トランプ大統領の命令で米軍がイランの革命防衛隊「コッズ部隊」のソレイマニ司令官らを殺害したことで、両国間で緊張が高まっています。1月8日、イランはイラク国内の米軍基地をミサイルで攻撃。さらなる報復の連鎖と中東情勢の不安定化が懸念されています。
アメリカとイランはなぜ敵対しているのか。歴史的な経緯を簡単に振り返ってみます。
1:パフラヴィー2世がアメリカと接近
パフラヴィー2世(1919〜1980)。パフラヴィー朝2代目にしてイラン最後の「シャー」となった。
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かつてのイランは今とは違い、シャー(古代ペルシアにおける「大王」の呼称。報道では「国王」「皇帝」などと表記)が支配する王政の国でした。
第2次大戦期、国王レザー=ハーンはナチス・ドイツに接近したことで、イギリスやソ連の反発を招き、退位させられました。
代わって国王となったのが、レザー=ハーンの長男モハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)です。
パフラヴィー2世は親英・親米路線でしたが、これに国内の民族主義勢力が反発します。「民族主義」とは、外国勢力からの解放、独立を目指す考えです。
特に、イギリス系の石油会社が独占していたイランの石油利権をイランの手に取り戻そうという抵抗運動が強まっていきます。
モサデグ首相はイランの石油国有化を断行。近代化を目指したが、親米派のクーデタで失脚した。
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1951年、イランでは民族主義者のモサデグ氏が首相に就任。モサデグ首相は石油の国有化を宣言。イギリス系のアングロ=イラニアン石油会社を接収しました。
ところが、こうした動きにイギリスやアメリカは反発します。1953年、米CIAなどの工作によりイランでクーデタが発生。モサデグ首相が失脚し、パフラヴィー2世が再び実権を握りました。
当時は東西冷戦下でもあり、パフラヴィー2世はアメリカに接近。イランは1955年に結成された反共軍事同盟「中東条約機構(METO)」に参加しました。アメリカとしても、イランを中東における“反共の砦”にしたかったわけです。
モサデグ失脚で石油国有化も頓挫しました。石油の利権はイギリス、アメリカなどの「メジャー(国際石油資本)」が実質的に支配することになります。
2:上からの近代化「白色革命」
パフラヴィー2世(左)とケネディ米大統領。
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モサデグ失脚後、パフラヴィー2世はアメリカとの結びつきを強めていきます。
1963年からは「白色革命」と呼ばれる近代化政策がはじまり、農地改革や国営工場の民間払い下げ、女性参政権、識字率の向上などが図られました。
この「白色革命」は王権による上からの強権的な西洋化、近代化でした。そのため宗教勢力や民族主義者などが反発します。
ところが、改革に反対する勢力は秘密警察に弾圧され、言論や思想の自由も封じ込まれました。
パフラヴィー2世は、豊富な石油マネーをもとに軍備拡張やさらなる近代化を進めます。1973年の第4次中東戦争をきっかけとした第一次オイルショックの後、石油価格が高騰したことも背景にありました。
急激な近代化は、貧富の格差を広げることに。都市には地方から農民が流入し、農村は疲弊。インフレが発生し、国民の間では次第に経済的な不満が高まっていきます。
3:イラン革命(1979年)
ホメイニ師(1900〜1989)はイランのシーア派指導者。「白色革命」に反対して逮捕され、1964年にイラクに亡命。のちにフランス・パリから反政府運動を指導。79年にパフラヴィー2世が追放されると、帰国しイラン革命を遂行した。
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パフラヴィー2世の親米・独裁体制は、やがて革命を招きました。
1978年1月、イスラム教シーア派の聖都コムで、神学生らによる反政府デモが弾圧されます。これ以降、王政に反対する動きが全国に飛び火しました。
1979年1月、パフラヴィー2世はついに国外に脱出、王政は崩壊しました。同年2月、フランス・パリに亡命していた宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国します。
反体制勢力は王党派を駆逐。新たにイスラム原理主義、反米路線を掲げる新政権が樹立され、「イラン=イスラム共和国」が成立しました。
革命前までのイランは中東において、西洋化を通じた近代化のお手本のような存在でした。ところがイラン革命は、こうした発展モデルを正面から否定することになったわけです。
4:米大使館人質事件とイラン=イラク戦争(1980〜88年)
米特使のラムズフェルド(左)と握手するサダム・フセイン大統領。ラムズフェルド氏はイラク戦争を起こしたブッシュ米政権の国防長官だった。
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ホメイニ師を最高指導者とするイラン新政権は、中央条約機構(中東条約機構[METO]の後進)から離脱するなど反米政策を進めます。
さらには、イランから逃れたパフラヴィー2世の受け入れをアメリカが認めたことで、ホメイニ支持の学生たちがテヘランのアメリカ大使館を襲撃。1年以上も大使館員とその家族52人を人質にとる事件が発生しました(アメリカ大使館人質事件)。
当時、アメリカのカーター大統領(民主党)は救出作戦を指示するも失敗。この事件は、カーター政権が1期4年で終わり、共和党のレーガンが大統領になるきっかけになったと言われています。
イラン革命後、イスラム教の宗派でスンニ派が優位の近隣国は、シーア派系住民による革命が広がることを懸念します。
隣国イラクのサダム・フセイン政権はアメリカの支援の下、革命の混乱に乗じてイランに侵攻。このイラン=イラク戦争は8年におよぶ泥沼の戦いになりました。
5:イラン核疑惑(2002)と核合意(2015)、アメリカの離脱
イランの核施設を撮影した衛星写真。
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革命後の1980年以来、イランとアメリカは断交が続いていますが、対立が一層深まる事態が2002年に起こります。イランが核兵器を開発しているのではという疑惑でした。
イラン側は平和利用を主張しましたが、アメリカや西欧各国などは経済制裁を実施しました。
2015年、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・中国・ロシアの6カ国は、イランと核開発に関する協定で合意にこぎつけます。
イランに求められたのは、核兵器に用いるような高濃縮ウランや兵器級プルトニウムを15年間生産しないことと、ウラン濃縮に使われる遠心分離機を大幅に減らすことでした。合意を受け欧米各国は、イランへの経済制裁を緩和することになりました。
オバマ政権が締結したイランとの核合意でしたが、当時アメリカ国内では共和党を中心に「甘すぎる」と批判が出ていました。
その後就任したトランプ大統領は2018年5月、イランとの核合意からの離脱を一方的に宣言。制裁を再開します。直近のアメリカとイランの緊張は、ここが契機になったと言われています。
アメリカの核合意離脱を受けて、イランは2019年5月から核合意の履行を段階的に停止しています(なお、イラン政府は1月5日、核合意に基づくウラン濃縮などの制限をすべて放棄すると表明)。
さらに、アメリカが原子力空母をイラン周辺に派遣するなど軍事的圧力をかけたり、イランが米軍の無人機を撃墜したりと、次第に両国の緊張が高まっていきます。
6:米軍、ソレイマニ司令官殺害(2020年)
ソレイマニ司令官殺害に抗議するテヘラン市民。
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イラン革命から40年余りがたった今、イランとアメリカの緊張の糸は、またも張り詰めてしまいました。
2019年12月末、イラク北部キルクークにあるイラク軍基地にロケット弾が撃たれ、民間業者のアメリカ人1人が死亡。米軍とイラク軍の複数の軍人が負傷しました。首都バグダッドでもイランの支援を受ける民兵組織の支持者がアメリカ大使館を包囲、投石する事態が発生しました。
米軍によるイランのソレイマニ司令官ら殺害のニュースが伝えられたのは、その直後の1月3日です。
アメリカ側はソレイマニ司令官の影響下にあったシーア派民兵組織が、アメリカ人や米軍施設への攻撃を計画していたことを殺害理由としています。
一方で、2020年11月に大統領選挙での再選を狙うトランプ大統領が、選挙を意識してとった行動ではないかという指摘もあります。また、自身が下院の弾劾決議を受けた不正疑惑「ウクライナ疑惑」から目をそらすためでは……という声もでています。
ソレイマニ司令官らの殺害後、トランプ氏は「我々はイランの52の地域を標的にした」とツイート。この「52」という数字は、アメリカ大使館人質事件での人質の数を意味しているとされます。
イラン問題が失脚につながったカーターのように、これで大統領選に負けるわけにはいかないという……意思表示なのでしょうか。
いずれにしても報復の連鎖に歯止めはかかるのか。イランのミサイル発射を受けて、トランプ大統領は1月9日に何らかの声明を発表すると表明しており、その内容に注目が集まります。
(文・吉川慧)