人材開発会社を経営する木下紫乃さん
撮影:西田香織
「私がやりたいことって、なんだっけ……」「ここにいてもいいのかな……」
生きる上で、仕事の悩みはなかなか尽きません。今の会社でがんばるべきか、転職すべきか、それとも独立か……。将来に不安を感じることもあるでしょう。
そんな悩める人々が週1回、平日の昼間に集まるスナックが東京・麻布十番でひっそりと看板を出しています。その名は「スナックひきだし」。
カウンターの中でお客さんの話に耳を傾けるのは、人材開発会社を経営する木下紫乃さん(51)。通称「紫乃ママ」です。
これまでに訪れた客は延べ800人以上。20代から80代、学生、赤ちゃん連れの主婦、大手企業の役員、経営者までさまざまです。
なぜ、平日の昼に「スナック」なのか。そこには「同じミドルシニア世代のモヤモヤを何とかしたい」という、紫乃ママの思いが込められていました。
合わない職場、通らない異動希望、そして退職
紫乃ママ)1991年に新卒でリクルートに入りました。キャリアなんて何も考えてなかった。就職活動は早く終わらせたかったし、ノリで入社を決めちゃったというのが本音です(笑)。
入社後は、どういうわけかSEになりました。面白さが感じられず、途中で異動希望を出しました。
その頃、リクルート社内には社員が集まったり、お客さんを呼べたりするバーがあったんです。そこの副店長を募集していて「これだ!」と思って応募したんですよね。
そうしたらめでたく、副店長に……はならず、広報部に異動が決まりました。
人事に文句を言ったんですけど「広報なんて、みんなやりたがる。大抜擢なんだから」と怒られまして。ぜんぜん興味はなかったんですけど従いました。広報の仕事は案外おもしろく、それから7年ほど働きましたが、働き過ぎから体調を崩してしまい結局会社を辞めました。
ちょうど最初の結婚をしたタイミングでした。その後、離婚して、再婚して、また離婚をして…人生は思い通りにはなりません(笑)
人材育成の世界へ。そこで気づいた「あること」とは
そんな不安定な中、仕事も何社か転職し、さしたるキャリアの軸もないままに、ご縁があって大企業向けの人材研修を手がける会社に潜り込めました。このときの経験はその後の人生に大きな影響を与えました。
まず驚いたのは、大企業の人たちには会社に入ってからも勉強させてもらう機会があるということです。それと同時に気づいたことは、結構恵まれているのに、それに気が付かずやる気をなくしている社員も相当数いるということ。そして大企業以外の世界を知らない人も沢山いることでした。
そんな時、たまたまリクルート時代の先輩が、外部講師として研修に来てくれました。
驚いたのが、当時50代だったその先輩は、働きながら大学院に通っていたんです。そこで自分が歩んできたこと、経験したことを体系化していると。
その話を聞いて、私自身も勉強し直して、これまでの行き当たりばったりの人生を振り返って、体系化してみるのもありかなと思ったんです。
変わらなきゃいけないのは「ミドルシニア世代」だ
大学院に入ったことは、その先の大きな転機になりました。
当時、私は45歳。社会人大学院ではなかったので、仕事との両立は難しくなり仕事を辞めました。
でも仕事を辞め、リセットしたからこそ、ちょっとずつ本当に自分のやりたいことが見えてきたんですね。
落ち着いて周りを見回すと、かつてキラキラして見えた大企業の同世代の方の中には、「どうせもう、俺たちなんて……」みたいな、諦めに似たようなことを言っている人がいらっしゃいました。
人生に対する漠然とした「モヤモヤ」を抱えている。そんな印象です。具体的にはなっていないんですが、何となく「これからの人生どうしようかな」と、ぼんやりとした不安を抱えている。
たとえば、40代後半の方なら「あと10年ちょっとで定年だ。その後自分は何をやるんだろう」「その前に会社をやめようかな、やめないほうがいいかな……」といったように。
逆に言えば、今すぐ解決しなければならない課題にぶち当たっているわけでもないんですよ。
20年以上も職業人として生きてきた経験があるから、組織の方針が自分と合わなくなってきても、何となくやり過ごす方法もわかっている。毎日、100%満足じゃないけど60%くらいの充足感があるからまあいいやいう感じです。
でも実は「この60%がこのあと10年も続くって地獄じゃないか」「私の人生、本当にそれでいいのかな」と一番悩んでいるのは、この世代なんです。
一方で、大学院で出会った20代の学生さんから就活相談を受けることもありましたが、彼らは彼らで悩みを抱えていました。
たとえば「面白いベンチャーを見つけたから就職したい」と親に言っても、「そんな聞いたこともない会社はやめなさい」と止められるという話をかなり聞きました。
彼らの親世代は、私と同世代です。若い世代の価値感を古い尺度で考え、矯正しようとしているのは私たちの世代なんだと痛感しました。
変わらなければいけないのは、若い世代じゃない。むしろ、私たち40代〜50代のミドルシニア世代ではないか。
私はそこに貢献したい。若い世代のためにも、我が世代の変化の応援をしたい。そこなら、今まで培ってきた人材育成の経験を活かせると思い、2016年に人材開発の会社「ヒキダシ」を設立しました。人の可能性をひきだしたいという願いを込めて。
ミドルシニア世代を呼び込む装置、それが「スナック」だった
ただ、新しい課題も見えました。モヤモヤを抱えているミドルシニアに向けて、ワークショップを設計したんですが、なかなか人が集まらないんです。
来てくれさえすれば解決のヒントを渡せるのに……と悶々としていたとき、まず思いついたのが「飲み会」でした。
でも、飲み会をいつも企画・運営するのってしんどいですよね。そこでさらに思いつたのがバーを借りた「スナックイベント」でした。
そこでバーの経営者をしている友人に相談しました。
「イベントをやりたいのでバーをイベントスペースとして使わせてもらえない?」と。彼は二つ返事で「いいよ」と。オーナーから言わせれば、空いている時間に一人でも多くお客さんに来てもらえば利益になるし、面白そうじゃんということで。
こうして「スナックひきだし」がスタートしたのが、2年前。最初は、バーが始まる22時頃までの数時間、「スナック」という体裁をとったミドルシニア向けのイベントを月2回開催していました。
当時は「45歳以上、モヤモヤを抱えている人」という決まりを設けたのですが、毎回大盛況でした。
意識が高くない。だから、人が集まる
おかげさまで、スナックには今までワークショップなどには参加したことがなかったお客さまが沢山お越しくださいました。
たしかに考えてみれば、お客さまが集まったのには理由があるんです。たとえば「ワークショップ」と聞くと、なんとなく意識が高そうだし、何をするのか見えにくい。
でも、「スナック」だったら、どういう場所かわかりやすいですよね。「グローバル」とか「イノベーション」とか意識が高そうな企画や言葉はありません。
スナックという空間も利点がありました。座席はカウンターだけですから、ママや隣同士と話をせざるを得ないわけです。そうすると自然に見ず知らずの人とも会話も生まれて盛り上がれます。
月2回、夜オープンしていたのですが、数カ月経って「いつやってるか分からない」や「夜は出かけられない」という声をいただくようになり、思い切って毎週木曜日の日中にオープンすることにしました。
ミドルシニアが求めるのは「偶然のつながり」と「相談相手」
お店をやってわかったことは沢山あります。それは、ミドルシニアの方たちが求めていたのは、自分では予想もつかない領域の「人との繋がり」だということです。
たとえば、会社員であれば、お客さんを除くと会社と家にしか「繋がり」がないという人も結構います。
でも、「スナックひきだし」に来れば、たまたまそこにいた今までつながりがない領域の人と出会える。もう年齢で門を閉ざす必要もありません。
周りに適切な相談相手がいないのも、ミドルシニア世代の特徴かもしれません。こうした悩みは、パートナーにも話しにくいでしょうし、友人にも話しにくい。
会社の中でも、こうした悩みは「弱み」と受け取られるかもしれないので、見せられない方も多いでしょう。
同僚に相談したところで、「お前、会社やめるのか?」などと根掘り葉掘り聞かれ、噂の対象になるのも面倒くさい。
程よい距離感の第三者がいて、鎧を脱いで素で話ができる「場」がほしいのではないしょうか?それがこの「スナックひきだし」という空間かもしれません。
スナックでは会社や肩書き、年齢も、性別も関係ありません。名刺交換も必要ないですし、意識高い系のイベントにありがちな微妙なマウンティングもありません。会社の研修と違って、嫌々ながら来る人もいません。
バーカウンターのもと、全ての人が平等。私が一番大事にしているポイントはそこにあります。できる限り、本音で話せる場。それがスナックの良いところだと思うんです。
人との繋がりは、次のチャンスの入り口だ
最近では「サードプレイス」「コワーキングスペース」といったものが流行しています。それは、普段の自分では知り合えない属性の人に出会えることを魅力に感じているからでしょう。
ちょっとしたヒントを誰かにもらいたい。私自身もそうでしたが、人との繋がりが次のチャンスの入り口なんですよ。
誰かに出会えば、「ああ、世の中にはこんな生き方があるんだ。こんな仕事があるんだ」と、自分の中のオプションが1個増えますよね。
オプションが増えるって、これからの時代に大事なことだと思っています。インターネットの記事で成功者のインタビューを読んだりしても「すごいなこの人。でも、この人みたいになるのは無理だわ……」で終わっちゃいませんか。
だけど、リアルな場でその人の話を聞けたらどうでしょうか。目の前にいるわけですから、記事にはならなかった失敗談とかを聞けるかもしれません。
やっぱり実際に「会って話す」というのは、大きな意味を持つと思うんです。
お店に来ていただいた方には、「スナックひきだし倶楽部」っていうFacebookグループをご案内しています。名刺をもらったところでメールをするとは限らないですからね。
一人のお客さまから、他のお客様に繋がって、また新しい誰かがお店にいらっしゃっていただけたらいい。SNSと人間がハイブリッドになるようにしています。
昼間遊んでいるスペースを活用して、そこを訪れる人に次の人生の新しい選択肢と出会うきっかけになる。場所も二毛作、人生も二毛作がいいと思いません?。
悩むことこそが「人間らしさ」
ミドルシニアに限らず、「自分のいるべきところは、今の場所でいいのか」と、不安に思うことは誰でもありますよね。
みんな、自分の力をうまく発揮できるところを探し続けている。人間は完璧な存在ではありません。得意なこと、不得意なことは誰にでもありますよね。
自分の得意分野を活かして「ありがとう」って言ってもらえて、ちゃんとした対価や処遇、報酬がついてきたら最高です。でも、それが「今の場所であるべきか」というのは、常に誰もが問い続けていると思うんです。
「十分な報酬はもらえているけど、自分が活かされてるかどうかわからない」
「自分の得意分野は活かせているけど、やりがいの搾取かもしれない」
そのバランスは、常に変化していくと思います。その変化に合わせて、どんどん環境を変えてもいいと思うんです。
自分の理想と現実の間でギャップが出てきたとき、「これでいいのかな?」って悩む。それは生きている以上、働いている以上は続きます。変化しようとすれば悩むのは当然です。
仕事や転職、進路で悩むことは、悪いことではありません。 悩むことこそが「人間らしさ」そのものなのだと思います。
悩んだり迷ったときに、それを聞いてくれて、解決のヒントをもらえるような仲間が周りにいるかどうか。そっちのほうが大事な気がします。
「自分の道」を歩む人の背中を押してあげたい
昔と比べて、今は「将来、自分がどうなりたいか」を選べる時代です。でも選択肢が多いがゆえに悩みも増えます。
自分の価値感と他人の価値感を比べてしまうから、どうしてもややこしくなってしまうのだと思います。
スナックには「自分ではこうしようと思っているんだけど…ママ、どう思う?」と尋ねてくる方もいらっしゃいます。そういう人って実は自分の中では結論が出ているんですよね。でもやっぱり自分の決断を誰かに肯定してもらいたいし、応援もしてもらいたい。
私は、どんな道であっても、他者軸でなく「自分で」決めた人の背中は、ぜひとも押してあげたい。周りがどう言おうとも、その人はその人の価値観で「こうする」と決断したわけですから。
もしも、うまくいかなかったら、そのとき修正すればいいのです。
(取材・文:吉川慧 撮影:西田香織 編集:川崎絵美)
“Torus (トーラス) by ABEJA”より転載(2019年10月16日公開)
Torus by ABEJAとは:AIの社会実装を手がけるスタートアップABEJAのオウンドメディア。「テクノロジー化する時代に、あえて人を見る」をコンセプトに、さまざまな人の物語を紡いでいきます。