「働き方改革」の文脈でも注目が集まるビジネスチャット。しかしその弊害も……(写真はイメージです)。
撮影:西山里緒
リモートワークの導入が進む昨今、さまざまな職場から「ビジネスチャット上での心理的安全性」が脅かされているとの声が、聞こえはじめている。
生産性を左右するという「心理的安全性」の確保は、グーグルがチーム作りで重要視していることでも注目を集めている。今、職場でどんな危機が起きているのか?
Slackに疲れ「土下座」に安心感
「1年たっても、Slackの雰囲気には、まだ慣れませんね……」
30代でスタートアップに転職したハラダさん(仮名、36、男性)は、そう言ってため息をつく。ハラダさんは業務委託として、リモートワークで働いている。
ビジネスチャットに不安を覚えはじめたきっかけは、ハラダさんがある時仕事上のミスをしてしまったことだ。朝起きてみると、公開チャンネルで上司から長文の叱責が投稿されていた。
「社員だけならまだしも、アルバイトも見ているチャンネルで言わなくてもいいのに……」
モヤモヤが残った。
そこから、他の人の投稿への反応も気になるように。誰も反応しないと「ここは自分がいいね!すべきなのか」と悩む。業務委託のハラダさんはそこまで面識のないメンバーも多く、自分がどこまで踏み込むべきなのか、悶々とする日々が続いた。
「土下座」の絵文字は汎用性が高いという(写真はイメージです)。
「Slackって、何も考えずに使うのが正しくて、気にし出したら負けなんですよ。LINEだって、既読スルーって言葉が出はじめてからみんな気にするようになったでしょ」(ハラダさん)
今ハラダさんは、公開チャンネルで投稿はせず、プライベートチャンネルやDMを中心に使っている。愛用するのは「土下座」の絵文字だ。これさえ使っておけばトラブルにはならない —— そうやって、乗り切っている。
オンライン状態がバレてブチ切れ
Slackでは、自分のオンライン状態が表示される。表示は変更することもできる(写真はイメージです)。
スタートアップ複数社でPRを請け負う、フリーランスのサカグチさん(仮名、32、男性)も、Slack上で恐ろしい体験をしたことがある。
ある時、サカグチさんの会社メンバー(Aさん)がミスをしてしまい、クライアントが叱責した。Aさんはまず、誠意を込めた謝罪のメッセージを返したあとに、ほとぼりを冷ますため、しばらくクライアントからのレスに返信しなかった。
その選択が火に油を注いだ。Aさんが「オンライン状態」になっているにも関わらず返信をしなかったことにクライアントは“ブチ切れ”。さらに関係を悪化させてしまった。
「その事件のあと、ぼくはオンライン状態がわかる表示を消しました。ビジネスチャットって感情がヒートアップしてしまいがち。メールだとああはならなかったんじゃないかな」(サカグチさん)
「一語一句に手間ひま」が評価にも影響
Slackのヘビーユーズ企業として知られるSmartHR。ガイドラインの作成をしたのはコーポレートエンジニアの山本修平さん(写真右)だ。
顔が見えないからこそ、思いがけない行き違いが起こってしまいがちなビジネスチャット上のコミュニケーション。社内のそうした問題が起こらないように対策を進め、大きな成果を上げているベンチャーもある。
クラウド人事労務サービスを展開するSmartHRは、組織のオープンさを表すSlackの「パブリックチャンネルでのコミュニケーション率」がここ2年ほど9割超えを続けている。
Slackのカスタマー・サクセスチームが一部の導入企業向けに提供する、Slackの習熟度を測る指標「Slack Maturity Score」 で高得点を記録するなど、自他ともに認める「Slackヘビーユーズ企業」だ。
特徴的なのが、ウェブ上で公開もされている「Slackの歩き方(ガイドライン)」だ。名前の付け方からチャンネルの作り方といったベーシックな使い方から、DMは原則禁止、業務時間外でもメンション推奨(通知のコントロールは各自で)といったオリジナルなルールも並ぶ。
「入社時に約1時間に渡って全員に使い方を説明するほか、ガイドラインも使いやすいように定期的にアップデートしている」(コーポレートエンジニアの山本修平さん)という徹底ぶりだ。
しかしそれ以上に重要なのは、採用・人事評価かもしれない、と広報担当者は語る。同社では「一語一句に手間ひまかける」というバリュー(価値観)を掲げており、人事評価でも「どれだけ一語一句に手間ひまかけられたか」が査定対象に入っているという。
「(人を傷つけるような言葉を発すると)自分の評価が下がるだけなので、自然と思いやりのあるコミュニケーションができている」(広報担当者)という。
結局は「会う」ことが重要?
「顔の見えないコミュニケーション」を可能にしてきたビジネスチャットだが、むしろ完全なリモートワークとなると、さらにその心理的安全性の確保はハードルを上げるのもしれない。
総務省が発表した情報通信白書(令和元年版)によると、企業のテレワーク(リモートワーク)導入率はここ数年伸びており、2018年には約2割に達している。
内閣府の調査は、柔軟な働き方によって「生産性が向上する可能性は高い」とする一方で、テレワークの導入と生産性との関係には限定的な見方を示している。
全社でSlackを導入しているSmartHRも、エンジニアを除いてリモートワークを許可していない。
「チャットツールは仕事をスムーズに進めてくれるものではあるけれども、現実の対面コミュニケーションに取って代わるものでは全くない」(前述の山本さん)
と考えるからだ。
リモートワークしながら、ビジネスチャット上の心理的安全性をどう確保するか —— 。チャットツールを開発したSlackすらも、社としてリモートワークを積極的に推進しているわけではないことからも、いかにその実現が難しいかがわかる。
前述のサカグチさんも、トラブルがあった後に「やっぱり一番の謝罪は会うこと」だと実感したと話す。
「ただ、お互いリモートワーク同士だと、“会って謝罪”ができなかったりもするんです。ビジネスチャット上で謝罪を表すマナーというのが、これから出てこないかな」
(文、西山里緒)