東京、防衛省の近くに位置するマンションの一室。 もう8年も前の話だが、学生時代、シマオはキャットシッターとして、その部屋に棲む猫の世話をしていた。
その部屋の主、つまり猫の飼い主は、元外務省職員であり、神学の研究者。猫の習性から国際情勢、政治、歴史まで、膨大な知識を蓄え、また鋭い洞察力を持つ人物だった。
一見怖そうにも見えるが、多忙な仕事の中でも、愛猫を慈しむことを忘れない。 無類の猫好きであるその人の名を、佐藤優といった。
この日、シマオは何年かぶりに佐藤さんの元を訪ねた。 聞いてもらいたい話があったからだ。 部屋に入ると佐藤さんは懐かしそうにシマオを見た。
人と人との軋轢や摩擦は、接触するから生まれる
シマオ:佐藤さん、今日は聞いてもらいたいことがあって来ました。僕はときどき漠然とした不安に襲われることがあるんです。今の仕事や自分の人生を考えると、このままでいいのか分からなくて。
佐藤優(以下・佐藤さん):不安? いったい何が不安なんですか? 仕事? お金? 人間関係?
シマオ:その全部です。今、この世の中において、自分の未来を肯定的に思えなくて。これから先、どのように生き、どのように働けばいいか、自分の将来がぼんやりとしか見えてこないんです。 20代の頃とは違い、何もないだだっ広い野原の中に一人、立ちすくんでしまっているような気持ちです。
佐藤さん:「ぼんやり」……。なんだかその悩みも曖昧ですね。悩みや問題点は切り分けて考えることが大切です。具体的に今いちばんあなたの気持ちを暗くさせているのは何なんですかね?
シマオ:人間関係……ですかね。会社での上司との距離の取り方や、同僚とのコミュニケーションがあまりうまくいってなくて。
佐藤さん:よく分かります。職場では多かれ少なかれ衝突や軋轢が起こるものです。むしろない人の方がおかしい。
シマオ:それは分かっています。会社はいろんな人が集まってきているものですから。でも一度関係がこじれると、会社に居づらいなあ、と感じ、暗澹たる気持ちになるっていうか……。
佐藤さん:君は上司や同僚みんなと良好な関係を築きたいと思っているんですか?
シマオ:え……そりゃいい関係に越したことはないな、と。
佐藤さん:人と人が集まる場において、みんな仲良くというのは完全に建前です。世の中には建前と本音の世界があって、「どんな努力をしても根本的に分かり合えない人がいる」というのをまずきちんと理解した上で人と向き合った方がいいですね。
シマオ:分かり合えない人間……。
佐藤さん:はい。人と人との軋轢や摩擦は、接触するから生まれるものなんです。なので、「この人は合わないな」と思ったら極力接触しない、会わないで済ませるという「摩擦の極小化」以外、解決する方法はないんです。
国際情勢から政治、神学、文学まで、あらゆる情報に精通している佐藤優さんは、まさに現代の“知の巨人”。
シマオ:摩擦の極小化……。でも仕事をしている以上、接触を避けられない時ってたくさんありますよね。それこそ嫌な上司の下について仕事をしなくてはいけないこととか……。
佐藤さん:そういうときは最低限の社交術で、人に難癖をつけられるのを回避することですね。
シマオ:社交術?
佐藤さん:はい。たとえば3回に1回は定例の飲み会や忘年会とかに顔を出し、二次会までは付き合うとか。あ、三次会は行かなくてもいいですよ。コミュニケーションを円滑にするためのこういうノウハウは馬鹿にできません。
シマオ:え……そんなこと今の時代もしなきゃいけないんですか?
佐藤さん:そうですねぇ。変わったと言っても、日本の企業文化はまだまだ根強いですからね。大企業へ入った場合なんかは、たっぷりと権限と給料をもらっている40代50代がまだまだ残っているのが現実。その人たちは、年功序列に守られている間はずっと会社にしがみつく。そう考えると、あと10年は変わらないんじゃないですかね。
シマオ:(気が重くなってきた……)
佐藤さん:まあ、嫌なのは分かりますよ。ただ、組織においては固有の文化があります。それはとても強固で、そう簡単に変わるものではないんです。
シマオ:上司の理不尽な命令に対しても、でしょうか?
佐藤さん:そうです。上司の顔を潰すようなやり方をすれば、きっと後でしっぺ返しを食らうでしょう。一つだけできる対抗策は、怒られないようにうまくサボること。つまり、摩擦を最小限にすることが、自分にとっていちばんの利益なんです。
シマオ:サボることが利益になる……。つまり佐藤さんのおっしゃっていることは、組織のあり方に応じて、もっとクールに、というかリアリストになれということ?
佐藤さん:私も在ロシア日本国大使館にいたときは嫌々カラオケに行ったりしましたけど、これも接点を極小にするためのテクニックの一つと割り切っていましたね。本心を言えば、まったく接触したくなかったのだけど、全部断ると余計な角が立つので、たまに参加し、行くときはとことん付き合っているという印象を付けるわけです。
シマオ:佐藤さんでさえそんなことを?
佐藤さん:そうでした。仕事の悩みのほとんどは人間関係です。仕事の生産性を最大化するためには、自分を煩わす人間関係はできるだけ少なくすることです。
私は外務省で働いていた頃、余計な人間関係を作りませんでした。別に感じ悪くするということではなく、仕事における摩擦を極小にする。そのために、メールだけですむ人とは顔を合わせず、必要最低限の挨拶、やり取りですませ、他のことには首を突っ込まない。無関心でいる。これが人間関係に悩まない唯一の方法です。
シマオ:摩擦の種を蒔かないということでしょうか?
佐藤さん:そう。人と人とは関係が複雑になればなるほど摩擦が起きる。大使館での人間関係も密接になりすぎると必ず後でトラブルが起きるので、適切な距離を維持することを心がけていました。 国を越えての付き合いはなおさらです。
仕事の同僚は「友だち」ではない
シマオ:では逆に佐藤さんが大切にする仕事上の人間関係とはどういうものなんですか?
佐藤さん:私の場合はものすごくドライですよ。外交官時代、私が仕事で付き合う人は「情報を持っている人」「好きな情報を教えてくれる人」。この2通りしかありませんでした。だから、その先の人間関係とか、そういったような価値観は仕事の中で一切求めませんでしたよ。
シマオ:え! なんかすごくさっぱりしてますね。仕事帰りに飲んだり、愚痴を言い合える友達とかはいなかったんですか?
佐藤さん:愚痴の言い合いなんて、最も時間の無駄ですよ。そんなことをしたって仕事がうまくいくわけではないでしょ。ネガティブな話や後ろ向きなエネルギーは、仕事にも私生活にも悪影響しかありません。 それに私が愚痴を言うときは、ちゃんと相手に伝わるように言いますね。それは相手に対する警告ですから、ちゃんと効果があるようにわざとはっきり言うんです。
シマオ:それ、嫌われませんか?
佐藤さん:嫌われますよ。嫌われますけど、快適ですよ(笑)。仕事の関係なんて仕事がうまくいけばいいんだから、嫌われてもいいんです。だって友達じゃないですから。
シマオ:友達じゃない?
佐藤さん:ええ。同期や同僚は仕事上の付き合い。決して友達ではないと思っています。
シマオ:え、でもバーベキューをしたり、休日も遊びに出かけたり……。そんな友達のような関係に憧れますが……。
佐藤さん:厳しい言い方かもしれませんが、社会に出てからの同僚、知り合いは利害関係でつながっている人たちなんです。会社であれば、ビジネスで利益を上げることを共通目標とする人たちだから、仕事から離れたらその人脈は何も残りません。
シマオ:そんな! 僕には気が合う同期もいますし、仕事が変わっても友達でいる気がします。
佐藤さん:それはあなたが、「その人にとって付き合っていてメリットがあるような仕事」についている場合だけかと思います。
私は42歳のとき、鈴木宗男事件(注1)と呼ばれるロシア外交をめぐる事件に連座して、背任と偽計業務妨害の容疑で逮捕されました。外交官として信念をもって働いたつもりでしたが、当時の小泉(純一郎)首相の改革路線との齟齬が、あのような国策捜査につながったと理解しています。 そのとき、それまでの人脈がなくなるということを、私は身をもって体験しました。512日間における拘置所での生活は、私に人間の本質を教えてくれましたよ。
(注1)鈴木宗男事件:2002年、当時衆議院議員だった鈴木宗男氏がロシア外交(北方四島支援事業)などをめぐる汚職疑惑で逮捕された事件。佐藤さんはこれに連座する形で、背任と偽計業務妨害の容疑で逮捕、起訴された。512日の拘留の後、保釈される。2005年に執行猶予付きの有罪判決が確定、失職することとなった。
シマオ:みんな、手のひらを返すように離れていった?
佐藤さん:そうです。外務省はまさにそういう人たちの集団で、成功している時は多くの人が私を利用するために近づいてきましたが、失敗した時は蹴落とされました。 外交官時代に親しくしていた新聞記者たちは200人以上いたけれど、付き合いが続いた人はたった3人でした。100人を超える記者たちと連絡を取っていましたが、当時メディアで圧倒的だったバッシングに対抗するような記事を出してくれた人は1人だけでした。
シマオ:それは、相当なショックですよね。
佐藤さん:でも私はそんな人たちを責める気持ちはまったくありません。その人たちも自分の仕事をしたまでです。私は大使館時代に、ソ連崩壊前後のさまざまな政治事件を目の当たりにしました。一つの国が壊れていく中では、政治家も官僚も情勢に応じて、さまざまな思惑で動きます。最終的に、利害によって人心は離れていくものだということは、経験から知っていました。
職種の違いはあれども、これはどの仕事でも言えるものだと思っています。定年後、それまでの人付き合いが一気になくなり、自分の居場所が見つけられないという人が多いのは、仕事を基盤にした人間関係に重きを置き続けていたからなんです。
ソ連崩壊という激動の時代を生き抜いてきた佐藤さんは、人間の本質を目の当たりにした。
シマオ:そんな割り切れるものですか?
佐藤さん:割り切れます。私から見れば、仕事上で利害関係のない友達ができるほうが不思議です。 それは本当に真面目に「働く」ことと向き合っていない
シマオ:じゃあ、佐藤さんは仕事上の付き合いでは友情や信頼は成り立たないと?
佐藤さん:利害関係のない友情は成り立たないけど、仕事の信頼関係は築けますよ。利害関係のない友人ではないからといって、敵対関係にあるということじゃないんですから。むしろ、その利害関係を含んだところで、意見を調整しながら一緒に競争の中で生き残っていくことが大切だと思っています。
シマオ:会社の中では利害関係を認識して行動していくことが潤滑な人間関係を築くポイントということ……。
佐藤さん:はい。そこで大切になるのが「派閥」というものなんです。
シマオ: 派閥? なんでまた今の時代に……古すぎませんか?
佐藤さん:いや、そうとも言い切れませんよ、というのも——。
※本連載の第2回は、2月12日(水)を予定しています。
(構成・高田秀樹、撮影・竹井俊晴、イラスト・iziz、編集・松田祐子)
佐藤優:1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。85年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月有罪確定。現在は執筆や講演、寄稿などを通して積極的な言論活動を展開している。