新型ウイルス「中国が秘密開発した生物兵器」トンデモ説が駆けめぐった一部始終

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天安門で警備にあたる中国警察も当然ながらマスク姿。「中国政府の生物兵器」説がネット上にまん延している。

Betsy Joles/Getty Images

肺炎を引き起こす新型コロナウイルスの話題で世間は持ちきりだ。中国・武漢が発生源とされるこの疫病は、すでに日本でも感染者を出して、人々を恐怖に陥れている。

東日本大震災後の福島原発事故でも同じことが起きたが、人々が恐怖するときには「デマ」が拡大しやすい。今回の新型コロナウイルスにもさまざまな「噂」が飛び交っているが、なかでも筆者が気になったのは、「中国軍が開発した生物兵器だ」というものだ。

国際的な主要メディアはほとんど採り上げていないが、ネットではかなり広く拡散しており、筆者にも複数の知人から「本当か?」といった問い合わせが来ている。

それだけではない。複数のメディアからも「この(生物兵器)説にはどれくらい信憑性があるのか?」という問い合わせまで筆者にきた。「そんな可能性もあるかもしれない」くらいに思っている人は相当数いると感じている。

世界で研究されている主な生物兵器

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武漢に病原体に関する研究施設が置かれていたことがデマ情報の「それらしさ」を高める一因となった模様だ。

Tomohiro Ohsumi/Getty Images

筆者はかつて『生物兵器テロ』(宝島社新書、ジャーナリスト村上和巳氏との共著)という共著を上梓したことがあり、生物兵器についてかなり詳細に調査したことがある。

世界各国の関連研究機関で研究されている主な生物兵器に、コロナウイルスの名前はない。また同時に、「高い感染力と低い毒性」をもつインフルエンザウイルスも含まれていない。

一般的に、病原体を「兵器として使用」する際に重視されるのは強い毒性だ。

例えば、アメリカ疾病管理センター(CDC)が生物兵器使用危険度リストの「カテゴリーA(最優先病原体)」にリストアップしているのは、以下のものだ。

天然痘ウイルス、炭疽菌、ペスト菌、ボツリヌス毒素、ツラレミア(野兎病)菌、ウイルス性出血熱(エボラ、マールブルグ、ラッサ熱、アルゼンチン出血熱)など

いずれも相当に毒性の強い"殺人病原体“だ。

また、毒性は低いが「適度な」感染で標的をしぼりやすい「カテゴリーB(第二優先度)」には、以下がリストアップされている。

Q熱リケッチア、ブルセラ菌、ベネズエラ・ウマ脳炎ウイルス、コレラ菌、サルモネラ菌、赤痢菌など

さらに、病原体の入手や運用が容易な「カテゴリーC(第三優先度)」には、ニパ・ウイルスやハンタ・ウイルスなどが含まれる。

いずれのカテゴリーにも、コロナウイルスやインフルエンザウイルスの名前は見当たらない。まったく研究されてこなかったということはないだろうが、現実に兵器としての使用に向いていないのだと思われる。

生物兵器に限らず、新兵器の研究開発においては一般に、実用性の高いものからまず採用されるものだ。とりあえず研究してみるといった程度のものに、予算がつくことはほとんどない。

もちろん、いまはゲノム編集などの遺伝子改変技術がきわめて高度化しているので、感染力の強い病原体を選んで、その毒素を強化することで実用性を高める、といったこともある程度まで可能だ。

しかし、今回の新型コロナウイルスについては、ゲノム編集の痕跡などは発見されておらず、自然発生のものとみられている。生物兵器として人工的に開発されたものである可能性はほとんどない

海外メディアの「生物兵器」報道を精査してみた

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英タブロイド紙デイリー・メールの当該記事。

Screenshot of Daily Mail

ではなぜ今回「新型コロナウイルスは生物兵器だ」との説がネット上に飛び交っているのか。

この"疑惑"を早い段階で発信したメディアは、英タブロイド紙デイリー・メールだ。

タイトルがものすごく長いのだが、「中国は武漢にSARSやエボラの研究施設を建設。アメリカのバイオセーフティ専門家は2017年、同施設からのウイルス流出の可能性を警告。新型コロナの感染拡大との戦いのカギはそれだ」という記事(1月23日付)。

デイリー・メールはいわゆる「飛ばし(=根拠の薄弱な記事)」が多いことで知られる。しかし筆者が読んだところでは、この記事は「飛ばし」が比較的少ない健康面の担当記者が書いており、よく調べられている。

同記事は、 新型コロナウイルスの発生源とされる武漢の生鮮市場から約30キロの位置にある「武漢病毒研究所」が、危険な病原体研究を行う施設であり、今回はそこから流出したのではないかという疑惑を紹介している。

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権威ある科学誌ネイチャーが掲載した中国の病原体研究施設に関する記事。

Screenshot of Nature

そこで引用されているのが、世界的に権威ある科学誌ネイチャーが2017年2月に掲載した「世界で最も危険な病原体を研究する態勢を整えている中国の研究施設の内幕」という記事だ。

デイリー・メールは、信頼性の高い専門誌でも紹介された施設が武漢に存在することを指摘し、「現時点では、この施設が今回の感染拡大と関係があると疑う理由はない」という専門家の意見を紹介した上で、同施設で行われた動物実験が流出に関係している可能性を否定することはできないとの見方を提示したにすぎない。

あくまで可能性のひとつとして示しているだけで、扇動的な内容とまでは到底言えない。

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英タブロイド紙デイリー・スターの当該記事。

Screenshot of Daily Star

また、同じく英タブロイド紙デイリー・スターも似たような記事を同日掲載している。「コロナウイルスは世界で最も致命的な疾患のための秘密研究施設で始まったとの指摘」との記事だが、同紙はその後、その疑惑には根拠はなかったとして立場を修正。「まだ論争はあるが、動物市場が発生源だとされている」との訂正文を掲載している。

その後さらに直接的な疑惑を提示したのが、米紙ワシントン・タイムズだ。「ウイルスが発生した武漢に、中国の生物兵器計画とリンクする2つの研究施設」という記事(1月24日付)がそれだ。

同紙は統一教会(世界平和統一家庭連合)が発行する政治的右派のローカル紙。しかし、記事を執筆したビル・ガーツ記者は、右派つながりでアメリカの情報機関に太い人脈を持ち、安全保障分野の内幕ストーリーでは実績のあるベテラン記者だ。

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米紙ワシントン・タイムズの当該記事。

Screenshot of Washington Times

ガーツ記者は1月24日の記事を皮切りに関連情報を次々と執筆している。彼がそれらの記事で主張しているのは、武漢には2つの研究施設(うち1つは前述した「武漢病毒研究所」で、もう1つは「武漢生物製品研究所」)があり、いずれも中国軍の生物兵器研究に関与している疑いがあるということ。

だから、今回の新型コロナウイルスがそうした生物兵器研究計画のなかで生み出された可能性は否定できないというわけだ。

ただし、ガーツ記者の記事にはいずれも「断定できない」と明記してあり、記事タイトルや筆致ではかなり疑惑を強調してはいるものの、デイリー・メールと同じようにあくまで可能性のひとつとしている。

なお、同記事で疑惑を証言しているのは、イスラエルの生物兵器専門家であるダニー・ショーハム氏

ショーハム氏の証言は「中国がSARSやコロナウイルスなどを生物兵器として研究開発している」ことを独自の見解として述べた上で、武漢にある2つの研究施設が「生物兵器開発に関与しているとみられる」「SARSの研究をしている」ことを根拠に、「生物兵器として開発された新型ウイルスの可能性がある」と指摘する内容だ。

しかし、ショーハム氏もやはり可能性のひとつとしているだけで、疑惑を断定はしていない。

なお、ショーハム氏は自身が主張する中国の生物兵器研究開発疑惑について、根拠の希薄さを検証した米紙ワシントン・ポストの取材を拒否している。

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米誌フォーリン・ポリシーの当該記事

Screenshot of Foreign Policy

さらに、米誌フォーリン・ポリシーは、1月29日付の記事「武漢のウイルスは研究施設でつくられた生物兵器ではない~陰謀論はコロナウイルスよりも速く拡散する」で、中国の生物兵器研究開発疑惑を完全否定している。

上の記事では、2017年にロシア政府の宣伝報道機関であるラジオ・スプートニクで、ショーハム氏が「IS(イスラム国)が、西側諸国に潜むスリーパーセル(潜伏工作員)に化学兵器の技術を移転した可能性がある」とのトンデモ説を示唆した前歴が指摘されている。

もっとも、ガーツ記者が書いたワシントン・タイムズの記事でも、ショーハム氏はあくまで可能性のひとつとして指摘したとされており、具体的な根拠となる情報があるわけではないことが明記されている。疑惑を断定していない。

生物兵器と断定しているメディアは少ない

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新型コロナウィルスの見えない影におののく市民。通りは閑散としている。

Betsy Joles/Getty Images

要するに、訂正文という形で立場を翻したデイリー・スターでなくとも、デイリー・メールもワシントン・タイムズも、デマどころか、もともとそれほど断定的な内容でもなかったわけだ。

ところが、これらの記事を根拠に数多(あまた)の陰謀論サイトが「やはり中国軍の生物兵器だった」と扇動的に拡散した。陰謀論の拡散ケースとしてはよくあるパターンだ。

新型コロナウイルス生物兵器説は、典型的なフェイク情報拡散の仕組みで誕生した、根拠なき陰謀論である。何か裏づけとなる決定的な情報がスクープされるような状況の変化でも起きない限りは、無視するのが賢明だろう。


黒井文太郎(くろい・ぶんたろう):福島県いわき市出身。横浜市立大学国際関係課程卒。『FRIDAY』編集者、フォトジャーナリスト、『軍事研究』特約記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て軍事ジャーナリスト。取材・執筆テーマは安全保障、国際紛争、情報戦、イスラム・テロ、中東情勢、北朝鮮情勢、ロシア問題、中南米問題など。NY、モスクワ、カイロを拠点に紛争地取材多数。

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