撮影:今村拓馬
大阪市のJR新今宮駅の改札を出るとすぐ、職安の前に出た。正式名称はあいりん労働福祉センター。2019年3月に閉鎖されたこの建物の庇を借りるように、ダンボールや傘で囲われた棲み家に汚れを吸い込んで重たくなった布団が並んでいる。
土曜の午後、近くの公園には男たちが手持ち無沙汰に腰を下ろす。その数は目算でざっと50人。
日本で最もホームレスの人たちが集まる街、釜ヶ崎。川口加奈(29)がホームレス問題を初めて知った場所だ。
以前からこの街を知る人たちは「昔に比べるとずいぶん整理されてきれいになったよ」と言う。この場所に10年以上前、14歳の女の子がひとりで紛れ込んだ姿を想像するのは容易ではない。
「あんな危ない駅」と言われ
冬の厳しい寒さをここで凌がなくてはならない。
撮影:今村拓馬
川口は大阪府の中南部に位置する高石市に住んでいた。父は会社員、母は実家の自営業を手伝っていた。2歳上の兄がいる。
兄は私立中学に進学し、川口も当然のように中学受験をし、大阪市の中心部にあるミッションスクール・大阪女学院に合格する。
高石市の自宅から学校のある大阪市の中心部まで、45分ほどかけて電車通学が始まった。
途中、新今宮駅で乗り換える。仲良しの同級生も同じ路線なのではと思い、一緒に帰ろうと誘ったところ、「あんな危ない駅、乗り降りしたらあかんってお父さんに言われてんねん」と返された。新今宮駅で乗り換えた方がスムーズなのに、彼女はわざわざ一駅手前で降りて違う路線を使っていると聞き、川口の頭に疑問が湧いた。
「あんな危ない駅って? なんで危ないん?」
このときの川口はまだ、駅のホームから見える「釜ヶ崎」「あいりん地区」など、この一帯を指し示す時に特別な意味を持つワードを知らない。
1枚のコートを渡したところで
川口は淡々と静かに説明する。
撮影:今村拓馬
12月のある日、駅で「炊き出し」を案内するチラシを受け取った。
「炊き出し」さえ初耳である。14歳は、好奇心からチラシに書かれていた日時に指定の場所にひとり出かけた。駅に降り立って最初に思ったのは「おしっこの匂い、強烈やな」。そして、「建物、ボロボロやな」。
ホームレスの人に対しては、「なんで仕事せえへんのやろう?寒い中、並ぶくらいなら働いてお金稼いでおいしいもの食べればいいのに」と疑問に思った。
三角公園という呼び名で知られるそこには、公園を取り囲むように何百人ものホームレスの人たちが炊き出しを求めて並んでいた。
炊き出しのおにぎりを手渡す係を与えられたとき、支援ボランティアの大人から「孫みたいな年の女の子から受け取る相手の気持ちを考えてあげなさいよ」と言われたことは忘れられない。
列のひとりの男性が、寒空のもと破れた薄い服で凍えていた。思わず買ってもらったばかりのコートを脱いで差し出そうとしたそのとき、無力感に襲われた。
たった1枚のコートを渡したところで、この何百人もの人たちを路上生活から救うことはできないと思った。
その後ろにも凍える人はいた。「これに、おにぎり入れて」とコンビニの袋を差し出した手は寒さで震えていた。
14歳の直感は、この炊き出しも、瞬間の空腹をしのぐ助けとはなっても大勢の大人たちの状況を変えることにはならないと気づいた。
かといって、いったい何ができるというのか。答えは浮かんでこない。
「頑張らなかった人たち」ではない
夜に街でホームレスの人たちに声をかける「ホムパト」ボランティアには、大学生や社会福祉士、司法修習生などが集まっていた。
撮影:今村拓馬
いつものように新今宮駅で乗り換えたある午後、見覚えのある男性に気づいた。あの炊き出しの日に見かけたホームレスの人が駅の改札付近にいたのだ。
炊き出しの直後、正月明けの全校朝会で先生に頼んで釜ヶ崎のホームレス支援を呼びかけるスピーチをしたが、学校内からは反応が得られず、1年近い時間が過ぎていた。
男性に気づいたのは、身なりが同じだったから。それだけ日が経っても彼をめぐる状況が変わっていないことにショックを受けた。
この日を境に川口の中学生活は釜ヶ崎を中心に回り始める。
まず、バスケットボール部をやめてボランティア活動をする学校YWCA部に入部した。
高校に上がってからは立候補して部長に。高校生ボランティアによる炊き出し奉仕活動や支援物資集めに奔走し、ボランティア経験をもとに講演会やワークショップを行うなど、「釜ヶ崎マニア」のように打ち込んだ。
あるとき、ひとりのホームレスから言われたことは深く心に残った。
「わしの家には小さい頃、机がなかった。小さいうちから畑仕事手伝わされて、高校は行けてない」
その言葉は「頑張らなかった人たち」というホームレスの人へのイメージが解けるきっかけとなった。「もっと働けばいいのに」「行政から支援してもらえないの?」といった消化しきれない疑問を少しずつ調べていくことになる。
貧困の連鎖と「負のトライアングル」
「ホムパト」で配る弁当。完成したのり弁はずっしりと重たかった。
撮影:今村拓馬
まず、貧困の連鎖があることがわかった。貧困家庭に生まれ育った人の4分の1が貧困状態に陥るという事実。高学歴の人や大企業出身者でも、親の介護やうつ、リストラ、会社の倒産などさまざまなきっかけでホームレス状態になることも知った。
「負のトライアングル」も見えてきた。
「仕事、住まい、貯蓄」の3つが同時に揃わないと貧困から脱出できない。住所がないと就職できず、貯蓄がないと給与が出るまで生活をつなぐことができない、それに、家を借りようにも住民票や保証人が必要なのだ。
高校時代に熱中する定番といえば、部活、ファッション、音楽、アイドル、彼氏だろうか。それが川口の場合は「ホームレス支援」だった。
「同調圧力ですか?そんなんはなかったですねえ。ミッションスクールで校風が自由だったことも少しは影響してるかもしれません。まあ、私は成績も中くらい、部活でも地味、目立たない普通の子やったと思いますけど、それがホームレス支援に打ち込んで、変な子やねえ、という感じやったかもしれません。居心地が悪いとか、そんなんは全くなかったです」
「カナは何がやりたいの?」
高3の夏に過ごしたワシントンD.C.が転機となった。
世界各国から100人を超える中高生が集まった国際会議に、川口はボランティア親善大使として参加した。そこで、企業や行政と組んで課題解決に取り組んでいる同世代と出会った。小児がんを患いながらも、全米の病院の小児病棟におもちゃ箱を届けるプロジェクトのために1000万円単位で資金を集めた少年もいた。
その中の一人から「カナはいったい何がやりたいの?」と問われた。
「なぜ課題解決に向かって取り組まないのか」と詰められ、川口はハッとした。
「今まで、自分のできることの延長線上でしか捉えていなかったことに気づかされました。日本の中高生のボランティアはできることの工夫大会で、それに対して海外の彼ら彼女らの活動は、課題解決でした」
「炊き出しだけでは解決できないものがある」と直感はしていたが、川口が率いるYWCA部の取り組みも課題解決に結びついてはいなかった。その頃、路上死亡者は大阪市で年間213人を数え、ホームレス状態から脱出できた人は、川口が見る限りほぼいなかった。
自覚していた弱みを、すでに具体的に行動して成果を出し始めている同世代から突かれた衝撃が、川口のその後を変える糸口となる。
翌2009年、大阪市立大学経済学部に進学した。大阪市立大学は釜ヶ崎地区の調査・研究で突出したネットワークと実績がある。この地域のホームレス問題に関して学ぶには最適な環境だった。
釜ヶ崎地区の調査に取り組んだ大学2年生で、川口は「おっちゃん」たちと出会い、現在の活動の原型が生まれる。だがその過程では、ひとりぼっちになった時期があった。
(敬称略)
(文・三宅玲子、写真・今村拓馬)
三宅玲子(Reiko Miyake):熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜2014年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ『BillionBeats』運営。近著『真夜中の陽だまりールポ・夜間保育園』で社会に求められる「子育ての防波堤」を取材。