明治から昭和にかけて、東京の街を縦横に走っていた路面電車「市電(都電)」。その路線の跡が東京都心のど真ん中で出土したことがTwitterで報告され、話題になっています。
JR御茶ノ水駅の周辺には明治大学や日本大学のほか、駿台などの予備校や専門学校が集まっている。付近には東京医科歯科大付属病院、順天堂病院、杏雲堂病院などの医療機関も。
kuremo / Shutterstock.com
「日本のカルチェ・ラタン」とも呼ばれる千代田区・御茶ノ水。JR御茶ノ水駅の明治大学側の改札を出ると、すぐ右手に橋が見えてきます。
この「お茶の水橋」は神田川に架かる橋。現在のものは関東大震災後の1931年に竣工した二代目です。
神田川に架かる「お茶の水橋」の下は渓谷になっている。江戸時代には徳川将軍家の茶の湯に用いる清水が、この渓谷近くから湧き出ていたという。
出典:国土交通省「水面から見たまち(神田川・御茶ノ水編)」
現在、橋の改修工事が行われていますが、工事の過程で車道のアスファルトが剥がされると、その下から当時の都電のレールと敷石が出土しました。
時を超え、令和の空気に触れた都電のレール。軌道内には美しく敷かれた敷石も。
撮影:吉川慧
1月24日、Twitterに現場の写真が投稿されるとリツイートは2万、いいねは3万7000を超える反響がありました。
「お茶の水橋」の名前は、明治時代に東京の地理教育のためにつくられた「電車唱歌」にも登場。その歌詞からも往時を偲ぶことができます。
「外濠線は四ツ谷より 市ヶ谷見附 神楽坂 砲兵工廠前を過ぎ お茶の水橋 駿河台」
(1905年「東京地理教育電車唱歌」35番)
いま、現場は……
一眼やスマホを構えて、熱心に写真を撮る人の姿も(一部、編集部で画像を加工しています)。
撮影:吉川慧
1月25日夜、現場では鉄道ファンとみられる人が集まり、熱心に写真を撮影していました。都電廃止時にはレールが剥がされたりアスファルトで埋められたりしたため、都心で遺構を見ることはほとんどできません。
工事箇所の一部。敷石が崩れている箇所もあった。
撮影:吉川慧
改修工事中のお茶の水橋。交通量も多い(一部、編集部で画像を加工しています)。
撮影:吉川慧
近くで見るには横断歩道を渡る必要があり、警備員が「写真を撮ったら移動してください」と呼びかけていました。警備員によると、Twitterで拡散された影響のせいか「日中は20人ぐらい集まっていた」そうです。
愛好家の有志団体「お茶の水橋都電レール保存会」では「関心を持って下さるのは大変ありがたいのですが、現地は交通量も多く、24時間交代制で警備の方が常駐されています。警備の方の指示に従って、安全にはくれぐれもご留意下さい」と注意を喚起しています。
千代田区道路公園課の担当者はBusiness Insider Japanの取材に、「今回の工事で出土したレール・敷石の大部分は処分される予定」と明かします。ただ、一部は保存会に提供し、「何らかの活用方法がないかをご提案いただくので、区としてできる範囲で取り組んでいきたい」と、活用に前向きな方針です。
一方で、現場を訪れることについては「見学を制限する予定はないが、横断歩道から見ることになるので、歩行者や自動車に迷惑がかからないように配慮いただきたく。現地の警備員にもその旨を伝え、安全第一に務めたい」と話しました。
かつて1日に193万人が利用した「都民の足」
明治時代のお茶の水橋。橋の上には路面電車が走っている。
出典:小島又市「最新東京名所写真帖」1909年刊行/国立国会図書館デジタルコレクション
東京の路面電車のはじまりは1903年。日露戦争がはじまる前の年にさかのぼります。
当時は馬車鉄道が走っていましたが、馬糞の悪臭や不潔さが問題に。そこで「東京馬車鉄道」が電化した「東京電車鉄道」を開業。その後に2社が別路線で参入し、3社は東京市営の「市電」となりました。1943年には都政施行で「都電」に改まります。
東京都交通局によると、1943年度には1日平均193万人が利用し、都電は最盛期を迎えます。ところが戦時色が濃くなるにつれ、資源供出などのため「不要不急路線」として廃止された区間もありました。今回レールが見つかったお茶の水橋から錦町河岸(現在の気象庁付近)へと抜ける区間もその一つでした。
高度経済成長で自動車が普及、都電は「邪魔者」に……
1955年の渋谷駅前。停留所には多くの人が並んでいる。都電は、まさに「都民の足」だった。
Orlando/Three Lions/Hulton Archive/Getty Images
戦後も、都電は「都民の足」として街を走り続けました。ところが時代や社会の移り変わりにつれて、都電のあり方が問われる時がやってきます。
1960年代ごろになるとモータリゼーションが進み、都内では自動車が急増。当時は高度経済成長期の真っ只中で、いわゆる「新三種の神器」と言われた3C(カラーテレビ、クーラー、カー[自家用車])が消費者に広がった時代です。
都内では慢性的な渋滞が発生し、これを解消しようと都電の軌道敷内に自動車が乗り入れることが認められました。
ところが都電の輸送効率は下がり、渋滞の中で都電が立ち往生する事態も発生。やがて都電は“交通マヒの元凶”とみなされるようになりました。
1959年、首都高速道路公団の初代理事長に就任した神崎丈二氏は、こう語っています。
「東京都は経済、人口などから世界有数な都会だ。ところがはずかしいものが路面電車と電柱の二つである。これをとりはらわないかぎり東京都は世界的都市としての資格がない」
(1959年5月2日 読売新聞・夕刊)
また、1967年には銀座の町内会・商店街は、都への都電の撤去要望の中でこう訴えています。
「たたでさえ自動車の交通量の多い銀座に大きな車体、ノロノロ運転の都電が道の真ん中を通っているために、交通の渋滞はいっそうひどくなる」
(1967年5月26日読売新聞・夕刊)
1964年、銀座四丁目の停留所に止まる都電。その後ろに渋滞が…。
Douglas Miller/Keystone Features/Getty Images
1964年の東京オリンピックに伴う工事、路線バスへの代替、営団地下鉄(帝都高速度交通営団[現東京メトロ])と都営地下鉄の新線計画もあり、都電は次第に姿を消していきます。
1967年には都電の代表的存在で、銀座・中央通りを走った「1系統(銀座線)」が他の8つの系統とともに廃止されました。41系統あった都電は1972年までに早稲田〜三ノ輪橋間を走る「荒川線(東京さくらトラム)」のみに。
これと前後して大阪、名古屋でも市電が姿を消しました。
「環境に優しい」と見直されつつある路面電車。一方で課題も
環境への配慮から存在が見直されつつある路面電車だが、課題も……。
Michael Dalder/REUTERS
モータリゼーションの中で姿を消した路面電車ですが、近年では環境への配慮からその存在が見直されつつあります。
路面電車は自動車に比べてCO2 排出量が約1/5程度で環境への負荷が少ないとされ、市街地の活性化の起爆剤としても注目されており、各国では「LRT」(次世代型路面電車)の導入が進んでいます。
国土交通省によると国内では17都市20事業者、路線延長約206㎞が営業中。数十億〜数百億と高額な初期費用や運営費、採算性など財政的な懸念をはじめ、他の鉄道・バスなどの交通事業者との調整など課題もありますが、これまでに熊本市、富山市などが導入してます。
2022年には宇都宮市が開業を予定。和歌山市、那覇市、横浜市などが整備を検討しており、市街地の人口減の歯止め、観光来訪者の増加、高齢化時代の交通機関などなど、地域経済の救世主として期待する声もあります。
(文・吉川慧)