示した。
それだけ自分たちの事業の価値に自信があったからだとも言えるが、企業側が留職に、価格に見合った成果を感じていることの証明とも言えるだろう。
「青年海外協力隊を経験した」「マッキンゼーの元社員が」「20代で」「ソーシャルビジネスを」立ち上げた!
創業当時はおりしも社会起業ブーム。小沼自身の経歴も注目され、マスメディアに盛んに取り上げられた。
図らずも「キラキラ社会起業家」扱いされるようになってしまった小沼だが、足元では自分の組織の崩壊が、静かに進んでいた。
(文・有馬知子、写真・今村拓馬)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。